フラペチーノの甘い時間
地球堂で、基本的な色の絵の具を三本買った。ついでに、予算も抑えられたので、例の特売の筆も買った。
ワゴンの中に気になる筆があった、という浅葱の言葉に「じゃあそれ、見てみよう」と言って、見てくれた蘇芳先輩。
「これ、掘り出し物だぞ。コシがあって描きやすいんだけど、天然毛だから高いんだ。……ああ、やっぱ定価、高いじゃないか」
実際、そういう値札がついていた。千五百円くらいはする。 絵筆としてはかなり高価な部類だ。それが50%オフ。
ちょっと目を丸くして、勧めてくれたので、もう迷わなかった。
その筆と絵の具を包んでもらって、蘇芳先輩と外へ出た。
繫華街の中を歩いているときから、すでに緊張してしまう。
だって、こんなのまるでデートのよう。付き合っているなら『放課後デート』というやつではないか。
蘇芳先輩とこんなふうに、楽しいお店の並ぶ街中を歩けるなんて信じられなかった。
「あ、あの店。クラスで話題になってた」
歩くうちに、先輩が一軒の店を指差した。そこには割合長い行列ができている。新しくできたタピオカ屋だ。
「あっ、私も聞きました! 今度のお休みに行ってみたいって、友達と話して……」
ちょっと変わったお店で、紅茶のミルクティーではなく、緑茶のミルクティーに入っているのだ。それで話題になっていた。
「そうなのか。緑茶、好きなのか?」
「はい! 緑茶も抹茶も、日本茶が好きで……あのお店も、緑茶以外にもほうじ茶とかもあるみたいですよ」
歩いているうちに、だんだん緊張もほぐれてきた。元々、学校で話すならこんなに、必要以上に緊張なんてしないのだ。楽しさもはっきり感じられるようになってくる。
「そりゃおいしそうだな。今度、飲んでみよう」
先輩は、興味を示したようで、にこっと言ってくれた。そこでちょっとだけ浅葱の頭に浮かんだこと。
『今度、飲んでみよう』
それが自分とだったらいいな、なんて。
すぐに恥ずかしくなってしまって、打ち消したけれど。
そんなのは完全にデートだ。ありえるはずがない。
でも、こうしてお店のそばを通ってこんな話ができるだけでも。
また胸には嬉しさが戻ってきた。
そして入った先はカフェだった。ある意味、タピオカを買って外で飲むよりすごいのでは。そこですでに浅葱はどきどきしてしまう。
「六谷、なんにする?」
カフェといっても、チェーン店。ムーンバックス、という名前のそこは、オシャレであるけれどカジュアルに入れるところだ。フラペチーノが人気で、季節限定のものはいつも話題になっている。
「え、えーと……じゃ、さつまいもフラペチーノにします」
実は飲んでみたかったんだよね。
心の中で嬉しくなってしまう。
浅葱も例にもれず、現在の季節限定のものを飲みたいと思っていた。なので、ちょうど良かった。
それに、きっとおいしいであろうフラペチーノを蘇芳先輩と飲めるなんて。嬉しさは何倍にもなってしまうではないか。
「そうか、じゃあ俺もそれにしよう」
えっ、同じのが飲めるの?
そんなのすごい、もっとデートみたい。
そう思った浅葱だったけれど。
先輩は今日はお店が空いていたので、すぐに注文できそうにあいていたレジ。つかつかと向かって、「さつまいもフラペチーノをふたつ、お願いします」と注文してしまった。
浅葱は、きょとんとしてしまい、すぐにかぁっと頬が熱くなるのを感じた。
一緒に注文してもらってしまった。同じメニューを、ふたつ。
デート感は増すばかりである。
もしかして、レジのお姉さんとかに「デートなのね」とか思われたりして。
そんな妄想までしてしまって、すぐに心の中でぶんぶんと首を振った。
それは図々しすぎる。
図々しすぎる、けれど。
まるでなくは、ないんじゃないかなぁ。
なにしろ高校生の男子と女子が、一緒にいるのだ。そう見えたっておかしくはないだろう。
胸を熱くしながら、「あちらでお待ちください」と言われて待機カウンターへ向かった蘇芳先輩を追いかけた。肩にかけていたバッグからお財布を取り出す。
「すみません、注文お任せしてしまって……650円ですよね」
お財布を開けて、小銭をつまもうとしたのだけど、「ああ、いい、いい」と手を振られてしまって、また驚いた。
「俺が誘ったんだから、おごるよ」
また、きょとんとしてしまった。
おごるとは。
いや、意味がわからないわけはないけれど。
そしてその言葉の意味はすぐに飲み込めて、慌ててしまう。
「え!? えっ、いえいえ、そんな、悪いです!」
そう言ったのに、蘇芳先輩は笑顔のまま。
「いいって。実は夏休みに短期バイトをしたんだよ。それが結構、収入になったから」
それでさっさと先輩は「さつまいもフラペチーノ、おふたつ。お待たせしましたー」と、店員さんが差し出してくれたカップをふたつ持って、おまけに「さ、あっちで飲もう」とうながされてしまった。
あわあわとしつつも、ここで無理やりお金を押し付けるのも失礼になる。
え、え、いいのかな。こんな、誘ってもらっただけでもありがたいのに、おごってくれるなんて。
これは夢ではないだろうか。
浅葱にはもはや、そんなふうにしか思えなかった。
先輩をそのまま追いかけて、「ここでいいかな」とすすめられた、窓際のカウンタ席につくしかなかったのである。
男の子に飲み物をおごってもらったなんて、初めて、だった。
「お、これうまいな。さつまいものモンブランみたいだ」
座った窓際の席。
蘇芳先輩が隣に座っている。
いただきます、とフラペチーノのカップを手にして、太いストローからひとくち飲んだ。
嬉しそうに感想を述べる。
しかし浅葱はもはや、さつまいもフラペチーノどころではなかった。あんなに飲みたいと思っていたのに。
今となっては気軽に「これにしたい」なんて言ってしまったことを後悔もしていた。こんな……デートのようになるとは思っていなかったのだ。
嬉しいに決まっているけれど、心の準備がまるで追いつかない。
ただ、一人で画材を身に来ただけだったのに、こんなラッキーが降ってくるとは誰が思っただろう。
おまけに。
……これ、向かい合うより距離が近い。
思い知ったのは、うながされるままに椅子に腰かけてからだった。
余計に恥ずかしくなってしまう。
隣同士、座るなんて初めてだった。
横に座る、蘇芳先輩の気配がはっきりと伝わってくる。なんだかほんのりあたたかい気がした。
体が触れているわけもない。数十センチは距離が空いている。
でもなんだかあたたかい気がするのだ。不思議なことだ。
『ひとがそこにいる気配』がこんなにあたたかくて、はっきり感じられること。浅葱は初めて知った。
「溶けちまうぞ?」
ちょっと不思議そうに言われて、はっとした。また違う意味で恥ずかしくなった。
こんな、隣同士に座っただけで意識してしまうなど。
おかしいと思われただろうか。そう思ってしまったことにまた恥ずかしくなる。
今日は先輩に出くわしてから、まったく、気持ちが落ちついてくれることはなかった。
でも飲まないと、溶けてしまう。フラペチーノは半分アイスのようなものだから。
「は、はい! では」
やっと口を開いて、そこで思い当たった。このまま飲んでしまっては。
ちょっとためらった。
こんなこと、ラッキーすぎるし、それがちょっと恥ずかしくもある。
でも、言うべきことを言えない、言わない女の子だなんて思われるわけにはいかない。
「……ごちそうに、なり、ます……」
言った。小さすぎる声になった。こんな声になってしまうこと、もうめったにないというのに。
でも先輩は、くすっと笑った。
なんだか楽しそうにも見えた。
「律儀だなぁ。はい、どうぞ」
言われた言葉も少し楽しそうだった。それにほっとするやら、また恥ずかしくなってしまうやら。
でも、嬉しいのは確かで。確かどころか、胸がやけどしそうなほど熱いくらいに嬉しくて。
そっと手で包んで持ち上げた、フラペチーノのカップ。ストローからひとくち飲めば、あまいほっくりとした味が、口の中に広がった。
おいしい。
純粋な、おいしいものを口にした嬉しさが生まれる。
「すごくおいしいです! ほんとに味がモンブランみたいですね」
モンブランは基本的に栗のスイーツだけど、さつまいもでできているものもある。それを飲んでいるように感じてしまったのだ。
そのおいしさと甘さに助けられたように、普段通りに近い声で言うことができた。
そんな浅葱を見てか、蘇芳先輩は微笑んだ。
「ああ。さつまいもでできた、冷たいモンブランって感じで、不思議だな」
横にいる先輩を何気なく見て、しかしすぐに後悔した。
近い。
やっぱり近かった。
顔がはっきり見えてしまう。
三十センチくらいしかないだろう、こんな近い距離。
かぁっと顔が熱くなるのを感じてしまって、浅葱はとっさにフラペチーノに視線を戻してしまう。
そこで目に入った。カップに描いてあるものが。
ムーンバックスは、店員がカップに絵を描いてくれることがある。
コーヒー、トールサイズ、とか注文をメモするのだけど、それのおまけに描いてくれる、という具合だ。
今日のそれは。
『LOVE』という文字。流れるような線で描かれていた。しかもそれが、同じ線のハートでくるりと囲まれている。
くらっと意識が揺れた。
これは。
店員さんが。
……『LOVE』をつけたくなるような関係に見えたってこと?
思ってしまったけれど、まるっきり的外れとも思えなかった。
ムーンバックスに入ってから、驚きやらどきどきやらが多すぎて、もう心臓がもたない、と思ってしまう。
けれど、ただお茶を飲むために来たわけではないのであって。
「さ、じゃあ見るか。えーとな、ここ会員制だから、俺のスマホで見るか」
言われてやっとその本来の目的を思い出した。
そしてそのことにまた恥ずかしくなった。目的も忘れてしまうほど、このデートのようなカフェ模様に夢中になってしまっていたことを。
「は、はい! ありがとうございます」
そうだ、先輩が紹介してくれたサイトで絵の具を見るのだった。
やっと浅葱の意識は本来の目的に戻ってきた。
蘇芳先輩はスマホをカウンターの上に置いて、こちらに向けてくれる。
私が見やすいように、だ。
浅葱は知ってしまう。
この置き方では蘇芳先輩は見づらいだろうに。
自分では普段、見慣れているから、浅葱のことを気遣ってくれたのだろう。
その推測でいくと、隣同士のこの席もそういう理由で選んでくれたのかもしれなかった。
そういう気持ちが、とても嬉しい。
それに、そういうところが好き。
思ってしまって、また頭の中が沸とうしそうになったけれど、我慢する。先輩がせっかく見せてくれているのだ。こんなふうになっている場合では。
「さっきの青が、これだよな。使ってる顔料がわりと高価だから、絵の具になっても高めの値段らしいんだけど……」
いくつかページを開きながら、解説してくれる。
浅葱が知らないことばかりだった。
絵の具の種類は知っていても、どうして高価なのかとか、材料の顔料がなにかで……とか。そういうことは詳しくなかった。
けれど、そういう知識はあって困ることはない、と思った。
むしろ、自分にとって身近なものなのだから、よく知ってみたい。そうも思った。
「で。登録すると、会員価格で買える」
「……そうなんですね」
一通りの説明のあと、浅葱は、ほぅ、とため息をついてしまった。
絵がうまいだけではない。
技術が高いだけではない。
画材、つまり、絵を描くことに関連した知識も多かったのだ。蘇芳先輩は。
また尊敬する部分が増えてしまった、ということに感嘆してしまったのである。
自分もこんなふうになりたい。浅葱はかみしめた。
今すぐには無理かもしれないけれど、たくさん絵を描いて、勉強もして……三年生になる頃には、今、隣にいる蘇芳先輩のような立派な先輩になりたい。
そこで、自分が『先輩』という立場になるということは、もう同じ学校には蘇芳先輩はいないのだということが、ちらっと頭に思い浮かんで、ちょっとだけ胸が痛んだけれど、今は関係ない。頭のすみに追いやった。
「じゃあ、登録したらいいんですよね」
浅葱は言って、自分のスマホを取り出した。いくつか数字を入力して、ロックを解除する。先輩の教えてくれたサイトにアクセスした。
「ああ。別に特別な情報がいるわけじゃないから、すぐできるよ」
ここから登録画面に進む、とか、メールアドレスと名前と、あと生年月日が必要……などと、指差して教えてくれた。
ただ、浅葱が個人情報を入力するところは見ないでいてくれた。
そういう気遣いもしてくれるのだ。
じんわり胸が熱くなった。
そして、無事に登録も済んで、購入ができる状態になった。これであの絵の具が安く買える。それに、ほかにも絵の具や用具もたくさんあった。ゆっくり見てみたい。それで、ほかにいいものがあったら一緒に……。
浅葱がそう思ったのはわかっている、とばかりに蘇芳先輩は、また微笑んだ。
「予算の都合や欲しいものもあるだろうし。家に帰ってゆっくり見て、決めるといいよ」
また気を回してもらってしまった。胸は熱くなるばかりだった。
「はい! ありがとうございます!」
「いいや。お役に立てたなら良かった」
スマホでサイトを見ているうちに、フラペチーノはほとんどなくなっていた。
溶けてしまうのだから早めに飲まなくてはいけないものだとはいえ、なくなりそうになっているのはちょっと寂しい。
それに、フラペチーノがなくなったということは、そろそろ帰らなければだろう。
外もほんのり陽が暮れてきている。
まだ暗いとまではいかないけれど、外はオレンジ色の気配になっていた。
「いつのまにか秋になってたんだなぁ」
ずず、と、残り少ないフラペチーノを飲みながら、蘇芳先輩が言った。
「ほんとですね。ついこのあいだ、夏休みだった気がするのに」
窓の外では多くのひとが行き交っていた。繫華街のはずれなのだ。それなりにひとも多い。
今日は平日だからまだ少ないほうだろうけど、夕方なので、これから帰宅するとか、もしくは仕事や学校が終わったから、遊んだり買い物をして帰ろう、とか。そういうひとたちだろう。
もしくは自分たちのように、放課後に遊びに来ている学生、とか。
思ってしまって、またこの状況を噛みしめてしまった。
今日は素敵な日だった、と思う。
まるでデートの体験。
恋人同士なんかじゃない。
けれど、後輩としてだって自分のことを少しでも良く思ってくれているから、今日のすべてのことをしてくれたのだろうし、それだけでもとても嬉しい。
「そろそろ帰るか。遅くなりそうだな。こんな時間まで付き合わせて悪かったな」
蘇芳先輩も窓の外を眺めていたけれど、ふと、こちらを見て、言った。
その言葉はどこまでも優しくて。
浅葱は、ふるっと首を振っていた。
「いいえ。付き合っていただいたのは、私です。たくさんお世話になってしまって……」
その返事には、また、にこっと笑われた。
「六谷は律儀だなぁ。真面目だし……あ、でも俺の話、つまらなくなかったか? 部活じゃないのに、あれこれ……」
ちょっと表情が変わって、蘇芳先輩は、先程の話について心配になった、という口調になる。
そんなこと、とんでもない。浅葱はもう一度、首を振ることになる。
律儀で真面目なのは、蘇芳先輩のほうだろう。
絵に対する気持ちもそうだし、後輩を大事にしてくれるのもそうだし。
憧れの先輩だ。
片想いをしている意味以外でも、尊敬している。
「そんなことありません! 先輩の話を聞いているの、とても楽しいんです。新しいことをどんどん知っていけて……」
感じた気持ちは、ぽろっと出てきていた。素直に、口からこぼれたのだ。
「私も先輩みたいになりたいです」
浅葱の心からの言葉。先輩は、ちょっと目を丸くした。そんなことを言われるとは思わなかった、という顔になる。
けれどすぐにその顔は崩れた。ほろっと、優し気な顔になる。目元がゆるんだ。
「そうか。そりゃ光栄だ」
あたたかな空気が流れていた。まだ秋のはじめ、店内に暖房などは入っていないのに、ぽかぽかとするようだ。
こんなあたたかい気持ちだから、素直に言えたのかもしれない。浅葱は思った。
「じゃ、帰ろう」
がた、と椅子を鳴らして蘇芳先輩は立ち上がった。浅葱も「そうですね」と同じように立ち上がる。
空になったフラペチーノのカップを持った。手を伸ばして、先輩のカップも手に取る。蘇芳先輩がちょっと驚いたような顔をした。
「ああ、いいよ、自分で……」
「いえ、ごちそうしてもらっちゃいましたし……このくらいさせてください」
にこっと笑って、回収してしまう。ふたつのカップを持って、トレイや食器を下げる場所へ向かった。
先輩が「悪いな。ありがと」と言ってくれるのが聞こえる。
緊張はすっかり……ではないけれど、かなりほどけてきていた。
こういう気持ちで一緒に過ごせてよかった、と思う。
どきどきする気持ちだって嫌なものではないけれど、こういう気持ちになれればもっと嬉しい。
「今日はありがとうございました」
解散は駅だった。先輩は逆方向の電車なのだ。ここからふたつほど先の駅からいつも登校していることを知っていた。
住んでいる場所がちょっと離れているので、高校で初めて同じ学校になったのだ。だからそれが初めての出会い。
……ということは、実はないのだけど。
いや、出会ったのはこの重色高校で間違いない。けれどそれより以前に、浅葱は先輩に『出会って』いたといえる。
それはともかく、浅葱は駅の改札を通って、ホームへ向かう構内で先輩におじぎをした。
たくさんお世話になってしまった。絵の具のこともそうだし、飲み物をごちそうになってしまったこともそうだし、ほかにもたくさんのことを教えてもらって……。
先輩から今日もらったものは多すぎた。
でも蘇芳先輩は、なにも気にしていない、という様子で、やはり優しい笑みで、にこっと笑った。
「いいや。こちらこそ」
微笑んでもらって、浅葱もつられるように微笑んでいた。
今日はとてもいい一日だった。
素敵な一日だった、と思う。
デートのようなことができただけではない。教わることも多くて、実になることも多かったと言える。自分の中で新しい引き出しが増えたようだ、と浅葱は思った。
「それに六谷と一緒に過ごせてよかったよ」
蘇芳先輩が言ったこと。それに浅葱は、きょとんとした。
それは、純粋に『自分といられて楽しかった』と思ってくれている、ということだろうか。
しかし、そういう意味しかなかった。その言葉でならそう取って当たり前だろう。
「学校や部活ではできないことがたくさんできて。六谷の知らなかった面も見られて。とても嬉しかった」
続けて言われた言葉はもっと嬉しかった。かぁっと胸の中が熱くなる。まるで火が付いたようだった。顔にまで熱がのぼってきそうだ。
「良かったら、また画材とか見に行かないか」
おまけにそんなことまで言ってもらって。答えなんてひとつしかない。
浅葱は、こくこくと即座にうなずいていた。
「は、はい! 私で良かったら、ぜひご一緒したいです」
浅葱のその反応に、安心したように。蘇芳先輩は、にこっと笑ってくれた。
「ああ。また機会があったら誘わせてもらうよ。じゃあ、な。気を付けて帰るんだぞ」
それで本当に解散になった。ひらひらと手を振ってくれる先輩は、浅葱が帰りのホームへエスカレーターであがるのを見送ってくれたのだった。
エスカレーターで上へ運ばれながら、浅葱は下のほうを見て、見守ってくれる蘇芳先輩を見た。目が合って、ちょっと恥ずかしくなったけれど、ぺこりとおじぎをしておく。
蘇芳先輩はやがて見えなくなって、ホームへついた。
電光掲示板を見ると、電車が来るまでにはあと三分くらいあった。ちょうどいい。
待つ、というほどではなく、降りるのにちょうどいいあたりへ歩いていれば、すぐに来るだろう。
いつも乗る場所、最寄り駅に着いたらエスカレーターに近いところで降りられるところだが。そこへ向かいながら、まるで夢を見ていたのではないか、と噛みしめた。
放課後、地球堂へ行って一人で画材を見ていたときまでは、ただの日常だったのに、そこで蘇芳先輩と偶然会ってからは、まるで日常などではなかった。スペシャルな時間になってしまったのだ。
でも夢などではない。口の中にはさっきの甘くておいしかったさつまいもの味が残っているし、なにより、ほんわりあたたかくなった胸が、はっきりとさっきのできごとの素晴らしさを示していた。
おまけに、またこういうふうに出掛けたい、なんて誘ってもらえて。
偶然だったのかもしれないけれど、きっと偶然は現実へといつのまにか姿を変えていたのだ。
誘ってもらったし。
勇気を出して、お誘いしてみても、いいのかなぁ。
思ってみて恥ずかしくなったけれど、先輩に言ってもらったのだ。一緒にいるのが楽しかった、と。
だから、きっと、迷惑ということはないのだろう。それなら少しの勇気を出して、また素敵な時間を過ごせるように、動いてみてもいいのだろう。
そこへアナウンスが入った。間もなく電車が到着します、という。機械的な声。
すぐにその通り、電車がきた。それに乗りこめば、浅葱を家のある駅まで運んでいってくれる。そう遠いわけではないから、ドアの前に立って、外を眺めた。
外はすっかり暗くなっている。街の明かりが綺麗に見えた。
これから寒くなっていくのだ。街の明かりはなんだか、秋冬のほうが魅力的に見える、と浅葱は思う。
ああいうものを、蘇芳先輩と見られたら。ふと思ってしまって、またちょっと顔が熱くなった。
けれど、こういう気持ちになれることはとても幸せなこと。
明るくて、きらきらしていて、胸をあったかくしてくれるような、明かりの黄色やオレンジ色は、ゆっくりと窓の外を流れていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます