第6話

もうすぐ四時間目の授業が終わる。

体育は別として、三つの科目の授業を受けたわけだが、内容のレベル自体は低くは無かった。

全日制で既に習ったところだから復習しているような感覚で、受験生である俺としても無駄にはならないと思えた。


九時を過ぎたところでチャイムが鳴る。

ずっと寝ていた生徒が目を覚まして伸びをする。

この生徒は、確か一時間目から寝ていたはずだ。

席の位置からすると、工場の夜勤をしている島田君だろう。

「朝から夕方までパチンコしてたから眠いわー」

寝ろよ!

授業中の眠りに尊さすら感じてた俺の純真を返せよ!

「やっと起きたな。これからどっか寄ってくか?」

「いや、十時から仕事だから帰るわ」

……そっか。

これから仕事なんだな。

朝まで働いて、昼間に遊んで、夕方からの学校で眠ってしまったところで、まあバチは当たらないよな。

窓の外を見れば、夜景が広がっている。

街の灯りを見ていると、遊びに行きたい気分にもなるし、逆に、早く家に帰って眠りたくもなる。

そのせいか、放課後のざわめきみたいなものはすぐに霧散する。

時間も時間だし生徒数が少ないからでもあるけど、太陽の光の無い、蛍光灯だけに照らされた教室には、何かわびしさのようなものも感じてしまう。

あおい

あかねが立ち上がりながら声を掛けてくる。

「途中まで一緒に帰ろっか」

俺もうなずいて席を立つ。

俺と茜、それからスミちゃんが廊下に出ると、教室に残っていた先生が「気を付けて帰れよ」と背中に声を掛ける。

ありふれた、でもおざなりではない挨拶に、俺は振り返って頭を下げた。

夜の九時過ぎというのは、まだまだ一般的な活動時間ではあるけれど、全ての高校生が自由に出歩ける時間でもない。

日中だとただの挨拶だが、定時制の先生としては心配なことであるのだろう。

……ん? そういえば、いま先生はほうきを持っていたような?

「茜」

「なぁに?」

「定時制って、放課後の掃除はどうなってるんだ?」

「毎日か判んないけど、先生が授業の後にやってるよ」

「生徒は!?」

「やったことあったっけ?」

茜がスミちゃんに尋ねる。

「高校は授業料を払ってるから先生がするものだと思ってたけど」

そんなワケねー!

別にみんながサボってるわけじゃないのは判ってるけど、何だかムズムズする。

全日制と定時制は関わることは無くても、自分達の使った教室を綺麗にした上で、次に使う人達に引き継ぐという意識は持っていたい。

「俺、手伝ってくる! 二人は遅くならないうちに帰れ」

「ちょっと、葵」

教室に引き返そうとした俺の右腕を茜が掴んだ。

何故かスミちゃんがムッとした顔をして、しばら躊躇ためらうような素振りを見せてから俺の左腕を掴む。

何故に?

まるで拘束されたようではないか。

「いま葵が自分で言ったでしょ」

「何を?」

「私達に早く帰れって」

「ああ、言ったけどそれが?」

「気を付けて早く帰ってほしいから先生が掃除してくれるんだよ」

「でも俺は男だし」

「男女関係無く先生はそう思ってるの。それに、ここでは葵に徹しろ」

茜……。

「男といっても貧弱軟弱脆弱意志薄弱。よわよわ。私の方が強いんじゃないかしら」

取り敢えず力の弱いスミちゃんの手は振り払っておく。

ああっ! という顔をして再び手を伸ばしてくるが、今度は掴ませない。

「というわけで」

茜はニヤッと笑う。

「葵一人で抜け駆けはダメだよ。みんなでぱぱっと片付けなきゃ」

掃除なんて普段はやりたくないのに、不思議とやる気が満ちてくる。

意気投合、と言うには、我儘スミちゃんがちょっと不服そうな顔をしているけど、それはポーズみたいなものだ。

何故なら、一番早く教室に向かって歩き出したのはスミちゃんなのだから。

「先生、私達も手伝いま──」

「さっさと帰れ!」

……怒られてしまった。

まあ、娘を心配する父親みたいな顔をしてたけど。


校門を出たところで、また俺の知る全日制とは全く違う雰囲気になる。

学校の敷地に沿って車やバイクがズラリと並び、カーオーディオやマフラーの音を辺りに響かせているからだ。

生徒を迎えに来た保護者の車も散見されるが、彼女を迎えに来た車や、これから友達と遊びに行く車がほとんどなのだろう。

高校に通い出した頃、俺は何度か葵を迎えに来たことがあるから、この光景を初めて見るわけでは無い。

ただ、当時は葵をこんなところに通わせていいものか随分と悩んだりもした。

もっとも、後ろを歩いているスミちゃんなんか、葵以上にこの学校に似合わないのだが。

「なによ?」

振り返ったので目が合う。

「いや、スミちゃんのご両親は──ん?」

学校から少し離れたところで、道路脇に駐車中の車から手を振る人がいる。

学校前に停まっている車とは毛色の違う高級外車だ。

ヤバい人かも知れん、と身構えると、車から若い男性が降りてきた。

あれ? スミちゃんに似てる?

すみれ、お疲れ」

多分、スミちゃんのお兄さんだろう。

長身で美形、おまけに高級車。

間違いなく女性にモテそうだが、恐らく毎晩スミちゃんを迎えに来ているのではないか。

うん、俺には一目見て判る。

コイツ、シスコンだ。

「運転手さん、今日は必要無いから一人で帰って」

運転手さん!?

いや、お兄ちゃんでしょ!? 

スミちゃんは事務的な口調でそれだけ言い、スタスタ先に行ってしまう。

苦笑しながら茜も後を追う。

俺は……妹を大事に思う同じ兄として、どうも放置する気にはなれない。

「あ、あの、菫さんと一緒に帰ることになってて、その、ちゃんと家まで送ります」

これでいいよな?

女の子同士で帰るんだから、シスコンの不安は払拭ふっしょくされる筈。

「えっと、葵ちゃん、じゃなくて日向ひなた君、だよね? 久し振り!」

え? なんでバレてるの?

ていうか、子供の頃に会ってたっけ?

「大きくなったね、見違えちゃったなぁ!」

そりゃ、女装してますし?

「いやあ、迎えに来るのは日課なんだけど、今日に限って無視されちゃってさぁ。でも、なるほど、そういうことか」

何か一人で納得してウンウンと頷いている。

「日向君!」

「は、はい」

「兄として」

シスコンとして?

「君に菫を委ねよう」

え、いや、ただ一緒に帰るだけですが?

「でも、懐かしいよね」

いえ、あなたのことは殆ど憶えてないんですが。

「昔、君達と菫が遊んでた時に、よく混ざってくる男の子がいたよね」

そういえばいたような?

「でも結局、菫が毒舌でボロクソに言って追い返してたよね」

そういえばそんなこともあったような。

俺も昔からスミちゃんにはボロクソに言われていたが、基本的には品行方正な女の子だった。

彼女が毒舌を発揮するのは、俺と、何故かその男の子だけだった。

「あれ、僕だから」

アンタかよ!

「二日前に、菫の携帯にメッセージの着信音があったんだ」

そんなのいちいち確認出来るほど珍しいことなのか!?

「そこから、久し振りに君の悪口が始まった」

「え?」

「昔は君の悪口ばっかり言っているような子でね、それが元気のバロメーターみたいな」

随分と嫌な指標だな。

「昔話や、君が女装して学校に来るらしい、なんてことをこの二日間クソミソに言ってたけど、元気だったなぁ」

随分と嫌な元気だな。

……でも、元気で良かった。

葵が事前に俺のことを伝えていたということは、きっと、力になってくれると思ったからだ。

そして、沢山の悪口を言えるくらい、スミちゃんの中に俺というものが残っていたのだ。

それは俺にとって、どちらも嬉しいことに違いない。

「日向君」

「はい」

「あの子の面倒を見るのは色々と大変だろうし、君の状況も難しい立場だけど」

「いえ、そんな」

確かにまあ、気難しいというか、我儘お嬢様であり、俺は俺で様々な困難におちいるかも知れない。

「でも大丈夫。僕は百合にも男のにも理解あるから!」

お兄さんの爽やかな笑顔は男から見ても魅力的だ。

力強い口調も頼もしい。

でも……誰もそんな心配しとらんわっ!

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