第2話
あれは中一の秋頃のこと。
その日掃除当番だった私は、放課後の閑散とした廊下を、ひとり大きなごみ箱を抱えて歩いていた。
チビで体力のない私である。少し歩いては小休止、そしてまた「うりゃ」と気合いを入れ、重たいごみ箱を持ち上げて歩く。そうやってごみ集積所までの長い道のりを歩んでいた。
何回目の「うりゃ」だったろうか、突然ごみ箱がフワッと軽くなり、虚を突かれた私は体勢を崩してよろめいた。
「おっと、大丈夫?」
ドン、と背中に何かが当たった感触に驚いて振り返ると、やたら背の高い男の子――当時身長140cm足らずの私比――が、私の背後から手を回してごみ箱を持ち上げていた。
「何だか重そうだな、と思ってさ。手伝うよ」
彼は白い歯を見せてニコッと笑い、あの重かったごみ箱を片手で軽々と持ちながら、颯爽と歩き始めた。
「あ、ありがとう……」
物心ついた頃から極度の人見知りで、特に異性に対しては何の免疫も持っていなかった私。
男の子に優しくされた記憶なぞ皆無に等しく、「手伝うよ」などという至って日常的な一言すら、私をキュン死たらしめるに充分な殺傷能力を持っていた。
そして私はこの一瞬で、『恋のウイルス』に全身を冒されてしまったのだった。
☆ ☆ ☆
かくして、私の初恋相手となった彼の名は、英太君。
明朗活発、頭脳明晰、更には運動神経も抜群で、一年生の時から野球部のレギュラーに抜擢される程の実力を誇り、周囲に明るい光を振りまく太陽のような存在だ。
そんな彼とは対極的な私、遥香。特筆すべき長所は何もなく、性格は極めて内向的で、趣味は妄想。クラスでも全く存在感のない、いわゆる『陰キャラ』である。
まさに光と影、果たして同じ人類なのかと疑わしいほど途方もない格差を自覚しながらも、彼への恋心で胸が一杯、時折呼吸困難に陥るほど好きになってしまった私。
それからはストーカーのように、そっと陰から彼を見つめ続ける日々が始まった。
彼への想いを綴った詩集も作った。
記念すべき一作目、真夜中に書いた『私はピエロ』という詩を翌朝読み返したら恥ずかし過ぎて死にたくなった。
詩やラブレターの類は深夜の世界観で書くべきものではないと気が付いたが、それでも懲りずに沢山書いた。
私のこの気持ち、いつか彼に届きますように……。
だが、私の前に立ちはだかったのはスクールカーストの厚い壁だった。いつも大勢の級友に囲まれている彼に、私みたいな
二度巡ってきたバレンタインデーも、折角作ったチョコレートは自分で食べてしまった。
結局彼に気持ちを伝えられぬまま、卒業まで残り半年になった。おそらく私の初恋は、青春のほろ苦い蹉跌として、このまま何もなく終わってしまうのだろう。
所詮は成就するはずのない、身分違いの恋だったのかもしれない。
☆ ☆ ☆
「はあ……」
また大きな溜め息ひとつ。
ヨダレでシワシワにふやけた数学の参考書。
彼との学力差を少しでも縮め、あわよくば同じ高校に……。そう思って先日買ったばかりのものだ。
しかし、毎回勉強を始めるやいなや失神してしまう私には、全く意味がなかった。ただの高性能な睡眠誘導装置である。
ああ、恋も、勉強も、もはや諦めたほうが良いのか……。
そうだ、人間諦めが肝心だ。そうやって色々なものを諦めながら私は生きてきた。決して光を浴びることなく、石の下を這いずり回る日陰者の
何だか泣けてきた……。
☆ ☆ ☆
ふと、ぼやけた視界にカレンダーが映った。
八月二十一日の欄には、『地区大会決勝戦』と書き込んである。
彼に恋をして以来、野球部の試合が行われる度、誰にもバレないよう帽子と眼鏡で変装しながらこっそり観に行っていた私。
グラウンドで躍動する彼の姿が大好きだった。
だが、中学最後の大会となる、この地区予選。これまで彼の出場機会はない。どうやら彼は肘を痛めていて、満足にボールを投げられない状態らしい。
本来正遊撃手の彼が、ベンチで大声を出して仲間を鼓舞する役割に徹していたのを、私はスタンドの隅っこで見ていた。
三日後の決勝戦も、彼の華麗な守備や鋭い打撃を見ることは難しいかもしれない。
ああ、あんなにも一生懸命練習してきたのに……。
何だか自分のことのように悲しい。また涙が出てきた。
でも、私にはどうすることもできない。彼の肘が奇跡的に回復するよう祈るくらいしか……。
ん……?
肘? 関節?
私は何かを思い出した。そして両親に悟られぬよう、そーっと階段を降り、電話の子機を持って再び自室へ帰還。
ごみ箱からクシャクシャのメモをサルベージして、先程記した電話番号に掛けてみた。
☆ ☆ ☆
「ハーイ、テレビでお馴染み、魔女の宅配便です!」
オペレーターは、やたらテンションの高い女性のようだ。
「あ、あの……、さっきの番組を見てお電話させてもらったんですが……」
「まあ、ありがとうございます! 恋のミラクルポーションのご注文ですね!」
「は、はい……」
「こちらのお薬は二種類のタイプがございまして、意中の相手に飲ませる服用タイプと、相手の肛門に注入する浣腸タイプがございますが、どちらをご希望ですか?」
「か、浣腸タイプ!?」
「ええ、臨床データによりますと、浣腸タイプのほうが即効性があるということで、こちらを選ばれるお客様も多数いらっしゃいますよ。浣腸タイプにされますか?」
いやいや、それを買ったとして、一体どうやって彼のお尻に突き刺せというのか?
そもそもそんなシチュエーションに持って行ける時点で、既にクスリなど必要ないレベルの親密な関係だと思うが……。
「い、いえ……、服用タイプでお願いします」
「さようでございますか……。では、服用タイプをお送りしますね」
なぜかちょっと残念そうだったオペレーターによると、商品は入金確認後すぐに発送し、明後日には私の手元に届くとのこと。良かった、ギリギリ間に合いそうだ。
☆ ☆ ☆
彼の肘が回復する可能性があるならば、私はそれに賭けてみる。
とにかく彼の役に立ちたい。その一心で、私はこの魔法の薬を注文したのだ。
……いや、それは
何か切っ掛けが欲しかったんだ。
結果を恐れ、勝負を後回しにしてきた今までの私。
勝手に諦め、自分の心が傷つかないようにしてきた今までの私。
できない理由を必死に探しては、良さげな言い訳が見つかったと安堵していた愚かな私。
いつか変わらなければ……、そんな自分にサヨナラしなきゃいけないとは思っていたんだ。
これを機会に、ほんの少し勇気を出してみよう。
自分を守るために閉じ籠っていた殻を割ってみよう。
「まあ、ダメで元々だしさ……」
まだそんな心の予防線を張りながらも、入金のために急ぎ足でコンビニへ向かう、今までとは少し違う私がいた。
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