放課後デートはミルクティー

 秋季賞の提出期限も間近に迫っていた。

 色塗りの本塗りも順調に進んでいたし、浅葱は毎日、失敗しないよう緊張しつつも楽しく作業を進めていた。

 色をつけて、重ねて、ちょっと離れて見直して、調整を入れていく。それの繰り返し。

 蘇芳先輩にもたまに見てもらっていた。先輩は浅葱と同じように、キャンバスからちょっと離れて全体を眺めてバランスを見て、「ここはもう少し濃くしたらメリハリがつくんじゃないか」などとアドバイスをくれるのだった。

 ある放課後、最後まで残って色塗り作業をしていた浅葱。

 同じように最後まで残っていた蘇芳先輩が「そろそろ帰るか。下校のチャイムも鳴るし」と言ったので片づけをはじめた。

 筆を洗って、使いかけのパレットを汚さないように所定の位置に戻して……。

 用具を自分の棚に片付けて浅葱が戻ってくると、蘇芳先輩が浅葱の絵を見ていた。

 ただ絵を見られているだけなのに、なんだか自分を見られているように感じてしまって、くすぐったくなる。

「なかなかいいじゃないか。もう仕上がるんだろう」

 浅葱が戻ってきたのを見て取ってか、蘇芳先輩が振り返って言った。

 確かに提出期限は来週末である。今の進行なら十分間に合う。

 よって浅葱の返事は明るくなった。

「はい! 先輩がいっぱい教えてくださったおかげです!」

 自然と笑顔が浮かぶ。

「いや、頑張ったのは六谷だろう。きっと結果も出るさ。俺が見ても、今までの六谷の絵より技術もずっとあがってる」

 やはり蘇芳先輩は、自分はアドバイスしたにすぎない、なんて言うのだった。

「俺も結果を出したいもんだな。できればいい賞が欲しいな。って、当たり前か」

 言って、先輩は笑った。どこか照れたような笑みで、浅葱はその笑顔にどきどきする気持ちと、嬉しくてあったかい気持ちを同時に感じてしまう。

 先輩のこういう顔。見られるのはきっと、誰でも、ではない。その、後輩としてだって『特別』になれるのが嬉しい。

 その、先輩が今、取り組んでいる絵。

 先輩が今回描いていたのは階段の絵だった。

 ホテルかどこかのような、家と施設の中間のような建物の中の、階段。

 らせん階段でとてもオシャレなその階段を、緑をメインとした暗いトーンで、しかしどこかあたたかみのある色で仕上げていっている。

 まるで窓から優しい光が差し込んでいるような色合い。

 蘇芳先輩の絵は、パースやデッサンなど基本的な部分ももちろん優れている。

 けれど浅葱が一番好きなのはその色使いだった。

 この絵もそうだし、浅葱が初めて『出会った』あの夕方の風景の絵もそうだし。暗いトーンを使うことが多いのに、あたたかさを感じるのだ。

 それは技術もそうかもしれないけれど、先輩の持つ優しい心が反映されているようだった。

 見ているひとの気持ちも穏やかにするような、絵である。

「そうだ、六谷。今日、時間空いてるか?」

 ふと蘇芳先輩が言った。今度ははっきりと、どきりとする気持ちだけが生まれた。

 これは、なにかのお誘いなのでは。

「は、はい。特に用事もないですし」

 どきどきと期待する気持ちを抱えながら、浅葱は答えた。

 本当に用事はないし、下校時間ぎりぎりなので、友達と帰る約束もしていない。

 蘇芳先輩は、浅葱の返事に「そっか。それなら良かった」と、にこっと笑った。

「じゃあちょっと付き合ってくれないか」

 ……えっ。

 どきんと心臓が跳ねあがった。

 付き合って、という言葉が心を刺激してしまったのだ。

 ち、違うから。

 付き合ってって、一緒に来てって意味だけだから。

 わかっているのに反応してしまった自分が単純すぎると思う。

「は、はいっ!」

 動揺を隠すように大きな声が出たけれど、それはひっくり返ってしまった。

 逆効果じゃない、こんなの。

 一気に恥ずかしくなってしまったけれど、蘇芳先輩はなにも気にした様子がない、という顔で微笑んだ。

「良かった。じゃ、荷物まとめたら行こう」



 学校の校門を出てからもずっと緊張したままだった。隣を蘇芳先輩が歩いている。たったそれだけのことに。

 隣同士歩くなんて、めちゃくちゃ珍しいというわけではない。学校でだって、廊下ではちあわせれば「一緒に部室まで行くか」なんてことだってある。

 けれど今はちょっと状況が違って。

 どこまで行くのかわからないけれど、『一緒に帰っている』という形にもなるのではないか。

 そう思ってしまって、余計にどきどきしてきてしまった。

 実際、先輩は言った。

「なるべく遅くならないようにするから」

 そんなふうに言われること自体、一緒に帰る……いや、家まで送ってくれるとかそういう……いや、そこまでは。

 いろいろと考えてしまって、浅葱の心はちっとも落ちつけやしなかった。

 校門を出て、先輩が向かったのは駅のほうだった。蘇芳先輩も浅葱も電車の乗る方向は真逆だが、電車で通っているので、それは自然なことである。

 駅に向かうまでの間、蘇芳先輩はいつもどおりに話していた。

 「提出したらまずご苦労さん会をしようか。みんな作品作りを頑張ったからな」とか「そのあとはちょっと反省会……じゃないけど。取り組んだことの振り返りをしようと思うんだ」とか、そういう、部活のこと。

 自然な話題だったので、浅葱もいつも通りに話すことができた。

 そろそろ薄暗くなってきた、帰り道。まだ冬にならないから、真っ暗になるにはもう少しあるだろう。

 けれど夕日のオレンジ色は、藍色に変わりつつあった。

 行くほうはちょうど、オレンジ色が濃いほうだった。

 きれい……。

 心の中で感嘆して、数秒見つめてしまった。

 蘇芳先輩の絵、浅葱が初めて『出会った』あの絵のような夕日だった。

 あの絵は夏の日の絵だったから、日の光の感じは少し違う。

 でもあったかさは同じだ、と思う。

 夕日からあたたかさを感じるのはなぜだろう。理由はわからないけれど、包まれていると、なんだか安心すると思う。

 だからああいう絵を描く蘇芳先輩が好きなのかな。

 そう思ってしまって、はっとした。自分の思考に恥ずかしくなる。

「六谷、ミルクティー好きか?」

 不意に尋ねられて、浅葱はとっさに「はい!」と答えていた。実際、ミルクティーは好きだ。

 しかしその質問の意味がわかったのは、数秒後だった。

 蘇芳先輩が足をとめて、浅葱もつられるように立ち止まる。先輩が向かったのは、ちょうど通りかかった自動販売機であった。

 その様子を見て、どきっとしてしまった。飲み物を買ってくれるというのだろうか。いや、それしかないだろう。

 そのとおり、ぴっとボタンを押す音がして、がこんっと缶かペットボトルが落ちてくる音がした。それを持って、蘇芳先輩が戻ってくる。

「悪いな、待たせた」

「いっいえ!」

 答える声はひっくり返った。蘇芳先輩はその浅葱を見て、にこっと笑ってペットボトルを差し出した。

「手が冷たいだろう。これ、持ってな」

「……え?」

 それは先輩がさっき言ったように、ミルクティーのペットボトルだった。小さくて手の中に包めるくらいのサイズだ。ホットの飲み物によくあるサイズ。

 よく意味がわからなかったけれど、すぐに察した。飲み物をおごってくれるという、それ以上に。

 ……浅葱が寒くないかと、気を使ってくれたのだ。

 かっと胸が熱くなった。また『特別』を感じられてしまった。

 こんなことはささいかもしれない、いや、ささいだろうに、こんなに嬉しく思ってしまう。

「あ、ありがとう……ございます」

 心づかいはありがたく受け取っておくべきだ。浅葱は、そろそろと手を出してペットボトルを受け取った。

 ほわっと、あたたかさが手に伝わってきた。そのあったかさに、ほぅ、と息が出てしまう。それで、自分の手が思ったより冷えていたことに気付かされた。

 まだ手袋をするほどではないけれど、そろそろ用意することを考えたほうがいいかもしれない、と思った。

「ありがとうございます! とってもあったかいです」

「そりゃ良かった。そろそろ手袋、準備しないとなぁ」

 先輩も自分のぶんらしきものを手に包んで言う。それは今、浅葱が考えたことそのままだったので、なんだかくすぐったくも、嬉しくなってしまった。

「私も、そう考えてました。手袋、新しいの買おうかな、とか」

「なんだ、同じか」

 蘇芳先輩は、浅葱のその返事に嬉しそうにほほえむ。浅葱もつられてほほえんでいた。

 ペットボトルのミルクティーが、少し距離を縮めてくれた気がした。

「さ、もう着くぞ」

「はい……?」

 やりとりをしたけれど、今回もお金は受け取ってもらえなかった。付き合わせるんだから、とか言った蘇芳先輩によって。『付き合う』という言葉にまた浅葱が、どきんとしてしまったのは、ともかく。蘇芳先輩が入っていったのは、ちょうど到着した駅だった。

 どうして駅?

 帰るのかな。

 それとも電車でどこかに?

 いや、でも遅くならないって言ったから……それはないだろうけど……。

 ……?

 浅葱はいろいろ考えてよくわからなくなってしまった。

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