第110話 庶民と王女

 楽師達が都へ戻ってきた。鳴紡殿の門をくぐると、馬車の中は安堵の空気で満たされる。行きは流民達との遭遇など、危険な事件があったこともあり、例年以上に緊張感の耐えない旅であった。ようやく住み慣れた場所へ身を落ち着かせられるのかと思うと、やはり肩の力が抜けるのである。


 一度広間に集められた楽師達は、王宮から派遣されてきた文官と、社からやってきた高位の神官から労いの言葉を受け、首席、アオイの言葉を合図に解散する。


 コトリは自室へ入ると、少しカビ臭い気がして、外に通じる戸を開け放った。ここを居と定めて半年あまり。すっかり「帰ってきた」という心境になる。


 サヨは、コトリの分を含めて、二人分の荷解きを始めていた。元々恵まれた身分にある二人だ。わざわざ地方で何かを求めるということもしなかったために、荷物は出発前からほとんど増えていない。それでも、目に見えない収穫は山のようにあったと感じるコトリである。


「サヨ、片付けは後にしましょうよ」

「ですが」


 元侍女だけあって、サヨはきちんとしたところがある。未だにコトリの身の周りは常に完璧に整えておきたいと思ってしまうのだ。


 コトリは、サヨの手が止まらないのを見て、小さく笑った。


「サヨは本当に働き者ね」

「そうでしょうか?」

「私は、そういった労働をしたことがないもの。先日出会った流民の皆さんも、凄かったわね」


 コトリは、例の奇跡によって出来上がった恵み溢れる土地に、流民達が早速村を作ろうとしていたのを思い出す。女達は川で洗濯をしたり、果実を収穫したり。男達は食糧となる獣を狩りにいったり、遠くの森から木材を運んだりしていた。足の悪い老人は若い者を指揮し、幼い子供も狭い歩幅であちらこちらを走り回り、親の手伝いをする。


 全てが、真新しく感じられた。しかし、サヨは言う。


「庶民なんて、ああいうものです。働かざる者は生きていけません」


 いかにも当然の事というような話しぶりに、コトリは恥ずかしくなってしまった。


 王女時代、コトリは庶民に憧れを持っていた。在りし日の母親アヤネから、庶民の生活の話を聞いていたこともある。けれど、それらは本当にごく一部の事で、大抵はコトリが想像がつかない程の理不尽の中で、必死に足掻きながら自分を守り、食い扶持を稼ぎ、大切なものを守って生きている。


 言葉にするとすぐに陳腐化してしまいそうだが、とにかく王女の身としては想像を絶する世界なのだ。


「私、庶民って、もっと違った営みをしているものだと思い込んでいたわ。実情は、生易しいものではないのね」


 コトリの雰囲気に飲まれて、サヨはようやく手を止める。


「そうですね。確かに王女よりは自由かもしれませんが、また別の不自由さが多くを占めておりますから、どちらが良いかとはいちがいに言えないかもしれません」

「私、何も知らなかったのよ。知った気になっていたの。庶民になりたいなんて……とんだ戯言だったわ」

「カナデ様」

「これに気づいてしまった瞬間から私、これからどうしたら良いのか分からなくなってしまって」


 幸い今のコトリは、庶民という肩書を背負いながらも楽師でもある。流民とは訳が違うので、この先もよっぽどの事がない限りは、あそこまで落ちぶれる事はないだろう。


 しかし、あの流民の惨状や嘆きを見なかったことにして、忘れることはできない。紫が、組織的に彼らを救う手立てを持っているが、コトリ個人としては何もできないままでいる。


 ふと、入団前、兄サトリと話したことを思い出した。未だに一応王女という身分があるコトリ。このままで、良いのだろうか。


「私に、できることってあるのかしら」


 サヨに尋ねているようで、自問もしている。心の中で暴れている何かが落ち着かない。そんなコトリを見て、サヨはふっと頬を緩めた。


「カナデ様、悲観することはありません」


 自分だけのことではなく、国民のことにまで心を砕くコトリは、真面目そのものだ。あの父親の子とは思えない程の気高さがある。それが、自分の主であることをサヨは誇りに感じていた。


「王女であれ、貴族であれ、庶民であれ、もちろん楽師であれ、皆人間なのです。それぞれの立場で、できることをすれば良いかと」

「そうかもね」


 まだ、コトリが返事する声色は暗い。サヨはコトリの傍に寄ってきた。


「私は、貴方様だからこそ、できることがあると思っています。慌てることはありません。今こそ、王女としての真価が問われる時。私が選んだ主に、越えられない壁はありません」

「サヨ」


 サヨがコトリの手を握る。コトリは、自分が一人でないことを、その伝わり来る体温から思い知らされるのだった。


「まずは、なるべく後悔しないようにと考えて行動されることです。カナデ様は、王女としてはあまりに不遇でした。でも、もうここは王宮ではありません。生きることや幸せになることに貪欲になっても、咎める人なんていないのです」


 確かに、父王の顔色ばかりを伺い、正妃からのお達しにも尽く従い、王宮の隅で隠れるようにして生きていた。豪奢な衣や輝石ばかりを買うでもなく、高価な絵画や書を集めるでもなく、慎ましい生活。


 自分を守ってくれるはずだった唯一の味方、母親も早くに失くし、他に後ろ盾もいない。宮中で流れてくるのは自分の悪い噂ばかりだった。もはや、新たに何かを欲する気力もなく、今思えば死んだように生きていた。人形のフリをしていた。


 だが、一つだけ諦められないことがあったのだ。


 カケルの存在。


 彼と再会したい。この間の逢瀬はあまりにも短すぎた。彼は、コトリを王女ではなく楽師として必要としている様子。それでもいい。


 もう一度無事に会って、手を取ってもらうためにはどうすれば良いか。その方法は――――。


「ありがとう。その通りだわ。やはり、この国を一度壊して、建て直さねばならないでしょうね」


 まずは父という障害を取り除き、今や国中で広がっている様々な争い事を収める。そうして平和が訪れれば、自ずとカケルの元へ続く道も開けるはずだ。


「はい。そのための紫であり、私、サヨがいるのです。王女という立場は厄介ですが、良い意味で影響力は大きい。それを上手くお使いになってください」

「そうね。王女で良かったと思える事を成し遂げたいわ」


 コトリは、ようやく琴姫として紫の先頭に立ち、王を倒してこの国をソラと併合させる覚悟が決まった気がした。これからもたくさんの困難が立ちはだかるだろう。でも、先日の流民との際のように、カケルへの気持ちと、ルリ神が降りている特別なシェンシャンがあれば、戦い続けられると思えるのだ。


 と、その時、サヨが荷物の中から一枚の木簡を取り出していた。どこか顔を引きつらせている。


「サヨ、どうしたの?」


 コトリの前ではいつも冷静に振る舞う彼女がソワソワしているとなると、気になるものである。


「いえ、何も」


 サヨは、小刀を取り出すと、無言で手にしていた木簡の表を削り始めた。コトリは、他人に読まれたくないことでも書かれているのであろうかと首を傾げていたが、追求はせずにおいた。


 なぜなら、その時のサヨの様子が、あまりにも可愛らしかったからである。プッと頬を膨らませて顔を赤らめているところに詳細を求めるなんて、さすがに野暮というものだろう。


「マツリ兄上から、何か届いたのかしら」


 コトリの勘違いした呟きは、秋の爽やかな風の中に掻き消されていった。


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