美術部の一触即発

「こんにち、はー……?」

 がらっと美術室のドアを開けて、明るくあいさつをしかけた浅葱だったが、すぐに気がついた。

 様子がおかしい。

 なんだか空気が張り詰めている。

 すごく嫌な空気が、ひしひしと伝わってきた。

 よって、あいさつの語尾は小さくなっていってしまう。

 入ってきた浅葱を見て、はしのほうにいた同級生が、ちらっとこちらを見た。

 その視線は「おとなしくしとこ」だったので、浅葱は息をのんでしまう。

 そろそろとドアを閉めて、中に入って、わかった。

 入り口と逆側の、窓際。

 一年生二人が立っていて、うなだれていた。

 その前には先輩数人が立っている。怒っているかきげんを悪くしているかなのは明らかだった。

 なんだろう。なんでこんな空気に。

 とりあえず、その先輩たちは、「ただ入ってきた子」という目でしか浅葱をちらっと見ただけで、目の前の三人に視線を戻したので、どうも自分はその中にはカウントされないらしい。

 ほっとするやら、安心しきれないやら。

 この場はおとなしくしておくべきだったので、浅葱は黙ったまま、ちょっと離れたところにいる、同級生や先輩たち、直接関係のなさそうなひとたちのそばへ、そろっと向かって合流した。

 見ているのもどうかと思うけれど、この状況で「じゃあ今日の作業を」なんてできるものか。

「秋季賞に出せないって、どういうつもりなの?」

 腕を組んで二人を怖い目で見ているのは、三年の副部長の女子先輩だった。

 森屋(もりや)先輩という。普段は明るくて、ちょっとふざけたことも言って後輩を笑わせるようなひとなのに、今はまったく違う雰囲気になっていた。

 そこで浅葱はやっと気付いた。怒られている一人は、萌江であったので。

 いったい、なにが。違う意味で心配になってしまう。

 おそるおそる、もう一人の子が口を開いた。

「間に合いそうに、ないんです」

 その理由に、浅葱は息をのんだ。

 そういうことだ。

 秋季賞の締め切りに、作品が間に合いそうにない。

 それがサボっていたからなのかなんなのか、そこまでは浅葱は知らない。

 でもその可能性は高そうだった。

 もう一人の子はクラスも違うし、中学校も違ったので、浅葱は特別には親しくなかった。だからその子のことは詳しくない。

 けれど萌江のことならわかる。

 萌江は悪く言えば、ちょっとルーズなところがあるのだ。課題だって溜め込むし、ああ、そういえば夏休みの課題だって、夏休みが終わってしまってから、先生にさんざんつつかれてようやく提出していた。そういう欠点。それが出てしまったのかもしれない。

「間に合いそうにないって、作業日はあと四日くらいはあるでしょう。それで無理だって言うの?」

 森屋先輩は、怒りを押し殺している、という声で言った。

 そこで浅葱は気付いた。いつの間にか、ドアのところに蘇芳先輩がいた。

 そのドアというのは美術室の入り口ではなく、奥にある美術準備室のドアだ。

 なにか、美術準備室で支度をしていたか、もしくは水野先生と話や打ち合わせをしていたのか、そういうことをしていて、今、部活へ入ってきたのかもしれなかった。

 蘇芳先輩も固い顔をしていた。

 この状況では当たり前だろうが、浅葱は心が、すっと冷えるのを感じた。

 蘇芳先輩のこんな顔。見たことがなかった。

 自分に向けられているわけでもないのに、恐ろしくてならない。

 実際、美術室の中は、一触即発という雰囲気だった。

 その中で、副部長の質問に萌江が口を開いた。

 こんな中で責められていれば当たり前であるが、声は震えていた。

「その、……中途半端なものは出したくなくて……」

 一瞬、冷たい空気が、余計に固まった。

 副部長だけでなく、この美術室にいるほかの部員、みんなが多少なりとも嫌な気持ちを感じただろう。

 それは、当たり前のように理由がある。

 森屋先輩がみんなのその気持ちを代表するように言った。鋭い声だった。視線も睨みつけるようなものになる。

「中途半端ってなに? それが嫌なら計画的に進めるべきでしょ。それをやらなかったのは、あなたたちじゃないの?」

 正論だった。そして、部員が嫌な気持ちになった理由。

 それは、みんな、ここまで頑張ってきたからだ。

 締め切りに間に合うように。

 自分の中で最高のものを出せるように。

 『中途半端』にならないように。みっともないものは出さないように。

 計画的に、だ。

 それをやらなかったうえに、言い訳にされてはおもしろいはずがない。

「それに中途半端なら中途半端で、どうにか格好がつくように仕上げるべきよ。絵におしまいはないんだから、折り合いをつけることだって……」

 もうひとつ、代表するように、実際代表だったのだろうが、副部長が言った。

 けれどその言葉はさえぎられる。

 ここまでだまっていた蘇芳先輩が口を開いたのだ。

「森屋。そのへんで」

 言葉はそれだけだったのに、空気が、さっと変わって、部屋の中の全員がだまってしまった。

 怒られたわけではないのに。

 どなられたわけでもないのに。

 それほど、蘇芳先輩の声は静かで、でも威厳にあふれていた。

 森屋先輩もそこで言葉を切った。蘇芳先輩のほうを見る。

 その森屋先輩にひとつうなずいて見せて、蘇芳先輩は萌江たち、二人の前に立った。

「森屋の言うとおりだ。部員としての義務を果たさなかったこと。それはお前たちが悪いことだと、わかるな?」

 はい。はい。と、二人はそれぞれ、ただうなずいた。

 先輩に取り囲まれて責められたせいで、二人ともすでに、泣き出しそうな顔になっていた。

 けれどかばうことなどできるはずがない。副部長の言ったことはなにも間違っていないのだから。

 二人に話をする役は蘇芳先輩にチェンジされたようだ。

 副部長の森屋先輩と、その横にいた三年生も一歩引く。

「だけどこれ以上、説教を続けてもこうなっちまったもんは仕方ない」

 蘇芳先輩の言ったことは、部長として当然のことだった。ただ怒るのではなく、これからのことを見すえた話だ。

「とはいえ、出さないのは許さない。部員として全員提出は言ってあったからな」

 蘇芳先輩のきっぱりとした言葉に、萌江たち二人は黙った。

 『中途半端』でも出せということだろうか。

 二人だけでなく、その場の部員全員がそう思っただろう。

 けれど蘇芳先輩の言ったことは違っていた。

「森屋が言っただろう。『折り合いをつけることは必要だ』って。そうしてみろ。間に合わないなら間に合わないなりに、なんとか格好のつくように努力してみろ。満足できるできにはならないだろう。けれど、それが秋季賞に向かってきた部員として、すべきことだ」

 しん、と部室の中が静まり返る。

 蘇芳先輩の言ったことは正論で、それから『部長』だった。先輩である以上に、この部活を引っ張っていく『部長』なのだ。

 きっぱり言い切った蘇芳先輩の言葉。

 萌江たち二人も、やるべきことは言いつけられたけれど、それはやらなければいけないことなのである。蘇芳先輩の言った通り。

 それは、この部活に居続けるというなら避けては通れない。

「わかりました」

「すみません」

 萌江たち二人はそう言って、蘇芳先輩の言葉を受け入れた。

 これでこの騒動はいったん終了、ということになっただろう。

 蘇芳先輩は、二人から視線を外して、美術室の中を見渡した。息をのんで見守っていたほかの部員を、だ。

 そして空気を変えるように、ぱん、と手をひとつ叩いた。

「はい、この話はおしまいだ。時間がないぞ、みんな自分の作業に入ろう」

 そのとおり、部屋の空気は一気にゆるんだ。みんな、心の中で安心したためいきでもついただろう。そんな雰囲気があふれる。

 部員たちはみんな散らばっていって、自分の絵の作業に入り出した。道具を準備したり、必要なものを取りに出ていったり。

 その中で、蘇芳先輩が、再び萌江たち二人に声をかけているのが浅葱には見えた。

「とりあえず、どこまで進んでるのか見せてみろ。見てやるから」

「はい……本当にすみません」

 ぐす、と鼻をすすりながら萌江が蘇芳先輩に言う。蘇芳先輩はそれに、軽く首を振った。

「泣いてるヒマなんてないだろ。精一杯やれ。それがつとめだって言ったろ」

「はい!」

 蘇芳先輩の言葉は、普段に比べたらずいぶん固くて鋭いものだった。

 けれどそれは部長としての立場で、役目なのだ。

 優しくするときは優しくする。それがいつもの蘇芳先輩。

 でも良くないことをする部員がいたら、しっかり部を引き締める。

 それが部長としての仕事。

 自分のキャンバスを運んできながら、浅葱は、萌江たちにはちょっと悪いと思いながらも感じ入ってしまった。

 この空気は楽しかったわけはない。できればこんなことは起こらないほうがいい。

 けれど、蘇芳先輩のこの事態のしずめ方。それは部長として立派過ぎることだし、それに、格好良かった。

 自分もこうして、悪いことは悪いといさめながら、それでも前に進むための道を示せるようなひとになりたい。

 浅葱は思った。

 まだ自分は一年生で、未熟に決まっている。今は自分のやるべきことだけをしっかりこなしていくしかない。

 けれど、いつかは蘇芳先輩のようなひとになりたい、と思う。

 部長なんて立場になれるかはわからない。けれど、いつか後輩ができたときは、蘇芳先輩のようにきっぱりとした物言いや行動ができるようになりたい。

 それは片想いをしているという気持ちからの、ひいき目ではない。

 ひとりの『先輩』『部長』として、蘇芳先輩をとても、とても尊敬している。

 そういう、あたたかくも、きりっと引き締まるような気持ちだったのだ。

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