絵の中にある世界
「浅葱はすごいな」
ある放課後、カフェでお茶を飲みながら、ふと壱樹先輩が言った。
年末から、壱樹先輩は受験直前の短期講習を受けに塾に通うようになっていた。よって、新学期になっても一緒に帰れるのは一週間に二日ほどになってしまっている最近である。
寂しいけれど、壱樹先輩を応援する気持ちのほうが強かった。
それに一緒に帰れる日が、もっと特別に感じられるのだ。
今日はさらに特別な日だった。「たまには息抜きしようぜ」と壱樹先輩がムーンバックスに連れてきてくれたのである。
今回は学校のある駅前のムーンバックスで、地球堂のある駅のムーンバックスではない。つまり、初めて一緒にカフェというものに入って、デートのようなことをしたお店とは別である。
あのときとはずいぶん変わった、と、浅葱は思う。
自分の気持ちも、先輩との関係も。
「そう、ですか? 受験勉強を頑張ってる壱樹先輩のほうがすごいと思いますけど」
浅葱はあつあつのキャラメルラテを、ふぅふぅと冷まして飲みながら言った。
浅葱の答えには、笑みが返ってくる。
「そうだけど。そうやって、ひとの頑張りをよく見ていて、認めてやれるところもすごいんだよ」
意外なところをほめられた。浅葱は一瞬のおどろきののち、嬉しくなってしまう。
壱樹先輩に認められるのは嬉しい以上に、特別なことだから。
一番、認めてほしいひとだから。
「そうできてたら、嬉しいです」
はにかんだような笑みを浮かべた浅葱に、壱樹先輩はまたにこりと笑ってくれる。
穏やかな放課後だ。カフェの二階席のカウンター。
外はまだ夕暮れだけど暗くなりきっていない。
ほのかにオレンジ色をしている。
あ、あの絵みたいだ。
浅葱はふいに、ある一枚の絵のことを思い出した。
それは壱樹先輩に初めて『出会った』ときの絵のことだ。
夏の夕暮れの風景。オレンジ色がとても美しくて、優しいひかりをしていた、あの絵。何時間でも眺めていたいと思ってしまった絵だ。
浅葱は自然に口に出していた。
「私、壱樹先輩の絵を初めて見たの、中学生の頃だったんです」
「え、そうだったのか?」
壱樹先輩が、口にしていたホットコーヒーから視線をあげて、浅葱を見る。
視線が合って、ちょっとだけ、とくんと心臓が跳ねたけれど、浅葱は続けた。
「はい。コンテストで賞を取ったでしょう。夏の日暮れの絵。私、あれが展示された美術館に友達と見に行って……あの絵に引き寄せられちゃったんです」
「そう……だったのか」
壱樹先輩は、おどろいたという声、感嘆を含んだ声で言った。
浅葱はいくつか挙げていった。あの絵の好きなところ、興味を引かれたところ、魅力に感じたところ。それはいつも絵について語り合う感覚で話したのだけど、とぎれたときに壱樹先輩が言ったことに、はっとしてしまった。
「意外なところで見られていたと思うと、ちょっと照れるな」
実際にちょっと気まずそうにしている、壱樹先輩。
浅葱はやっと気付いた。
壱樹先輩の『絵の』好きなところを挙げていったけれど、それは『壱樹先輩の』好きなところでもあるのである。
そんなことをぺらぺらと。
急に、かぁっと顔が熱くなった。
なんて恥ずかしいことを語ってしまったのか。
「す、すみません、私……」
恥じ入ってしまった浅葱を見て、けれどその姿を見たためか、壱樹先輩は笑みになった。
「大胆だなぁ」
はっきりからかうようなことを言われて、もっと顔が熱くなってしまう。
「ち、違います、絵の話で」
「絵だって俺の一部なんだなぁ」
「そ、そうですけどぉ……」
やりとりはからかわれているものであったけれど、不快ではなかった。ただ、大胆なことを言ってしまって恥ずかしかっただけだ。
だからやりとりをする空気は穏やかだった。
しばらくして壱樹先輩が「すまん、からかいすぎた」と、まだ笑っているくせに、でも一応そう言って終わらせてくれて、浅葱は、ほっとした。
「いや、でも『絵はそのひと』っていうのは、俺もそう思う。俺も浅葱の絵が好きだよ」
違う意味で浅葱の心臓を跳ね上がらせてきた、その言葉。
今までだって「六谷の絵はいいな」と言われていたけれど、今のものは特別なのだ。
「ありがとう……ございます」
なので返事はもじもじとしてしまった。
壱樹先輩はそんな浅葱を見て、優しく微笑んでくれた。
「浅葱の手が好きだ」
ふいに、まったく違うことを壱樹先輩は言う。浅葱が、え、と思ったとき。
カウンターの上にあった浅葱の手が取られる。そっと握られた。
ほわっと、もうだいぶ慣れたあたたかさが浅葱の手を包み込んだ。
「この手が素敵な世界を生み出すだろう。俺はそれが好きなんだ」
包み込むだけではない。両手を出して、きゅっと両手で包まれる。
浅葱の手、全体があったかくなってしまう。
いつくしむ、というような触れ方に、そこから火がついたように胸が熱くなっていく。
そのひとの手が生み出す世界。
それはひとの数だけ存在する。
いや、ひとの数以上に存在する。
同じ絵は、同じひとが描いたとしても、二度として同じものはできあがらないのだから。
その、世界にたったひとつだけの『特別な世界』。それを生み出せる手は、まるで魔法のような存在だ。
「私だって、そうですよ」
自分の手を包んでくれる、あたたかな手。
それを『好き』と感じる気持ちは同じだから。
「壱樹先輩の絵は、『壱樹先輩』です。だから私は」
浅葱は言った。今度はためらわなかった。にこっと笑って口に出す。
「……先輩の世界が、大好きなんです」
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