放課後デート?

「あの絵に使う画材を見に来たのか?」

 蘇芳先輩はどう思ったのか。わからないけれど、つかつかと歩いてきて浅葱の隣に立ってしまった。

 ばくばくと心臓が速くなる。とても特別な気持ちになってしまった。

「は、はい。青い絵の具をたくさん使うと思って……」

 なんとか言った。

「そうだよな。キャンバスも結構でかいから、いっぱいいるだろうし……」

 そんな、部活のことなんていう、何気ない会話がはじまった。

 けれどそれはなにも、『何気なく』などなかった。

 だって、今は街中の画材屋さんなんて場所なのだ。スペシャルな機会とシチュエーションと会話だ。

 今日、見に来ていて良かった。そう噛みしめてしまう。

 きっと先輩も部活休みの日だから画材を見に来たのだろう。

 それならめちゃくちゃ偶然というわけではないけれど、それだって。

「先輩も、秋季賞に使う画材を探しに……?」

 それでもいくつかやりとりをするうちに、普通に話せるようになっていた。どきどきとしてしまうのは、いつも多少はあるのだし。

「ああ。それもあるけど、部活の備品の下見もしたいと思って」

 なるほど。

 浅葱は感じ入ってしまった。

 そんな、部長みずから見に来なくてもいいことかもしれないのに。

 備品の管理はそれ専門の役職の先輩がいる。そのひとに任せたっていいのだ。

 なのに、先輩みずからこうしてチェックしになんてきている。

 それは当たり前のように、部員のことを考えて、だろう。

 とても優しいひと。ひとを気づかってくれているひと。

 こういうひとだから、部活の部員だけではなく学校のみんなに好かれるし、人気があるのだ。

「そろそろ用紙が切れそうだからそれと、あとは共用の筆とかを……。それの目星がついたから、自分で使う絵の具を見に来たんだ」

「そうだったんですね」

 絵の具を見ながらになるけれど、そんな話がはじまった。

「秋季賞は油絵だから、それと……あとはほかのに使うアクリルも見たいなと。なにしろすぐに使いきっちまうからなぁ」

「先輩は描くのが早いですもんね」

「そうかな。ありがとう」

 蘇芳先輩は、にこっと笑った。爽やかなだけでなく、優し気なその笑みにまたどきどきとしてしまう。

 今はこの笑顔は自分だけのものなのだ。そう噛みしめてしまうととても嬉しくてくすぐったくて、浅葱ははにかんだように笑ってしまった。

「……あれ」

 その笑顔を見てくれたであろう蘇芳先輩が、ふと、なにかに気付いたような声を出した。

 なんだろう。

 一瞬疑問に思ったけれど、どきんと心臓が高鳴った。

 そっと。

 蘇芳先輩の手が、絵の具をちょうど手にして持ち上げていた、浅葱の手に触れたのだから。

 ほんのりあたたかい、肌の感触。それが、自分に。

 どうして。

 まさか、手を握られるとか。

 頭に浮かんでしまったけれど、それは違った。

 蘇芳先輩の手は、手を包むのではなく、浅葱の手のサイドの部分……右手の、小指の付け根から手首にかけてのラインに触れたのだ。

「ここ。なにかついてるぞ」

「え!?」

 それは単に、『ついてる』と示して教えてくれただけのものだったのだ。

 かっと頭の中が熱くなる。

 たったそれだけのことに、手を握られるのかなんて思ってしまった自分が恥ずかしい。

 けれど、触れてくれたのは事実。

 だから、そう、思ってしまっても、ヘンでは。

 頭の中にぐるぐると、思考が回った。

 その中でやっと、蘇芳先輩が触れて示してくれたところを見ると、そこにはなにか……ピンク色のものがくっついていた。

 なにこれ。今日は絵なんて描いてないのに。

「チョークかな。ざらざらしてたから」

 蘇芳先輩は流石だ。見て、一瞬触れただけで、それがなんであるかわかったらしい。

 そしてそう言われれば、浅葱もすぐに思い至った。

 そのとおり、チョークだ。

「あ……。帰る前に、黒板が消してなかったですから、消して……多分、そのときに……」

 日直が忘れたのか、サボったのか。午後の授業で先生がいろいろと書いた黒板が、そのままになっていた。

 もう、仕方ないなぁ。消しとかないと、明日困るのに。

 思った浅葱は、ちょっとの手間はかかるけれど、こんなのすぐ終わる、と、サッと消してから教室を出たのだった。

 そのあと、特にトイレなどには行かなかったから、つまり手を洗う機会もなかったから、くっついたままだったのだろう。

「そうなのか。消し忘れられてたのかな」

「そうなんです。日直の子、忘れちゃったのかな……」

 そう言ったところで、蘇芳先輩はまた微笑んだ。今度は目を細めるような笑顔だった。

「それでわざわざ消してきたのか? 当番でもないのに?」

「え、……はい。明日、困ると思って……」

 何気なく言ったのに。

「六谷は優しいんだな。放って帰ることもできただろうに」

 先輩の声は優しかった。

 褒められた……?

 じわじわと胸に染み入ってきて、今度は違う意味で熱くなる。

 嬉しかった。

 自分のそんな、何気ない行動を。

「あ、……ありがとう……ございます」

 くすぐったかったけれど、嬉しくて。

 浅葱のお礼を言う言葉も明るくなった。

 今日はなんていい日だろう。

 こんな、街中なんて場所で偶然出会っただけではない。自分の何気ないことを褒めてくれた。認めてくれた。

 今日は幸せな気持ちで眠れそう。

 思った浅葱だったけれど、今日はそれ以上のラッキーが降ってきたのである。

「それ、悩んでるのか?」

 話が絵の具に戻ってきて、いくつか手に取って話したあとに、蘇芳先輩が言った。

 浅葱が手に取っていた絵の具は五本。でも絵の具は一本五百円くらいはする。色によってはもっと高いものもある。

 これを全部買ってしまったら、三千円は越してしまうだろう。

 全部は買えない、お小遣いを使いこんでしまうことになるのだから。

 よって、どれかに厳選して、どうしても欲しいものがあったら、家で「部活で使うから」と相談してみようと思っていたのだ。

「はい、ちょっと……予算が」

「絵の具は安くないもんな」

 お金の問題で買えないのはちょっと恥ずかしいけれど、高校生の身としてはおかしなことでもなんでもない。

 蘇芳先輩もバイトなどはしていないから、それほど事情は変わらないだろう。

 私立の進学校で、部活もしていて、しかも部長で。バイトなんてしている余裕があるものか。

「あ、……そうだ」

 そのとき蘇芳先輩が、なにかに思い至った、という顔をした。なんだろう、と思ったとき、蘇芳先輩は、手にしていた絵の具を棚に戻して、ポケットに手を入れた。そこから出てきたのはスマホだ。

「その、千円くらいするやつだけど」

 トットッといくつかタップして、なにか調べているような様子を見せる。浅葱は、絵の具を手にしたまま、疑問に思いつつ、待った。

 確かに今、手に取っていたものは一番値段が高い。だけどサンプルの色がとても美しくて、ちょっと高いけどほしいなぁ、と手に取っていたのだ。

「あ、あった」

 蘇芳先輩は、目的のページを見つけたらしい。それを画面に表示させて見せてくれる。

「……え、これ、このお値段で……?」

 そのサイトは、アウトレットの店かなにかなのだろうか。八百円とちょっとと表示されていた。ずいぶん安い。

「このサイト。ちょっと高めの画材のアウトレットがあるんだ。地球堂は安いから、基本的な色とかなら、この店のほうが安いと思う。でも、これなかなか出回ってない色だから……。基本的な色は地球堂で揃えて、これはこのサイトで買ったら、ちょっと金額が抑えられるんじゃないか?」

 浅葱はぱちぱちとまたたきしてしまった。

 確かに。八百円なら出せる。ほかの色と合わせても、予算内で買えるだろう。

「そうですね! それ、良さそうです」

 すぐに胸の中が明るくなった。欲しいものが手に入りそうなのだ。嬉しくて当たり前。

 そしてそれだけでなく、蘇芳先輩が教えてくれたこと。自分のことを気にしてくれて、協力してくれたこと。

 それが嬉しくてたまらない。

「ああ。……そうだ、ここ、ほかの珍しい色も扱ってるんだよ。良かったらゆっくり探さないか?」

「はい! 楽しそうで、……えっ?」

 目を輝かせて言ってしまったけれど、直後、きょとんとしてしまった。だって、蘇芳先輩の言い方によると。

 え、え、まさか。

 期待が溢れてしまった。そして、なんとそれは間違っていなかったのである。

 蘇芳先輩は、にこっと笑って、スマホをちょっと振った。うながすようだった。

「店の中で長々スマホ見てたら迷惑だろ。だから、良かったら、ちょっと外とかで」

 えええ……!?

 浅葱は胸の中で絶叫していた。一機に胸が熱くなる。今度は嬉しさだけではない。驚きと嬉しさと、ちょっとの照れにだ。

 外で?

 二人で?

 公園とか……もしくは、お店、とか、で?

 ばくばくと速い鼓動を刻みはじめた心臓。

 でも、断るはずなんてない。こんな大ラッキー。

 ごくっと唾を飲んだ。顔が赤くなっていないことを祈るばかりだ。

「せ、先輩が、良かったら……ぜひ」

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