応援チョコレート

 昇降口はまだ閉まっていなかった。学校が戸締まりされるにはまだ少しあるのだ。

 良かった。浅葱は、ほっとした。

 ふぅ、と息をつく。小走りで来たので息が軽く上がっていた。

 ちょっとだけ息を整えて、ここからはめちゃくちゃ急ぐこともないのでゆっくり階段をのぼりだした。

 とん、とん、といい音をたてて美術室のある階までのぼり、廊下の突きあたりにある美術室が見えてくる。

 そこで浅葱は、あれ、と思った。

 電気がついている。

 そろそろ夕方に差しかかるので、電気をつけたのだろう。

 それはつまり、電気をつけたひとがいる、というわけで。

 もしかして。

 浅葱の心臓が、期待にとくりと高鳴った。

 こんな、最後まで残っているなんて部長である蘇芳先輩である可能性は高いと思った。

 今日も昨日も、声をかけられなかったけれど、気になっていたのだ。そりゃあ、とても気になっていた。

 もし今、蘇芳先輩がいるなら、少しくらいは話ができるかも。

 思って、浅葱はたどり着いた美術室のドアを、こんこんと控えめにノックした。

 そして、「はい」と返ってきた返事は、ああ、やっぱり蘇芳先輩。

「失礼します」

 かららっとドアを開けて、浅葱は中に入る。

 なにか、作業をしていたところから顔を上げた蘇芳先輩と目が合った。

 蘇芳先輩のその目が、ふっと緩む。

「六谷か。どした。忘れものか」

 その、『自分を見て優しい目をしてくれた』ところと『フランクな声と言葉』にとても嬉しくなってしまう。

「はい。ペンケース、忘れちゃって……」

「そりゃ、明日から学校で使うしな。思い出してよかったな。朝取りに来るんじゃばたばたしただろ」

「そうですね。良かったです」

 浅葱は自分の作業していたスペースへ向かう。

 確かにペンケースはそこにあった。ほっとして取り上げる。

「でも早く帰れよ。もう暗くなる」

 浅葱の様子を視線で追ってくれていた蘇芳先輩は、なにやら大きな紙とヒモをいじっていた。

 なんだろう。部活にこんなもの、必要なのかな。

 浅葱はよくわからなかったけれど、しばらく蘇芳先輩の手つきを見ているうちに、はっとした。

 蘇芳先輩の手元にある紙。その中には。

「あの。……おうちで……?」

 浅葱が中身に気付いて、そしておそらく自分がこんな作業をしていた理由も察したと気付いたのだろう。

 蘇芳先輩は笑みを浮かべた。ちょっと困ったような笑みで。

「ああ。時間があまりないから。最後の見直しを今夜、しようと思って」

「そう、だったん、ですね」

 中身は、蘇芳先輩の秋季賞提出予定の作品だろう。

 キャンバスのそれを、紙に絵の具がつかないように、慎重に包んでいたらしい。

 そしてそんなふうに包む理由なんて、ひとつしかない。

 持って帰って、家で作業をするという意味だ。

 学校はそろそろ閉められてしまうから、これ以上遅くまで作業することは出来ないだろうから。

 でもまさか、徹夜で作業するのだろうか。

 浅葱のその心配もわかったのだろう。今度は浅葱を安心させてくれるような笑みで蘇芳先輩は笑った。

「大丈夫だよ、作業はするが、ちゃんと寝てくるさ」

 蘇芳先輩がそう言うならそうだろう。それでも心配だ。

「……はい」

 でも浅葱は笑みを浮かべた。蘇芳先輩は嘘を言ったりしない。それに、無理もしない。

 今、蘇芳先輩が無理をして倒れてしまっては、部活が困ってしまうだろう。

 提出のチェックも必要だし、顧問の水野先生や副部長の森屋先輩がいるとしても、蘇芳先輩がいなければ大きな痛手になるはずだ。

 だから、蘇芳先輩は絶対無理をしたりなんかしない。

 そのうえでしっかり作品も仕上げてくる。

 そういうひとだ。

 信頼から、浅葱は笑みを浮かべて、「頑張ってくださいね」と言った。

 まるで浅葱のその気持ちを読み取ってくれたように、蘇芳先輩も、にこっと笑って、「ああ。ありがとう」と言ってくれた。

「それに、いいものがあるからさ」

 そのあと、ちょっといたずらっぽく言ったので、浅葱は不思議に思った。

 ついでに、その言い方はなんだか子どもっぽさもあって、ちょっとかわいらしく見えてしまってほほえましくなってしまったのだけど。

 蘇芳先輩が、かたわらにあった通学バッグをちょっと探って、取り出したもの。

 それはダークレッドのパッケージのお菓子だった。

 浅葱はそれを見て、あっ、と言うところだった。

 だって、それは。

「初めて食べたんだけど、うまかったぜ。それにちゃんと効果もありそうだ。すっきりした」

 それはチョコレートだった。

 ただのお菓子だけれど、一応うたい文句がある。

『疲労とストレスを軽減する』

 そういう広告やテレビCMをたくさんやっている商品なのだ。

 浅葱は少し前にそれを食べたことがあった。もちろん、そういううたい文句があってもお菓子なのだ。即座に疲労がなくなるなんてことはない。

 けれど、なんとなくすっきりするような気持ちは感じられた。今、蘇芳先輩が言ってくれたように。

「ありがとな」

 浅葱の目を見つめて、蘇芳先輩はほほえんだ。ふっと、目元をゆるめて。とても優しい笑みだった。

「……いえ。良かった、です」

 そんな優しい目で見られたらくすぐったくなってしまう。浅葱はちょっともじもじとしてしまった。照れくさい。

 だって、嬉しいではないか。

 ……自分の贈ったもので、そういうふうに言ってもらえたなら。

 そう、それは浅葱が蘇芳先輩に差し入れたもの。

 土曜日の購買。休憩のミルクティーを買ったときに、ふと思いついたものだ。

 直接手伝いなんかできない。

 けれど、なにもできないわけじゃない。

 浅葱が思いついたのは、『差し入れをする』だった。

 よくあるではないか、飲み物やちょっとしたお菓子など。

 運動部などだともっと多いかもしれない。

 そういうものは単に、もらったお菓子が嬉しいだけではない。

 贈ってくれた、差し入れてくれたひとの心づかいが嬉しいものなのだ。

 そういうものになれたらいい、と思った。

 よって、浅葱はそのダークレッドのパッケージのチョコレートを選んで、それからちょっと考えた。

 これだけ、ぽんと置くのもそっけない。

 すぐに、ああ、あれにしよう。と思いついた。

 取り出したのは例の手帳だ。

 うしろのほうには切り取って小さいメモにできるページがついているのだ。

 それをていねいに切り取って、メッセージを書いた。

『お疲れ様です』

 たったそれだけだったけれど、自分の想いがすべて詰まっていると感じられたので、それだけでいいと思った。

 お花の模様の入っているメモだけど、文字だけだとちょっとそっけないかなと思ったので、ウサギのイラストを小さく添えた。

 それを、やっぱり手帳のおまけについているミニシールで貼り付けて、そっと、蘇芳先輩の通学バッグの横に置かせてもらったというわけだ。

 しかし、浅葱はそこで疑問に思った。

 自分はあれに、名前など書いていない。

 それなのにどうして自分からだとわかってくれたのだろうか。

「えっと、私、名前でも書きましたっけ」

 疑問のままに聞いてしまったが、蘇芳先輩は楽しくてたまらない、という顔で、しれっと言った。

「名前なんか書いてなくたってわかるに決まってるだろ。字が六谷のだったし」

 あ、そっか。同じ部活なんだから、字くらい、見ればなんとなくわかるのかもしれない。

 思った浅葱だったが、直後、心臓がのどの奥まで跳ね上がったかと思った。

「それに、こういうものを今、くれるのは六谷しかいないと思ったから」

 のどの奥まで跳ね上がった心臓は、そのままどくどくっと早い鼓動になる。

 気付いてくれた。

 筆跡だけではない。

 浅葱がこういうふうにしてくれる、と確信してくれたのだ。

 それは単に部員同士のやりとりより少し上かもしれない。

 浅葱のことを知ってくれているからこそ、そう思ってくれることなのだ。

 急に顔が熱くなってきた。

「……あ、ありが……とう、ございます」

 声はもにょもにょとなってしまった。それに蘇芳先輩はまた笑うのだった。

「なんでだよ。もらったのは俺だろう」

 そうだった。

 ついお礼を言ってしまったけれど、ずれたことであった。妙に恥ずかしくなってしまう。

「いや、でもすげぇ嬉しかったよ。ああ、気づかってくれてるひとはいるんだな、って」

 浅葱は顔を上げた。再び蘇芳先輩と目が合う。優しい瞳はその言葉の通り、嬉しそうな色になっていた。

 蘇芳先輩も負担になっていなかったはずはないだろう。

 部長としてのつとめで、自分が言い出したのだし、やるべきことではあったのだろうけど、当たり前のように、負担に思わないはずがない。

 本当なら自分の絵にずっと集中していたかっただろうし、面倒だとか、もしくは萌江たちのミスをうらむ気持ちだって、ないはずがない。

 でもそんな様子、少なくともちっとも表に出さないのだ。そこも浅葱が尊敬し、そうなりたいと思っているところである。

 おまけに、にこっと笑って、手のチョコの袋をちょっと振った。

「もちろん、それが六谷だったこともさ」

 いたずらっぽく言われたそれは、さっきと同じように、むじゃきともいえるものだった。

 それなのに、浅葱の頬を簡単に熱くしてくる。

 そんなことを言われればくすぐったい。

 おまけに自分の気持ちが蘇芳先輩に筒抜けになっているように感じてしまう。

 いや、……知られちゃってるんだろうな。

 思ってしまい、もっと顔が熱くなった。

 この秋季賞のための作品を作りはじめてから。

 蘇芳先輩とたくさんの想い出ができた。

 その中で仲が深まっていた、と、勝手にかもしれないが浅葱は思っていたし、そして、自分の気持ちも、少なからずなんとなくは伝わってしまっているのだろうな、と思う。

 そうでなければ蘇芳先輩だって、あの、ライトアップを見たときのようなことをしてこないし、言ってこない、と思う。

 つい、「あの」と、口を開くところだった。

 今なら、言っても不自然ではないだろう。


 蘇芳先輩のことが好きです。


 そういう、自分の一番大きくてストレートな気持ち。

 だけど、浅葱は、ぐっとそれを飲み込んだ。のどの奥へ押し込んでしまう。

 今、言ったっていいだろう。

 でも今日、今、締切直前のタイミング。

 おまけに蘇芳先輩はこれから家に帰って、夜遅くまで作業をするのだろう。

 そんなときに、心を乱してしまうようなこと。

 ……今は、やめよう。

 浅葱は、飲み込んだ言葉を、胸の一番奥の、大切なところへそっと入れるように抱えた。

 落ち着いたら。

 少なくとも秋季賞の提出が終わって、お互いに落ちついたら。

 そう、蘇芳先輩が言った通り『ゆっくりできるときに、また』だ。あのライトアップで、途中になってしまったときの言葉。

 大切な気持ちなのだ。

 ごたごたした中で伝えてしまうよりは、しっかり向き合えるときに伝えたい。

 よって、浅葱はただ笑った。にこっと。

 どきどきと心臓は激しく高鳴っていたけれど、しっかり蘇芳先輩の目を見て。

「嬉しいです」

 もしかしたら、浅葱の言いたかったことも、それを今、言わなかった理由も、蘇芳先輩はわかったのかもしれなかった。

 鋭いひとだから。そしてひとのことを察するのがうまいひと、だから。

 だから。

 それでおしまいになった。

「お手伝い、できることありますか」

「ああ、大丈夫だよ。あとはヒモをかけて結ぶだけだから」

 かたわらに置いてあった、包みかけの絵。

 それを完成させて、もう学校を出なければ。

 絵を包んで、美術準備室でなにか作業をしていた水野先生に声をかけて、部室の戸締まりをして。

 一緒に学校を出た。

 二人で並んで歩く。

 もちろんどきどきした。

 けれど、初めて二人きりで歩いたとき……地球堂へ画材を見に行って、偶然会った、あのとき。あのとき感じたような、必要以上にそわそわしてしまうような気持ちが今はなかった。

 不思議なことだと思う。していることは同じなのに。

 なんだか、うまくいくような気がした。

 いや、ほとんど確信だった。

 気持ちを告げることも、つまり、この恋も。

 今、目の前にある、秋季賞のことも。作品も。

 きっとうまくいく。すてきな結果になる。

 二人で歩くオレンジ色の帰り道。

 蘇芳先輩の描く絵の色使いのようなあたたかさに包まれていたからかもしれなかった。

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