再び・先輩の『尊敬するひと』
「ありがとう、六谷さん」
秋も深まったある昼休み、浅葱は美術準備室を訪ねていた。クラスの提出物をまとめて、水野先生に出しに来たのである。
特に係ではないけれど、なにしろ美術部。先生のことはよく知っているし、「私が行くよ」と引き受けたのだ。
カゴにまとめられた美術の授業の課題を「そこに置いてくれるかしら」と、水野先生に言われた場所に置いた。
そんな浅葱を水野先生はねぎらってくれる。
「いえ、持ってきただけですから」
浅葱は、にこっと笑った。水野先生のことは好きだ。持ってきた、この課題だって楽しかった。
『一ヵ月以内の印象深かった思い出を、絵と文で一枚の日記にまとめましょう』と出ていた課題である。
浅葱はもちろん、お祭のバイトのことを描いた。
絵はなにを描こうとちょっと悩んだけれど、お祭の風景を描いた。秋祭りのオレンジや黄色をメインに使った飾りつけで華やかになった街の中、そこを楽しそうに行き交うひとたち。
でもバイトをした、という思い出なのだ。お店の様子も小さくであるが、描いた。蘇芳先輩の姿も描くことになったのでちょっと恥ずかしかったけれど……課題である以外にも、いい思い出になると思ったのだ。
その、課題。水野先生は空いた時間なんかに見てくれるのだろう。見てもらえるのが楽しみなような、同じ部活の先輩も描いているのでちょっと恥ずかしい、ような。
「六谷さんはなにを描いたのかしら?」
しかし内容は、話の流れで先に聞かれてしまった。
浅葱は何気なく、絵の内容を説明する。水野先生は「そうなの、それはいい経験だったわね」と言ってくれた。
「蘇芳くんと同じバイトになるなんて、偶然だったわね。ああ、そういえば蘇芳くんは夏にアルバイトをしたって言ってたわね」
「はい、そうですね。海の家でバイトをされたって言ってました」
お祭のバイトのときに蘇芳先輩から聞いたことを思い出す。『焼きそばとか運んだ』とか聞いたっけ。浅葱はちょっとおかしくなってしまった。
学園の王子様でカッコイイ蘇芳先輩が、「焼きそばいっちょー!」なんてお運びをするのだろうか。アンバランスな感じがする。
でもそれもそれでカッコイイと思う。
働いて、なにかに一生懸命になっている様子はとってもカッコイイし、輝いている。自分がバイトを経験したことで、浅葱はより強くそう思うことができた。
「そうだったの。部活をやってるとなかなかバイトは難しいと思うけれど、上手に使えればいいものね。蘇芳くんは特に部長なのに、えらいわ」
「そうですよね! 私も見習いたいです」
自分が褒められたし、それに蘇芳先輩のことはもっと強く褒められたので、浅葱は二重の意味で嬉しくなった。
蘇芳先輩ほどなんて、とんでもない。まだまだ遠く及ばない。
けれど少しは頑張っていると思ってもらえたのだ。嬉しくなるだろう、それは。
「そうね、先輩としてもみんなの模範になるような存在だと思うし……ああ、蘇芳くんにもそういう存在がいたわ。それでかしら」
水野先生がふと、話題に出したこと。
唐突だったので浅葱はちょっときょとんとした。
けれど、すぐに、はっとする。
ちょっと前、気になったことではないだろうか。これは。
『蘇芳先輩、尊敬してるひとがいるんだって』
部活の時間に萌江から聞いたことだ。詳しいことはほとんど聞けなかったけれど。
少しはそのことについて知っているらしい萌江にもっと聞いてみようかと思ったけれど、なんとなく聞きづらかった。
いや、蘇芳先輩に対する片想いなんてよく知られているのだから、今更だけど、それでも聞きづらい。
『そのひとのことを、どう思ってたんだろう』
そのとき浅葱が思ってしまったこと。そんな気持ちが全開なことなんて簡単に聞けるものか。
でも、今なら。
水野先生相手なら。
ちょっと聞くくらい、いいのではないだろうか?
今、まさに目の前で話題になっているのだし、不自然でもないだろう。
よって浅葱はどきどきしつつも口を開いた。
「そうなんですね。先輩の先輩、とかですか?」
浅葱の質問はなにも不思議に思われなかったらしく、水野先生はそのまま「ええ」と頷いた。
「蘇芳くんの二年生だったとき、三年生だった子よ。曽我(そが)さんって子なんだけどね、当時の部長よ」
やっぱり。
浅葱は心の中で言った。
そして出てきた名前を反すうした。
曽我。
曽我さん。
曽我先輩、いや、大先輩。
……男子だろうか? それとも女子……。
いや、先生は『さん』とつけた。
蘇芳先輩や、男子生徒には『くん』付けなのに。
つまり、女子先輩である可能性は高そうだ。
というのは、もしかして、自分の考えたことはありうるのではないだろうか。
すなわち。
『そのひとのことを、どう思ってたんだろう』
そういう心配である。
ただの尊敬ならいいけれど、片想いをしていたとかそういうものなら嫌だなと思ってしまう。
いろいろとぐるぐる考えてしまった浅葱だったけれど、「曽我さんは美大に進んだんだけど、元気にしてるかしら。卒業してしまったら遠くなってしまうものねぇ」なんて水野先生が言ったことで、はっとした。
自分の考えに沈んでしまった。
幸い、水野先生はあまり気にしなかったらしい。
「そ、そうなんですね! 美大の入試って難しいんですよね。すごいです!」
「そうね、美術部でも美大志望は毎年何人かいるけれど……残念だけど、全員は受からないものね」
そこで少し話は違うところへ行った。
とりあえず、名前を知れて、『尊敬しているひとがいる』というのを知れたので良かったかな、と浅葱は思った。
知ってどうなるものでもないし、まさか蘇芳先輩に『そのひとが好きだったんですか』なんてことは聞けるものか。
だから、知識としてあればいい。
好きだったひとがいたみたい、そのくらい知っていれば……。
それで一旦は満足しておいた浅葱だったけれど、具体的に聞いてしまったことで、ちょっとだけ心は痛んだ。
私も蘇芳先輩に尊敬されるような存在……例えば同級生だったとかで……になれていたら良かったのになぁ、と思ってしまう。
しかしすぐに自分のその思考に、心の中で首を振った。
ううん、欲張っちゃダメ。
蘇芳先輩は私が頑張っているところを認めて「すごい」って言ってくれるんだから。
部活のことでも、お祭のバイトでもそうだったじゃない。
だから、これから頑張ってもっと認めてもらえるようになれば。
浅葱がそう決意したところでチャイムが鳴った。
予鈴だ。お昼休みがもうすぐ終わる。
水野先生も時計を見上げた。
「あら、もうこんな時間。引き留めて悪かったわね」
「いえ、私こそいろいろお話できて良かったです。ありがとうございます」
「そうね。部活の時間はゆっくりお話する時間も少ないものね。でもなにかあったらなんでも言ってね。相談に乗るわ」
「はい! ありがとうございます。では失礼します」
ぺこりと浅葱はおじぎをして、美術準備室をおいとました。
次の授業は移動教室などではないから遅れてしまうことはないだろう。
けれど教科書やノートを用意したりなど、することはあるからちょっと急がないと。
速足で廊下を行く。
その間に、浅葱の思考は穏やかに午後一番の授業へと移っていった。
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