名前で呼んで

 電車から降りて、浅葱の家の方角へ向かう。蘇芳先輩もすっかり道を覚えてくれたらしい。むしろ浅葱の先に立って歩くようになってくれた。

 一緒に歩くひとだけど、それと同時に確かに浅葱を導いてくれるひとでもあって。そう感じられるのは、二重の意味で浅葱には嬉しいことであった。

 電車を降りてからは、ぽつぽつと会話があった。

 「ちょっと遅くなって怒られないか?」とか、「夕飯には間に合うか?」とか。浅葱を気づかってくれるような言葉。

 浅葱はそれに「大丈夫です」と答える。

 ウソではない。実際、お母さんにはしっかり連絡していた。

 帰る予定の時間も、どこへ行くかも。

 さすがにまだ恥ずかしいから「彼氏とデート」とは言えなかったけれど……いつか言えたらいい、と思うのだった。

 そんな思考の中、蘇芳先輩が、ふと言った。

「あのさ、ちょっと思ってたことがあるんだが」

 浅葱は蘇芳先輩を見上げる。

「なんですか?」

 聞いてからおどろいてしまった。

 蘇芳先輩はほおをほんのり赤くして、言いづらい、という顔をしていたのだから。

 こんな様子は何度も見られるものではない。

 急に浅葱の心臓のどきどきも復活してしまった。

「ええと。……もう、彼女なんだ。……名前で、呼んでも、いいかな」

 言いよどみ、言いよどみ、という様子だったけれど、浅葱にはしっかり伝わった。声ははっきりしていたから。

 男らしい、提案とお願いだった。浅葱の胸を熱くする。

 名前で。

 下の名前で、ということに決まっている。

 男のひとに名前で呼ばれるなんて、めったにあるものか。身内などしかない。

 だから、蘇芳先輩は言いよどんだのだろう。

 ……断るはずなんかないのに。

 浅葱のほうがなんだか、落ちついてしまった。

 嬉しさがあふれたし、そのせいでどきどきと心臓がうるさいくらいに騒いでいたのに、なぜか落ちついた気持ちが同時にある。

「はい。どうぞ」

 その気持ちをそのまま言葉に出した。

 蘇芳先輩は浅葱の返事を聞いて、ほっとしたような顔をした。

 けれどすぐにまた照れたような表情になって、でも口を開いてくれた。

「じゃあ、……浅葱、って呼ぶな」

 自分の名前。

 こんなに特別に感じたことがあるだろうか。

 蘇芳先輩のくちびるからその音が出て、呼ばれる。

 たったそれだけなのに、なにより美しい音のように感じてしまった。

「……はい」

 じんわりと胸に染み入るそれを噛みしめながら浅葱は言った。

 そして、当たり前のように次は浅葱の番だった。

「浅葱、も、名前で呼んでくれるか。俺のこと」

 今度、もじもじとしてしまうのは浅葱のほうだった。

 蘇芳先輩に提案されたのだ。自分にもそう回ってくると思ったけれど。口に出すのはどうしても照れがある。

 でも断る理由もないし、そんな気持ちもなかった。

 ごくっとつばを飲んでしまったけれど、思い切って口に出す。

 ……本当はずっと、呼んでみたいと思っていた音を。

「壱樹……先輩」

 耳に入った言葉。

 同じだった。自分の名前を聞いたときと、同じ。

 なにより特別で、優しくて、尊い音だった。

 蘇芳先輩は、照れながらも口にした浅葱の声に、ふわっと笑った。

 浅葱と同じように、特別なものだと感じてくれたのだ。そんなことまで伝わってくる。

「『先輩』じゃなくてもいいんだぜ」

 そう言われたけれど。

「いえ、……先輩、は、私の『尊敬する気持ち』ですから」

 確かに「壱樹さん」とかでもいいのだと思う。彼女という存在から呼ぶのだ。別にそれだって悪くないと思う。

 けれど浅葱には『先輩』をつけたい理由があった。

「なんだそりゃ?」

 浅葱の理由にはおかしそうな声が返ってきたけれど、すぐにもうひとつ付け加えられる。

「でも、そりゃ……光栄だ」

 にこっと笑ってくれた蘇芳先輩。

 もうひとつ、特別な存在になった。

 浅葱は噛みしめる。

「でも学校ではまだ『六谷』って呼ぶことになると思うけど……」

「私も『蘇芳先輩』でいいですか」

「ああ。それに、二人だけのときだけっていうのは特別感があって、嬉しいな」

 そんなやりとりをしながら、二人で帰り道を歩く。

 こうしてひとつずつ、進んでいくのだ。

 二人で、手を繋いで。

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