誤解と混乱

 それからの午後は、どきどきしっぱなしだった。

 蘇芳先輩が近くにいると思うと、「いらっしゃいませ!」と声を出すのも急に恥ずかしくなってしまったくらいだ。

 ちゃんと仕事もしない子だと思われるのは嫌なので、頑張って大きな声で言うようにしたけれど。

 蘇芳先輩は、主に商品のお菓子の品出しと、イートインのお客の接客をするらしい。

 その手際は実に良かった。お客さんが店員を呼びたそうにしていれば、呼ばれる前に、ぱっとそちらへ行ってしまうのだ。

 それはきっと夏休みの『短期バイト』のためなのかと思った浅葱だったが、実際そうだったらしい。

 ちょっとお客さんがとぎれたときに教えてくれた。

「海の家でバイトしたんだよ。焼きそばとか運んだんだぜ」

 海の家。夏のまっさかりだ。お客さんはすごく多かっただろう。

 この商店街の一軒のお店の売り子とは比べ物にならないのだろうな、と予想できた。

「そ、そうなんですね! すごく慣れてるなと思って……すごいです!」

 純粋にすごいと思って言ったのだが、蘇芳先輩はちょっと照れたような顔になる。

「トータルのひにちでは半月くらいしか入ってなかったけど……身についてるなら、やっぱやってよかったかな」

「いえ、私も見習いたいです!」

 ぐっとこぶしをにぎって言ってしまった浅葱。その様子に蘇芳先輩は、ふっと笑ってくれた。

「六谷ならできるさ。今だって、元気に明るく『いらっしゃいませ』ってお客さんを迎えてるじゃないか。バイトは初めてなんだろう。それなら上出来だよ」

 ほめられた。浅葱の顔が、かっと熱くなる。

 顔だけでなく、胸も熱い。自分は働くなんて初めてで、未熟もいいところなのに、それでもいいところを見つけてほめてくれた。それが嬉しくてたまらない。

「すみませーん」

 話に夢中になっていたからか、そこへお客さんに呼ばれてしまった。若い女の子のグループだ。

「おっと、いけない。俺が行くよ」

 蘇芳先輩は、ぱっと仕事モードになってそちらへ向かった。

 来てくれたのがイケメンだったからか、お客さんだった女の子たちはいっせいに顔を見合わせた。すぐに、きゃぁっと沸き立った声がした。

「もしかして、蘇芳先輩ですか!?」

 どうやら蘇芳先輩を一人の女の子が知っていたらしい。別の学年か、もしくは学校の子のようで浅葱は知らなかった。

「私です! 中学で一緒だった……」

「ああ! 懐かしいな。宮崎(みやざき)か」

 どうやら中学校の知り合いらしい。蘇芳先輩はすぐに思い出した様子で、にこにこと話しはじめた。

 それは接客の範囲を出ないものだったけれど、浅葱は当たり前のように、ちょっとおもしろくなくなってしまった。

 片想いの相手が、こんなふうに女の子にいい反応をされているのだ。きれいな感情ではないけれど、そういう気持ちになるのはある意味、仕方がないのだった。

 そこでちょうどほかのお客さんがカウンターに来た。浅葱は慌てて「いらっしゃいませ! なにに致しましょう」と接客をはじめる。

 それを見たらしい蘇芳先輩が「悪い、お客さんが入ったから、俺、行くな。ごゆっくり」と自然に話を切り上げるのが聞こえた。話をしていた女の子たちに、だろう。そしてこちらへやってきてくれた。

 浅葱だけでは心もとないと思ったのだろう。

 その優しさを感じられて、浅葱の心が、ほわっとあたたかくなった。

 蘇芳先輩に、より近いのは私なんだ。

 そんなことを思ってしまい、ちょっとだけ自己嫌悪したけれど、そんな気持ちは見ないふりをする。

「手伝うよ。あんこの団子が三本と、みたらしが二本。おはぎが三個。テイクアウトだよな?」

「は、はい!」

「俺が包むから、お会計を頼む」

 少し離れた場所だったのに、聞いてくれていたらしい。浅葱はやるべきことを言われてちょっとほっとした。

 あたふたとまだ慣れない手つきで金額を計算して、それをお客さんに告げて、お金を受け取る。

 蘇芳先輩が「ありがとうございます」と、包んだお団子とおはぎを差し出した。おどろくべき速さであった。浅葱はまた感心してしまう。

「ありがとうねぇ。このお店の、お彼岸限定のおはぎが好きでね。もちろん、お団子は普段から好物だし」

 包みを受け取ったお客さんはにこにことした。

 初老の女性だったけれど、そのあととんでもないことを言われて、浅葱は違う意味で仰天した。

「かわいらしい店員さんだねぇ。彼女さんかい」

 かわいらしい……も嬉しいけど、そのあと。

 彼女!?

 どきん、と心臓が跳ねた。一気に顔が熱くなる。

 そんなふうに見えたなんて。言われてしまったなんて。

 どくどくと速い鼓動を抱えながら、ちらっと蘇芳先輩を見てしまった。

 直後、後悔する。

 蘇芳先輩もこちらにちらっと視線をやっていて、ばっちりと目があってしまったのだから。

 そのかちあった視線は、かぁっと浅葱の頬を熱くした。先輩におかしく思われていないことを祈るばかりである。

「ありがとうございます。でも、後輩なんですよ」

 後輩。

 蘇芳先輩の言ったこと。にこやかに言っていたけれど、そしてそれはまぎれもない事実だけど。

 浅葱の心が、ずきっと痛んだ。

 なに、そんな、私ったら。

 彼女、って見てもらっただけで嬉しくて、満足しておかないといけないところなのに。

 後輩、っていう当たり前のことを言われただけなのに心が痛むなんて、図々しいよ。

 そう自分に言い聞かせたけれど、痛みはどうしようもなかった。

「そうなのかい。悪かったね。仲むつまじい様子だと思ったものだからね」

 女性はころころと笑った。そして「ありがとう。また来るね」と、包みを大事そうに持って、帰ってしまった。

 しかし浅葱は「ありがとうございました」なんて、お見送りの言葉を言うことができなかった。

 さっきのことが衝撃的すぎて。

 彼女。

 彼女、って。

 そして、……後輩。

 最後のものが、本当の関係。

 それは嬉しいやら、ちょっと悲しいやらだった。

 そんな浅葱を、蘇芳先輩が見てくるのを感じた。

 けれど今度はそちらが見られない。きっと顔が赤いだろうから。

「……悪かったな。びっくりしたろう」

 なぜか蘇芳先輩が謝るのだった。

 気を使わせてしまった。今度は違う意味で浅葱の心がずきっとした。

 誤解されるのは嫌だ。嫌だと思ったなんて、思われたくない。

「い、いえ、……いえ」

 なにか言わなければ。なんとか口を開いた。

 けれどろくなことは出てこなかった。

 「嬉しかったんです」なんてことは言えない。そんな、告白めいたことなんて。

 じゃあほかになにを言ったらいいのか。混乱した思考ではわかるはずもなく。

 そこで詰まってしまうしかない。

 蘇芳先輩が笑みを浮かべる気配がした。その笑みがどういうものなのか。浅葱にそれを正面から見る勇気はなかった。

「でも、……なんか、嬉しかった、かな」

 それでも聞こえたこと。

 一瞬、幻聴が聞こえたのかと思った。自分の願望が蘇芳先輩から聞こえたように感じてしまったのかと。

 しかし幻聴などが、今、聞こえるはずがないではないか。

 ばっと、蘇芳先輩のほうを見てしまっていた。

 そして信じられない気持ちになった。

 蘇芳先輩は、見たこともないような顔をしていたのだから。

 ちょっと、照れたような、顔?

 ヒトのこういう表情は、そう取るのが自然だと、浅葱は思った。

 でもどうしてこんなことになっているのか。

 それが理解できずに、ぽかんとしてしまった。

 まるで馬鹿のように。

 じわじわと、現実と意味が染み込んできそうになったとき。

「浅葱ー! ごめぇん、手が空いてたら、ちょっとこっち手伝ってくれない?」

 高い声が聞こえた。綾だ。なにかヘルプが欲しいらしい。

 浅葱は、ほっとした。

 そりゃあもう、心底ほっとした。

 蘇芳先輩のほうを、ちらっと見る。

 蘇芳先輩はもうさっきの表情をしていなかった。

 あれは一瞬の夢だったのではないか。またそう思ってしまう。

「カウンターは俺が見てるから、いってきてあげなよ」

 普段とまったく変わらない様子で言われて。

 浅葱はただ「はい。お願いします」としか言えなかった。

 綾に呼ばれた、奥のほうへ向かう。ふらふらと夢心地だった。

 のれんをくぐって、店内へ入って。

 そこでやっと、遅れて、どくっと心臓が跳ねた。

 かーっと顔が熱くなってくる。

 一連のできごと。

 なんだったのだろう。

 彼女か、なんて誤解されて。

 おまけに蘇芳先輩は、それが「嬉しかった」なんて言ってくれて。

 これは、いったい。

 思考はぐるぐる混乱して、しばらく落ち着いてくれそうになかった。

 だめ、今は仕事中なんだから。

 浅葱は必死で自分に言い聞かせた。

 それでも、気を取り直して綾のヘルプに向かえるのには、たっぷり三分はかかってしまっただろう。



 秋祭りの三日間は順調に進んで、終わった。

 残りの二日間もやはり蘇芳先輩が一緒で、違う意味で緊張してしまった。

 あれから変わったことはなかったけれど。蘇芳先輩はいつも通りの『先輩』であったし、なにか言われるとか……そういうことも起こらなかった。

 平和に終わってしまい、最後の日、夕方に終わったお祭りのあと、綾のお父さんが「ありがとう。とても助かったよ」とお給料袋というものをくれた。

 お金だけが目当てではなかったけれど、やっぱり嬉しくて。「ありがとうございます!」と、お給料をいただく声ははずんでしまった。

 でも手に入ったのは、お金だけではない。

「私こそありがとうございました。とてもいい経験ができました」

 ぺこりとおじぎをして言った浅葱に、綾のお父さんは、にかっと笑ってくれた。

「そうかい。そりゃ良かった。じゃ、またなにかのときにはぜひ手伝ってくれよ」

「はい! ぜひ」

 そんな、お祭の終わり。

 一日目にあったあのことは、綾に話していた。綾は嬉しそうに顔を輝かせてくれた。

「なにそれー! それ絶対、脈ありだって!」

 もはや綾のほうが乗り気のような様子になる。浅葱はあわあわと言った。

「で、でも単に、後輩ってだけ言うのは悪いとか思ったからかも……」

 それは自分への言い訳だったのだけど、綾には、ばっさりと切って捨てられてしまった。

「そんなわけないよ! 浅葱は興味ない男の子に『彼氏みたいって言われて嬉しかったよ』なんて言う?」

 そう言われてしまえばそのとおりなのだけど。

「それはないけど……だからって」

「蘇芳先輩も同じだと思うけどなぁ。どう? いい機会だし告白とか……」

 後ろ向きになってしまっていた浅葱を、綾はたきつけてくる。

 その提案にはまた顔が熱くなってしまった。

 確かに可能性はなくもない……のかもしれないけれど、だからといって。

 でも浅葱も自分で感じていた。

 蘇芳先輩を好きだと思う気持ち。それがもう、ほんのりとした恋心や、先輩として憧れる気持ちを通り越してしまっていることに。

 蘇芳先輩が自分を好きになってくれたらいいな、と思う。

 いや、そうなってほしいな、と思う。

 だから今の状況はとても嬉しいものなのだけど……告白、というのは。

 今までしたことがないし、勇気なんてすぐ出るものか。




 最終日のお祭バイトのあとは綾のお父さんが「ささやかだけど、打ち上げだ」なんて、ピザを取ってくれて、みんなで食べた。それはとてもおいしかったし、楽しかったけれど。

 たった二日では告白だのなんだのの決意なんてできなくて、結局おしゃべりをしてピザと、あと綾のお父さんが出してくれた和菓子を食べて終わってしまった。

 一応、少しだけ話はできた。

「お疲れ様」

 打ち上げも終わって、帰るとなったとき。蘇芳先輩は浅葱に話しかけてくれたのだ。

「お互い、頑張ったよな。六谷も初めてのバイトなのにすごく頑張ってて……」

 こうして先輩はまた、浅葱の良いところを見てくれて、伝えてくれるのだ。

「先輩こそお疲れ様です! たくさん助けていただいてしまって、ありがとうございました」

 お礼を言いつつも、ちょっとどきどきしていた。

 このあと、なにか、とか。

 そう思ってしまったのだ。

 けれど特になにも起こらなかった。

 少しだけ雑談をして、「じゃあ、明日からはまた美術部で頑張ろうな」と、蘇芳先輩は帰ってしまった。蘇芳先輩はここから駅に行って、電車に乗って帰るのだ。浅葱の帰るのとは逆方向であったし、「一緒に帰りましょう」というのも不自然だ。

 綾の家、お店の前で別れて、先輩が見えなくなってから浅葱はちょっとだけ、心の中でだけであったけれど、ため息をついてしまった。

 絶好のチャンスだったかもしれないのに。

 ふいにしてしまったのかもしれなかった。

 『なにか起こるのかもしれない』なんて、期待して待っているだけではいけなかったのではないか。

 今更、後悔してしまう。

 でも後悔していても仕方がない。

 告白どうこうだって、すぐじゃなくてもいい。

 浅葱は帰り道、自分に言い聞かせた。

 きっとチャンスやタイミングはまた来てくれるだろう。

 だって、明日からも部活で一緒なのだ。一緒に過ごしていれば、きっと。

 そう思っておくことにして、明日からはまた気持ちを切り替えて、学校と部活を頑張らないと、と決意したのだった。

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