第107話 高官の秘事

 これは、クレナ国、都の話。


 とある男が朝堂殿を出て、足早に式部省へ向かっていた。そこは、人事や勤務評定をする部署。つまり、政治を統括する太政官の一人、弁官である彼の部屋があるわけではない。しかし、少しでも王の居る宮から離れなければならない事情があった。


 入ろうとすると、猫背の采女と呼ばれる下女が前を横切り、軽く足止めされる。ふと溜息をついて、入り口にある厳しい瓦屋根を睨むと、手に持っていた笏と勅符が、少し汗で濡れているのに気がついた。


 季節は秋。それも、冬の足音が聞こえそうなこの頃だ。乾いた風が足元を駆け上がり、衣の裾がふわりと浮く。


 左右に並んでいた衛士に目配せをすると、ようやく開けた道に足を踏み入れ、奥へと進んでいった。



 ◇



 到着を告げる。式部省長官は、一瞬目だけを来訪者の方に向けたが、すぐに手元の筆を握り直した。辺り一面にあるのは、巻物、綴じ本、木簡などの山。そこへ、几帳面な文字を書き入れては唸る、ということを繰り返しているらしい。


「見ての通り、忙しいのだ」


 そんなもの、今のクレナ王宮近辺はどこも同じ。しかし、人の差配を一手に任されている長官の彼が、特に忙しいというのは違いない。


「神具高騰の余波か」


 呟くように言うと、白髪の混じった頭が小さく上下した。


「ワタリ王子といい、王といい、何てことをしてくれたんだ。ソラの神具なしに、国が動くわけがないというのに」


 先だって、ソラの王子――――今は王になったが――――を怒らせた結果、神具がこれまでの値段では手に入らなくなってしまった。元々クレナは貧しい。ソラが求めるだけの金子を払うことは、もはやできなくなっていた。


 となると、これまで神具を使って時間短縮していた仕事を全て人力でせざるを得なくなる。そこで式部省は、多くの日雇いの人夫を集めて、人手の足りない部署に割り当てたが、それだけで解決出来る程、事は簡単ではない。


 そもそも、神の力は奇跡そのものである。例えば、水。これまでは、水の神具さえあれば、どこでも水を得ることができていたが、今は井戸から汲んで、必要な場所に運ぶことになる。


 それには桶が必要で、通る道も用意せねばならない。もちろん、いつ誰が誰の命を受けて誰の元へ運ぶ、などといった段取りもある。そういった仕事が鼠算のように増えて、今、式部省を強烈に圧迫しているのであった。


「落ち着け。怒っても何も変わらぬ。それよりも、これを見てくれないか」


 男は勅符――――王からの指示が書かれた公文書――――を広げると、ようやく式部省長官は手を休めて寄ってきた。


「またか」

「まただ」


 それだけで全て通じ合えてしまうのが、どこか悲しい。そう、この勅符は、またもや無理難題を官に押し付けるものなのだ。


 長官は、ざっと目を通すと頭を激しく掻きむしる。臭い。もう、衣に香を炊きしめるといった身だしなみもできぬ程、多忙を極めているのだろう。つまりは、もう何日も自身の屋敷には帰れていないということだ。


「さすがに無理だ」

「だろうな」


 と言って、肩を落とす。


 此度は、こんな指示だった。

 ソラでは、瓦版というものが庶民にまで出回っており、そこではソラの新王とクレナのコトリ王女の婚姻が間近だと騒がれていると言う。コトリを帝国へ遣りたい王にとっては、勝手に娘を嫁にと取り沙汰されるのは腹が立つらしい。


 そこで、この発行元を取り締まり、コトリは喜んで帝国へ嫁ぐつもりでいると瓦版に書かせよ、とのことなのだが、無理を通り越した無茶にしか思えなかった。


 だいたい、他国に影響を及ぼせる程、クレナという国は大きくもなければ強くもない。しかも、ここまで大々的な瓦版、さらには王族にまつわる話ともなると、ソラ王家も黙認している内容だろう。そこに手出しができると考える王の思考回路が、真面目に分からないのだ。いや、分かっている。つまるところ、王の頭がおかしいのだろう。


「もうこれは、ソラへ人を送って鋭意対策している、ということにしておくしかあるまい」

「そうだな。詳細については、またサトリ様にでも相談しよう」


 二人とも、王を誤魔化すことは可能だと信じ切っている。何しろ今の王は、頻繁に身が危険に晒されているのだ。あまり他にかまけていられる心境ではないはずだ。


 ちょうど昨晩も、どこかの村から郎党がやってきて、王を盗賊呼ばわりした挙げ句、王宮に攻め入ろうとしていた。


 もちろん、すぐにそれらは衛士達の槍の餌食となり、川原に死体が高く積まれることになったのだが、それでも王は怯えて宮の奥から出てくることは無いという。


「こんな仕事、こんな生活、こんな暗い世の中、いつになったら終わるんだろうな」

「それをお前が言ってしまっては、もう、おしまいだろう」

「既に終いだ、こんな国」


 国の中枢の人間が吐く言葉ではないが、あまりにも的を得ていて、男は堪えきれずに笑う。長官は、不機嫌そうに目を細めた後、再び筆を手に取った。


「まぁ、待ってくれ。もう一つある」

「もうたくさんだ。勘弁してくれ」

「いや、これは見ておいた方が長生きできるかもしれないぞ」


 次に取り出したのは、小さく折り畳んだ文である。紙の端が紫になっているものだ。長官は、あ、と声を出しかけて、止めた。


「もしかして、そちらにも、届いていたか」

「もう、三度は受け取っている」


 それは、とある筋から届いた紫への誘いであった。サトリは既に紫側であること。ソラとの繋がり、各地に広がる情報網から得られた国内情勢も含めて、かなり詳しく組織について明らかにされている。その上で、「紫につかないか」と問うているのだ。


「どうする気だ?」


 答え次第では、正に国家転覆罪に問われてしまう。それは分かっているものの、もう二人には限界が訪れていた。


「一人で行くのは、厳しい」


 長官が言う。


「ならば、共に」


 元々年齢が近く、出身の家の格も似たりよったりで、これまでも何かと協力する間柄ではあった。二人とも王の手下として、散々良いように使われ、疲弊しきっているのも同じ。既に、他人には聞かれてはならぬ話もしてしまっている。ここまでくれば、一蓮托生だ。


「懐柔されたというよりも、頭を下げて寝返りたい気分だな」

「そこまでか」

「そりゃぁ、もう……」


 男は、本音を漏らしすぎたかと思い、何とか言い繕おうとする。


「ソラの瓦版によると、クレナは信仰が薄れているから神に見限られて、恵みが減り、貧しい国に成り下がっているそうだ。まず、王が神を信じていない。他にも心当たりが多すぎる」

「もはや、滅ぶのを待つばかり、か」

「それは、不味いだろう」


 これでも、国の中枢を担ってきた。簡単に国の形が無くなっては、ここまでの努力、血が滲むような出世争い、そういった自分を全否定するようなもの。この国が完全に狂って、潰れてしまう前に、次の王たる者に引き継ぐ準備をせねばならない。そういった使命感に駆られているのである。


「次の王か。そんな器の者が、この国に残っていると思うのか?」


 男の話を聞いた長官は、本当に疲れた顔をしている。


「順当にいけばワタリ王子。でもアレは現王とさして変わらぬ。かと言って、他の王子も決め手に欠ける」

「だからこそ、紫の言うとおり、ソラの王の元へ下るということか」


 それは、人に尋ねるというよりかは、自身に言い聞かせているようであった。もう、それしか道が無いという風に。


「少なくとも、ソラの王に悪い噂は無いし、国民も元気。帝国圏と隣り合っているにも関わらず、土地を侵略されないだけの力も保持している」

「そうだな。あの国ならば、文句は無い」


 少なくとも、帝国に飲み込まれるよりは、ずっとマシなはずだ。


「今ならば、今後新たに立つ王から、悪事に手を染めた者として罰されることもないだろう」

「あぁ。みすみす炎に突っ込んでいく蚊になることはあるまいて」

「蚊? それは過小評価しすぎだ。我々は歳だが、伊達にこの地位にいるわけではない。新王が作る新時代でも、十分役に立てるはずだ」


 男は、声に出して気持ちを語ってみると、急に気が漲り始めるのを感じた。


「よし。私も腹を括る」

「ありがたい。共に、まだ死ぬわけにはいかないからな」


 その後は、その晩にでも文の送り主に返事をすることを話した。そして、近頃は都の内外で今世の琴姫であるコトリ様を崇拝する動きが強まっていることから、遠からず社を参拝することを約束するのだった。


「やはりここは、琴姫に守られし国。お縋りするしかないだろう」


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