先輩の『尊敬するひと』

 九月も下旬になり、だんだん秋の気配が濃くなってきた。ここしばらくは毎年、残暑が厳しいのだけど、今年はわりあい涼しくなるのが早いようだ。朝などは半袖のブラウスが肌寒く感じることもある。

 風邪を引かないように気を付けないと、と、登校時はカーディガンをプラスしたりして過ごす浅葱だった。

 風邪など引いている暇はない。なにしろ秋季賞に出す絵の作業が本格的になってきているのだ。それに使う時間を無駄にしようなんて。

 絵は下描きを終えて、実際に色を塗っていく段階になっていた。

 とはいえ、いきなり本当に色を塗っていくわけではない。まずは、おおまかに色を分けていくために、薄く色を付けて全体のイメージを掴む。それで本番の色を少しずつ塗っていくのだ。

 下書きの段階、そして下塗りの段階で、顧問の先生に見てもらってアドバイスをしてもらった。

 「ここはパースが少し歪んでいるから、こうしてみたらどうかな」とか「色分けはこっちの色のほうが見やすくてイメージしやすいよ」とか、的確で具体的な言葉をたくさんもらった。

 顧問の先生は、まだ若い女の先生だ。美大を出て、しかし画家やイラストレーターになるのではなく、美術の教師になったひとだ。

 「教育のほうにも関心があったからね。自分の得意なことを教えられるなら、楽しそうだと思ったの」なんて、前に聞いたことがある。

 そういうことは、浅葱はまだ考えていなかった。高校一年生なので、進路などはまだ考えるのには早いと思っていたこともある。

 今はまだ、いろいろ経験していって、自分の好きなことや適性をはっきりさせていく時期。先輩たちにもそう言われている。

 考えるのは二年生になってからでもいいよ、それだってまだ早いかも、なんて。

 でも顧問の先生……水野先生というのだが、髪をショートカットにしていて活発な印象のそのひとを見ていると、こういう、自分のやりたいことを形にしているような大人になりたいなぁ、と思うのだった。

 その水野先生にたくさんアドバイスをもらったけれど、もちろん蘇芳先輩のアドバイスも求めた。

 蘇芳先輩はただの指導役ではない。自分の絵に集中したいことも多いはず。

 でも部長として、ちょくちょく部員の絵を見てくれるのだ。両方ができるというのは、とても器用なことだし、おまけに優しいことである。

 浅葱のこともたまに見てくれた。

「ここ、色を変えたほうがいいでしょうか」

 あるとき、先輩が「悩んでるとこはない?」と見てくれたとき、浅葱はそのように相談した。蘇芳先輩は、ちょっとあごに手を当てて考える様子を見せて、ひょいっと手を伸ばして浅葱がかたわらに置いていたカラーパレットを手に取った。ぱらぱらとめくる。

「そうだな。色のバランスとしては、それでも悪くないと思う。けどグラデーションにしてみたらどうかな。濃さでバランスを調整するんだ」

 この色から、このくらいの色になるように……。なんて、指差して教えてくれた。

 グラデーション。それは思いつかなかった、と浅葱は思う。

 けれど頭の中でイメージしてみたら、それはより的確な気がした。

 ひとつの色でべったり塗ることはない。色を完全に変えてしまうこともない。

 微妙な色合いで繋げていったら、自然に見えるし、より綺麗だろう。

「それ、きっと素敵です!」

 浅葱の言葉は輝いてしまった。やはり相談してよかった、と思える。

「それなら良かった。でも俺の言うことを全部実行しなくてもいいんだからな。あくまで六谷の表現したいことを重視したらいい。それが六谷らしい絵になるんだから」

 アドバイスをくれたのに、それを守れとは言わないのだ。守ってやってみろ、と言われるのも嬉しいと思う。

 アドバイスなのだ。教えてもらったからには、実行して、より良くして見るのは大切だと思う。

 けれどこれは、あくまで練習作ではなく、『作品』だ。それはやはり、『自分の絵らしくあること』が重要なのであって。

 だから蘇芳先輩の言ってくれたことは優しいことであり、浅葱の自主性も尊重してくれるような言葉であった。

 そういう言葉をかけられることが、見守る立場である部長らしいことなのだ。

 ああ、やっぱりこういうところを尊敬している。浅葱は噛みしめてしまった。じんわり胸が熱くなる。

「はい! やってみて……それで調整してみます」

「それがいいよ」

 浅葱の声がやる気に溢れていたからか、蘇芳先輩は、にこっと笑った。

「またわからないところや、迷ったところがあったら相談してくれよ。的確かはわからないけれど、俺に思いつけることがあったら伝えるから」

「はい! ありがとうございます!」

 そんなアドバイスと優しい言葉をくれて、蘇芳先輩は次の子のところへ行ってしまった。

 はぁ、と浅葱は心の中でため息をついた。嬉しいため息だった。

 話せたこともそうだが、先輩が本気で浅葱の絵を良いものにしたい、してほしい。そう思ってくれることが伝わってきたから。

 頑張らないと。

 浅葱は胸の中で気合を入れ直した。

 絶対に、いい絵にするのだ。

 上手に描くだけではない。私らしくて、満足できるような出来の絵に。

 そう決意していたところへ、ひょいっとやってきたひとがあった。

 それは美術部仲間の萌江だった。

「良かったね。お話できてさ」

 声をひそめていたけれど、そう言ってくれる。浅葱はちょっと笑みを浮かべてしまった。今度のものは、照れ笑い。

「うん。お話できたし……それに、アドバイスもすごかったし」

「すごい?」

 萌江は、ちょっとよくわからない、という顔をした。確かにあいまいだったかな、と思って、浅葱は言いなおした。

「絶対にこうしろ、って言わないでしょう。あくまで参考に、って。それはアドバイスされるひとの気持ちをよく考えてるんだなぁって。それがすごいって」

「ああ、なるほど。それはそうだね」

 今度は伝わったらしい。なるほど、とうんうんとうなずいてくれる。

 けれど、次に言われたこと。浅葱は、どきっとしてしまった。

「蘇芳先輩も、尊敬してるひとがいるんだって。蘇芳先輩の、また先輩……私たちにとっては大先輩、になるのかなぁ。教えてくれたことを、後輩に教えることで返したいんだって。前にそう言ってたなぁ」

 それは初めて聞くことだった。

 尊敬しているひと?

 そんなひとがいたなんて、初めて知った。

 確かになにもおかしくない。

 蘇芳先輩だって、以前は『後輩』という立場だっただろうし、そのときは『先輩』にいろいろと習っただろう。その経験が今の蘇芳先輩を作っているのだ。

 でも。

 ……『尊敬しているひと』。

 それは、いったい。

 頭に浮かんでしまったことは、ある意味当然のことだったかもしれない。片想いをしている身としては。

 なんでもそっちに結び付けてしまうのはどうかと思うけれど、考えてしまって仕方のないようなことでもある。

 すなわち。

『そのひとのことを、どう思ってたんだろう』

 そういうたぐいのことである。

 先輩、として尊敬していただけではなかったら?

 まさに今、自分がそうであるように。

 尊敬と同時に、恋の気持ちが一緒にあったということも、なくはないだろう。

「そ、そうだね」

 はっとした。萌江が話してくれたのに、数秒、黙ってしまった。

 いけない、これはおかしかっただろう。

 思ったので、ちょっと笑っておいた。作り笑いだったけれど。

「私もそういう先輩になりたいな。来年とかになったら」

「そうだね。見習わないとね」

 特におかしくは思われなかったのか。萌江も笑顔になってくれた。

 そして「あ、まずいまずい。サボってると思われたら困るね」と、離れていってしまった。再び自分の絵に向き直る。

 あまりおしゃべりばかりしているわけにはいかない。先輩や先生から習うだけではなく、同級生の間でもお互いにアドバイスしあったりもするので、しゃべることは禁止ではないけれど、あまり口ばかり動かしていると注意されてしまうかもしれない。

 よって、浅葱も自分の絵に向き直った。

 さっきの蘇芳先輩のアドバイスを思い出して、カラーパレットを当てて色を見ていく。下塗りをもう少しやり直して、イメージしやすくしてみようかな。そう思った。

 そうして作業に戻れば、すぐに意識は絵のことにシフトしてしまった。

 けれど、胸には確かに残ってしまった。

 蘇芳先輩の、『尊敬しているひと』。

 それはいったい、どういうひとなのだろう。

 知るすべは……ないかもしれない。

 それゆえに、だろうか。胸にしこりのように残ってしまったのは。

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