今、私にできること

 秋季賞提出締切、最後の週末がやってきた。この土日が終わったら残りはあと二日。

 火曜日に提出締切なので、作業日は月曜日までしかないし、さらに言うなら月曜日にはあとは最後の見直し、ほぼ完成としておかなければいけないだろう。

 つまり、この土日が最後の勝負というわけだ。

 よって、土日は特別に美術部にも活動許可が出た。

 こういうコンクールの締切前などでない限り、美術部は休日の活動がない。それは楽だなぁとか、遊ぶ時間ができていいなぁとか思ったりすることだったが、このときばかりは遊んでなどいられるものか。時間が許す限り、ぎりぎりまで手を入れたい。

 ここまで頑張ってきたのだ。

 賞が欲しいと頑張ってきたのだ。

 それを叶えるための、最後のひとふんばり。

 この土日の活動は、美術部全員が来るわけではなかった。あくまでも『自由参加』なので、作業したいひとや、用事のないひとだけ来ればいい。そういう日だった。

 浅葱はもちろん参加した。朝から制服を着て学校へ行って、教室ではなく美術室へ直行。髪をまとめて、制服の上からエプロンをして、最後の色調整を入れていく。

 時間なんてあっという間に過ぎる気がした。

 浅葱の、薄い青や黒で下塗りをしていた絵は、もうしっかり『青』一色に染まっていた。

 濃い青、薄い青、水色、黒に近い青……何色あるかなんて、もう浅葱にもわからなかった。

 下絵はあれから少し変えた。蘇芳先輩にもアドバイスをもらったのだ。

 イルカのポーズを反転させて、よりダイナミックに見えるようになったはずだ。

 それに伴い、色のトーンも変えていく必要があったので、そのバランス調整に浅葱は最後の数日を使っていた。

 もう、大幅に絵の具を塗る段階ではない。

 少し塗っては離れ、塗っては離れして、全体のバランスを見ながら微妙に手直しを入れていく。

 浅葱だけでなく、周りの部員たちも同じようにしていた。美術室の中は、時々ちょっとした短い会話の声が聞こえる以外は、しんとしていた。みんな集中していたのだ。

 みんな、なにかしらの賞が欲しいに決まっている。そうでなくても、納得いく絵に仕上げたいに決まっている。だからこそここまで頑張ってきたのだし。

 ちょっと休憩、としたときに、浅葱は蘇芳先輩をちょっと見た。

 蘇芳先輩は、例の件、萌江たちの絵の突貫工事……とでもいえるだろうか。急ピッチでの仕上げをするべく、ずっとそちらについていた。

 二人が描いていたのも油絵だったが、もう重ね塗りをしていては間に合わないからと、ポスターのように平面的な塗りを生かすようにと、蘇芳先輩がアドバイスしているのが、ちらっと聞こえた。

 蘇芳先輩、自分の絵は大丈夫かな。

 浅葱は心配になってしまった。

 この土日、蘇芳先輩だって、自分の絵の最後の仕上げをしたかったはずだ。それが、一年生のミスにかかりきりになってしまって。

 あまり良くない思考だが、浅葱はちょっと、萌江たちのことを恨んでしまった。

 二人がちゃんと作業を進めていたら、蘇芳先輩に余計な用事はできなかったのだ。そのぶん、自分の絵のクオリティをあげられただろうに。

 でも、真剣に二人の絵を指差して教えていく蘇芳先輩を見て、心の中で首を振った。

 ううん、それは蘇芳先輩が決めること。

 私がどうこう思うことじゃない。

 きっと先輩なら、大丈夫。きっと最高の絵を出してくる。

 そう信じることにした。

 だって、ほかならぬ蘇芳先輩なのだ。

 彼の部活の先輩として、また絵の先輩として、そして部長として。そういう手腕をずっと、何度も何度も見てきた。

 そういう蘇芳先輩だ。きっと大丈夫。

 思って、浅葱は声をかけずに美術室を出た。

 飲み物でも買ってきて、休憩しようと思ったのだ。



 一階まで降りて、購買へ向かった。

 購買は学校内の小さなコンビニのようなお店だが、活動がある部活が多いので休日でもやっている。

 スタッフのおばちゃんは一人だったけれど。

 普段、お昼休みなどはパンを買う生徒であふれるのでスタッフのおばちゃんも何人かいるのだけど、今、静かなのは部活の生徒しかいないからだろう。

 休日の購買を利用するのはめったにないので、浅葱はちょっと新鮮な気持ちになった。

 そこで棚から大好きなミルクティーのペットボトルを取り上げたのだけど。


『六谷、結構、根を詰めてただろう。少しでも息抜きになれば、と思って』


 ふと、数日前のことを思い出した。蘇芳先輩に言ってもらった言葉だ。

 そう言って、きれいなライトアップを見せてくれた、蘇芳先輩。それは浅葱が楽しんでいても、ちょっと無理をしつつあった、と思ったからだろう。

 今、手に取ったのは大きいサイズのペットボトルで、あのときのものとは違う。

 けれど、あの甘かったミルクティーの味と、優しいあたたかさが、まざまざとよみがえった。

 私が、今できること。

 浅葱は、ふっと思った。

 なにもできないわけじゃない。

 手伝うことなんてできない。一年生の自分が手を出すなんて、そんなことは図々しい。

 だけど。

 ……なにもできないわけじゃない。

 もう一度そう思って、浅葱はミルクティーのペットボトルを持ったまま、お店の奥へと進んだ。

 『それ』を、どれにしようかと考えながら。



 週末の二日間は、あっという間だった。朝から集まって、作業をして、たまに休憩して、お昼にはお弁当やパンなんかを食べて、また夕方まで作業。その二日間。

 大変だった。

 おまけに休みがなかった状態で、明日からそのまま学校があると思うと、ちょっと気が重くはある。

 けれど、そのぶん作品のできは良くなったはずだ。

 浅葱の絵はもう完成、となっていた。直すところなんて、見ていけばまだまだいくらだって思いついてしまうだろう。

 それは副部長の森屋先輩が先日、お説教をする際に言っていた通り、『絵に終わりはない』からである。

 それでもコンテストに出す『作品』とするなら、どこかでおしまいとしなくてはならないのだ。

 その『おしまい』。

 いいタイミングで『おしまい』にできたと思う。

 納得できるだけ、作りこめた。

 だから、この二日間はとても充実していたし、大切な二日間だったと思う。



「お疲れ様でした!」

 夕方。普段の下校時間の少し前。

 蘇芳先輩によって、いったんの『解散』が言い渡された。

 みんな片付けをして、帰り支度をはじめる。

 だいたいのひとたちは、浅葱と同じく、もう完成としているようだった。

 そうでないひとは、明日の部活で仕上げるのだろう。

 それでも遅くまではいられない。

 部活動のある部活も多いとはいえ、夜遅くまで学校が開いているわけではないからだ。平日と違って、出勤している先生も少ないだろうし。

 なのでお疲れ様、のあいさつをして、浅葱は帰ることにした。

 絵も完成した。明日は最後の見直しだけ。心から満足していたし、安心していた。

「浅葱! 一緒に帰っていい?」

 そこへ、たたっと駆けてきたのは萌江だった。

 浅葱はちょっとおどろいた。

 蘇芳先輩が手伝ってくれていたのを見ていたのだ。てっきりまだ、ぎりぎりまで作業するのかと思っていた。

 浅葱の思ったことはわかったのだろう、萌江はきまりの悪そうな顔をした。

「……遅くまで根を詰めたらいけないって。帰れ、って言われちゃった」

「……そうなんだ。じゃ、帰ろうか」

 浅葱は、ふっと笑った。

 萌江のしたことは良くなかったことだったかもしれない。

 けれど、あれ以来、萌江は今までよりずっと真面目に取り組んでいたと思う。それは心を入れ替えて……というかはわからないが。少なくとも、本気でこの絵を完成させたい。そういう気持ちだったのは確かなはずだ。

 帰り道。昇降口を出て、校門を出て、駅までの道を歩きながら、萌江はそのとおりのことを言った。

「私、適当にしすぎだったと思う」

 その声には心底、後悔が滲んでいた。浅葱は「そうだね」とも言えずに、なんといったらいいか困ってしまった。

 浅葱が答えられないのをわかっている、という顔で、萌江は浅葱を見て、困ったような顔で笑った。

「だから、できないならもういいやって投げ捨てちゃおうかと思ってた。それって、今まで課題とかほかのこともそうだったかもしれない」

「うん」

 萌江が話したい、と思ってくれていることがわかったので、浅葱は単純に相づちを打った。

 浅葱が聞いてくれるという姿勢になったのを感じたのだろう。萌江はちょっと視線を上げた。

 まだ空は明るい。でもあと三十分もすれば、オレンジ色が濃くなってくるだろう。

「でも、蘇芳先輩は言ってくれた。できないならできないなりにやってみろって」

 それは最初から計画を立て、取り組んできた浅葱にはわからない気持ちだった。

 でも今回のことがあって、だからこそ萌江は気付くことができたのだろう。そしてそれに気付けたことは、とても良いことだったはずだ。

「蘇芳先輩の時間も奪っちゃった。すごく悪いことをしたなって思う。それは自分の作品に手を抜いたことだけじゃなくて、部活全体の邪魔をしちゃった」

 それは反省。萌江は小さく息をついて、でも浅葱の顔を見た。その顔は後悔したことも落ち込んだことも、ちゃんと飲み込んで先へ進んでいる顔をしていた。

「だから、次はちゃんとやろうって思う」

 萌江のその顔と言葉。浅葱はわかった。

 萌江がこういうふうになったのは、蘇芳先輩のおかげもあるのだ。

 蘇芳先輩が部長として、真剣に助けてくれたからだろう。その姿勢を見て、なにも思わないわけがない。

 ああ、蘇芳先輩は本当に、部長として、先輩として、すごく立派なひとだ。

 浅葱はまた、心を熱くしてしまった。

「計画的にっていうのは苦手だけど……」

 そのあと、萌江はちょっと困ったように笑った。気付いて反省したとはいえ、すぐに行動を変えるのは難しいことだ。

「そうだね。計画を立てるって難しいよね」

 浅葱も笑った。ただし、今度のものは困って、ではなく、なんだかほのかにあたたかいような気持ちでだった。

 蘇芳先輩のように、なんてふうにはとんでもない。自分にそんな立派なことはまだできない。

 でも自分のしていることをもとにして、こうしたらどうかな、とアドバイスするということならできる。

 蘇芳先輩のような立派なひとになるためには、そういうところからはじめればいいのだろう。

「難しかったら、見えるようにしたらいいよ。たとえばカレンダーを見てね、この日付までにはどのくらいの作業を終えていたらいいだろうなって書き込んで……」

 なんだか嬉しい気持ちにもなりながら、浅葱は自分の手帳を出そうとした。

 スマホのカレンダー機能は便利でそちらも使っているけれど、学校内ではスマホの使用が制限されているので、紙の手帳があると便利なのだ。

 よって、ミニサイズのものを持っていた。

 手帳はバッグの中に確かにあったのだけど。

「……あれっ」

 浅葱はちょっと声をあげてしまった。

「どうしたの?」

 萌江も不思議そうな声を出す。

 ごそごそとバッグを探ったけれど、見当たらなかった。

 ペンケースがない。ペンや消しゴムなんて文具がまるっと入っているもの。

 ああ、そういえば部活のときに使ったんだった。うっかり置いてきてしまったのだろう。

「ごめん、ペンケース、部室に置き忘れたみたいだから取ってくるね。ごめんだけど、先帰ってて?」

 それだけ言い残して、浅葱はきびすを返した。たっと地面を蹴って、軽く走り出す。

 まだそれほど学校からは離れていなかった。

 数十分のロスで済むだろう。

「気を付けてねぇ」

 うしろから萌江が声をかけてくれるのを背に、浅葱は急いで学校へと後戻りしたのだった。

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