美術研究会

 それから壱樹先輩はいろいろと説明してくれた。再び歩き出しながら。

 向かう先はカフェではなかった。カフェでできる話ではないからかもしれない。

 入ったのは公園だった。子供が遊ぶような遊具のある公園ではなく、自然公園で、散歩をして景色を楽しむようなところだ。

「ビケン、っていうのは、『美術研究会』の略称なんだけど」

 大学に美術研究会、というものがある。

 それは美大を目指すひとなら誰でも通える教室のようなものであるそうだ。

 そこで絵の技術を磨いていく。

 同じ、絵画を極めたい若いひとたちがたくさん集まるそうだ。

「俺も通いたいと思ってたんだけど、なにしろ忙しくて。諦めちまったんだ」

 だから壱樹先輩から『ビケン』の話を聞くことはなかったのだろう。

 急展開に浅葱はただ話を聞くしかなかったのだけど。

「浅葱はいいリーダーになると信じてる。でもこの提案は、部活以外にも取り組むことを増やしちまうとか、そうなるかもしれない。勉強もあるだろうに」

 そのあと言われたことに、かっと胸が熱くなった。

「でも浅葱ならやれるかもしれない、と思ったんだ。ビケンでより高い技術を習う気はないか」

 胸が熱くなると同時に、ぽかんとしてしまう。

 思ってもみない提案だった。

 そもそもビケンというものの存在を初めて知ったのだから、仕方がないけれど。

 でも思った。

 やってみたい、と。

 壱樹先輩の話を聞くに、ずいぶんレベルの高い集まりらしい。

 自分がその中に混じってやっていけるかという心配も浮かんだ。

 けれど、壱樹先輩が「浅葱ならついていける」と思ったから誘ってくれたのだろう。

 おまけに部活や勉強との両立もやれるかもしれない、と言ってくれた。

 それはここまでの浅葱の頑張りを見ていてくれて、評価してくれたから言ってくれることなのだ。

 すぐに返事なんてできない。

 もっとよく考えないといけないし、お父さんやお母さんに相談だって必要だろう。

 でも今の気持ちを伝えることなら。

「やってみたい、です!」

 浅葱がそう答えることはわかっていた、というように、壱樹先輩は笑った。ほろっと、花がこぼれるような優しい笑みで。

「そうか。すぐには決められないだろうから、家とかでも話し合って」

「はい! そうします!」

 多真美術大学の付属なのだ。きっと壱樹先輩の近くで過ごす時間がちょっとでも増えるだろう。

 思った浅葱だったが、次の言葉にもっとおどろいてしまった。

「実は、俺も通おうと思ってるんだ。大学生も授業にプラスして通えるからさ」

 仰天した。

 一緒にいられる時間が増える、どころではない。

 それは今まで、美術部で一緒に過ごしていた時間と似たように、同じ場所で絵を描いて頑張ることができるという意味ではないか。

「えっ……な、なんで先に言ってくれないんですか!?」

 浅葱の声はひっくり返った。そういうことなら先に言ってくれても良かっただろうに。

 壱樹先輩はまた笑った。今度のものは、たまにあるような、浅葱をちょっとからかうような笑い方。

「悪い悪い。でも、俺がいるから来い、なんて言ったら強制みたいになるだろうと思ったからさ」

「そ、そんなこと……」

 壱樹先輩が言ったことはその通りだった。

 浅葱の気持ちで決めてほしい、と思ってくれたのだろう。

 純粋に絵を頑張りたい、という気持ちで決めてほしい、と。

「壱樹先輩がいる、いないに関係なく、行きたいって思ったに決まってます」

 嬉しかったけれど、からかわれたのは不本意ではなくて。浅葱の言葉はちょっとすねたようになった。

 壱樹先輩はまたそれを見て「悪い悪い」と笑うのだった。手を伸ばしてぽんぽんと浅葱の頭を撫でる。

 ごまかすようなこと、と思ったけれど、嬉しくないわけがない。

 浅葱はきげんを直すことにした。

 でもちょっとだけ気になったことが生まれた。

 言うかためらった。

 言っていいものか。

 しかしいい機会かもしれない。

 浅葱はごくっとつばを飲んだ。思い切って口に出す。

「あの、……曽我先輩、という方も、いらっしゃるんですか」

「……え? どうしてだ」

 浅葱の言葉は唐突だったかもしれない。今度は壱樹先輩がきょとんとした。

「いえ、美大にいらっしゃるって聞いたので、多真美やビケンにもいらっしゃるのかな、と……」

 声はだんだん小さくなっていってしまった。こんな、気にしているようなこと。

 いや、実際気にしているし、だからこそ聞いてしまっているのだけど。

 壱樹先輩はしばらくだまっていたけれど、「……ああ」と、納得した、というような声を出した。

「いや、いないよ」

 その答えに浅葱はおどろいた。てっきり「そうなんだ」と言われるだろうと思っていたので。

 いない?

 多真美にも、ビケンにも?

 どういうことだろう。このへんでも最高ランクの美大なのだ。賞を総ナメなんて言われているひとがいないなんて。

「曽我先輩は海外だよ」

 今度はおどろいたどころではなかった。口が開いただろう。

 ぽかん、としてしまう。

 海外!?

「同じ部活にいたって、曽我先輩の技術は桁違いだったからな……海外の美大を受けたんだよ。そんで、あっさり受かっちまった。まったく、世界が違うことだ」

 壱樹先輩はあきれたようにも聞こえる声で言った。どこか遠くを見るような顔になる。

 曽我先輩のことが懐かしいのだろう。

 そして、その技術や評価をうらやましいと思う気持ちもあるのだろう。

 でもそんな才能を持っているひとは一握りだから。うらやましいと思って手に入るものでもないし。

「……安心したか?」

 壱樹先輩はすぐに視線を戻してくれた。浅葱を見る。

 またからかうような表情に戻っている。

 その意味がわかるのには数秒がかかった。

 理解した瞬間、違う意味で、かぁっと顔が熱くなった。

 見抜かれてしまったというわけだ。

 壱樹先輩のそばに『尊敬するひと』それも『女子先輩』がいるようになるではないか、と不安になったことを、だ。

 恥ずかしすぎる。きっと顔が真っ赤になっただろう。

「いえ、そ、そんな」

 しどろもどろになった。

 はっきり「そうです」なんて言えるものか。

 そんな浅葱を見て、壱樹先輩は今度は声に出して笑った。くくっと、笑い声がこぼれる。

「悪い悪い。浅葱はかわいいな」

「か、からかわないでください!」

 やっと言った。浅葱のその反応は「ははっ」と、もっと笑われてしまったけれど。

 膨れてしまった浅葱だったけれど、すぐにその不機嫌は引っ込んだ。

 すっと、壱樹先輩の手が伸ばされる。

 触れたのは浅葱の手だ。

 赤い手袋の手に触れる。

「からかって悪かったけど。俺の気持ちは本当だよ。浅葱と二人で頑張りたいって気持ちが、だ」

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