雨の午後はつめたく

 その日はしとしとと雨が降っていた。

 反省会も、お疲れさん会も終わって、それどころかもう冬季賞の締め切りの話なんかも出てきている。

 締め切りは年末だけど、もちろん年末ぎりぎりまで学校はないので、クリスマスの数日後、学校が冬休みになる直前だと聞かされた。

 つまりもう時間があまりない。一ヵ月もないのだ。

 秋も深まって、浅葱は制服のジャケットの下にセーターを着るようになっていた。

 ジャケットは紺色なので何色でも似合うだろう。

 浅葱が選んだのはシンプルなベージュ。ジャケットの下に着るので、袖がすっきりしているものを選んだ。

 袖を少し長めに出す着方をしている子もいて、それもかわいらしいのだけど、浅葱はなにしろ美術部。絵を描くのに手を使うことが多い。あまり袖を長くしていると部活で邪魔になってしまうのだ。

 そのようにセーターを追加した日はとてもあたたかかった。ここしばらくの寒さを思い知らされるように。

 いけない、気を付けないと風邪を引いちゃうよね。

 浅葱は思って、再び気を引き締めた。冬季賞の締め切りが出たということはつまり、そこから逆算して計画を立てねばならないということだ。

 浅葱は萌江に「このくらいだとどうかなぁ」と相談も受けていた。

 「下塗りはもうちょっと前に終わってたほうがいいと思うよ」などとアドバイスをして、そこから「今度の部活で蘇芳先輩に見てもらおう」ということになっていた。

 そう、蘇芳先輩。

 ちょっと前に、話があった。

 『冬季賞の提出が終わったら、世代交代をする』と。

 世代交代。つまり、三年生が引退して、今の二年生メインに移行するということだ。

 次の部長になりそうなひとはすでにいる。二年生リーダーの男子の金澤(かなざわ)先輩というひとだが、蘇芳先輩がよく「サポートに回ってくれ」と依頼していることが多いので、きっとその先輩が次の部長になるのだろうなぁ、と浅葱は思っていた。

 それはともかく。

 蘇芳先輩がいなくなってしまう。この部活から。

 この学校からは……というのはもう少し先だけど。それだって春には完全にいなくなってしまうのだ。

 春をこれほど来なければいいのに、と思ったのは浅葱は初めてだった。

 今まで片想いをしたことはあるけれど、先輩に、というのは初めてだったので、『春=お別れの季節』であるのが初めてなのである。

 まだ秋の終わりで、そのようなことを考えるのは早すぎる、と思う。

 けれど、心の別のところで、意識しておいたほうがいい、とも思うのだった。

 心の準備はしておくにこしたことはない。いきなり直面してショックを受けるより、ずっと良いではないか。

 最近の浅葱はそう思うようにしていた。けれどさみしさはどこか、心の中をすかすかさせるのだった。

 そして雨でなんだか、しんとしている校内。浅葱は昼休み、三年生の教室のある階に向かっていた。

 蘇芳先輩に会いに……というわけではない。蘇芳先輩になら部活の時間に会えるのだし、なにか話があるならそのときに捕まえてしまえばいい。それが一番確実。

 それに三年生の教室に向かって、蘇芳先輩のクラスで「蘇芳先輩をお願いします」と呼んでもらうのはちょっと怖かった。

 なにしろモテモテの蘇芳先輩だ。

 部活のことで話があるので、なんて言ったところで言い訳としか思われないだろうし、悪くすれば、先輩の女子たちに目を付けられてしまうかもしれない。

 なので、特に蘇芳先輩目当てではなかった。単に午後の授業で使う教材が、三年生の教室のある数学準備室にあるというだけだ。

 でも三年生の教室があるのだ。なにかの偶然で蘇芳先輩に出くわしたらいいな、なんてことは思ったけれど。

 そんなことはなく、浅葱は数学準備室へ向かい、中にいた数学担当の何人かの先生にあいさつして、無事に教材を借りることができた。

 それは資料集で、ずいぶん分厚かった。ちょっと重い。でも持てないほどじゃない。

 よって浅葱は「ありがとうございます。お借りします」とそれを抱えて外へ出た。

 そのまま一年生の教室にある階へ向かうつもりだったのだけど。

 ふと通りかかった、空き教室。そこから声が聞こえてきた。

 別に不思議でもなんでもない。昼休みに空き教室でお弁当を食べたり、おしゃべりをするのは普通だ。きっと三年生がそうしているのだろう。

 中にいるのは男子生徒らしい。あたりはばかることなく大きな声で普通に話していたので、廊下の浅葱にも聞こえてきた。

あまり興味はないことだと思ったのでそのまま通過する予定だったが、中から「そういえば蘇芳がさ」と声が聞こえてきたのでおどろいた。

 つい足がとまってしまう。なにか、蘇芳先輩が話題らしい。

 急にどきどきとしてきた。クラスメイトなのかはわからないけれど、蘇芳先輩と同じ学年のひとなのだ。きっと浅葱より蘇芳先輩と接する機会は多いだろう。友達のようだし。

「ナントカ賞だっけ、やっと終わったから遊びにでも行きたいなとか言ってて。みんなでどっか行かね?」

 内緒話ではなさそうだけど、立ち聞き、になってしまうだろうか。浅葱は、ちょっと悩んだ。

 でも、ちょっとだけだから。普通に聞こえるから盗み聞きではないのだし。

 よって、ちょっとだけと、もう一度自分に言い聞かせて、立ち止まった。

 中の会話はそのまま続いていく。蘇芳先輩の普段の生活が聞けているようでなんだか楽しくなってきてしまった。

 普段、男子の同級生と話すときはどんなことを話すのかな。のんきに思ってしまっていた浅葱だったが、ある一人が口に出したことに、どきっとした。

「遊びたいのはやまやまだけど無理かもしれないぜ。こないだ駅ナカのショッピングモールで見たんだけどさ」

 その一人は、なんだか思わせぶりな口調だった。続ける。

「壱樹(いつき)、なんかカワイイ雑貨を扱ってると店にいたぜ。あれ、デートでもあって、女子にでもやるんじゃないの」

 言った男子の先輩は、蘇芳先輩の下の名前を口にしていた。つまり、それなりに親しいひとだということだろう。

「まじか」

 ほかの男子がちょっとおどろいた、という声を出した。

 浅葱ももちろんおどろいた。女子にでも、やる? かわいい雑貨を扱っているお店で買ったものを?

 それはまさか。

 ううん、そんなのただ、お母さんとか身内のひとにあげるのかもしれないし。

 自分に言い聞かせる。

「手袋、手に取ってたな。なんか赤っぽいやつ」

「それ、別に自分でするんじゃねぇの?」

 ほかの男子が言ったけれど、次の言葉は否定だった。

「いや、レースついたやつだったぜ。アイツ、姉妹なんかいねぇからなんでかなって」

 壱樹、と蘇芳先輩を呼んだ、仲のいいであろう男子が言った。その場の空気がなんだか『にやにやしている』というものに変わるのを浅葱は感じた。

 それは楽しそうなものだったけれど、浅葱の心は逆にざわざわとしていった。

 女子にあげそうなものを選んでいたという。

 かわいい雑貨を。

 そして、蘇芳先輩に姉妹はいない。お母さんに……という可能性はあるけれど。

 そのとおりのことが、教室の中の会話から聞こえてきた。

「いやー、これはあれだろ。カノジョだな」

 浅葱が『そうだったらイヤだな』と思ったこと。そのままだった。

 心臓が一気に冷える。

「そういや、去年、先輩の女子とけっこう仲良くしてたじゃん」

 その声で、浅葱は、はっとした。例のひとだろう。

 曽我先輩、とかいった、前部長。

「ああ! 結構美人のヒトな」

 次々に情報は入ってきて、浅葱にはありがたいことだったけれど、おもしろいはずがなかった。

 でも一応『情報』なのだ。聞かないわけにはいかない。

 嫌な感じにどきどきする心臓を抱えながら、結局、浅葱はその話を全部聞いてしまった。

 適当なところで予鈴が鳴って、はっとしたけれど。

 いけない、聞いていたのがバレてしまう。普通に授業にも遅れてしまうし。

 浅葱は、そろっと教室の前を離れて、小走りで階段へ向かった。

 どくん、どくんと心臓が気持ち悪く騒いでいる。

 もしかして、蘇芳先輩がモテモテなのに彼女がいないのはあのひとと、曽我先輩というひとと付き合っているのでは。男子の先輩たちが話していたように。

 校外で付き合っていることになるけれど、それなら浅葱やほかの子たちが知らなくても不思議はない。

 胸の中がざわざわして、気持ち悪くなってくる。

 いつのまにか教室に着いていて、ドアの前で、はぁ、とため息をついた。

 このあとの授業にはとても集中できそうになかった。

 それでもサボったりするわけにはいかない。授業開始のチャイムのぎりぎりになってしまったので、急いで教室へ入って、先生の使う教卓に抱えていた資料を置いた。

 おまけに外の雨は強くなるばかりで、午後はずいぶん冷え込んだ。シャーペンを握る手が冷たいように感じてしまって、浅葱はセーターの袖を引っ張って、手を包みこむ。

 思い出したのは、駅のライトアップを見に行ったときのこと。

 あの、初めて触れ合った手のあたたかさが恋しくてたまらなくて、でも本当は自分の勘違いが思い上がりだったのではないか。

 そういうふうにも思ってしまって、涙がにじみそうになってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る