5-6 奈津田志紋という人
私が貸した、中高生に人気なブランドのTシャツを着た花林糖さんは、いつもよりも雰囲気が幼く見えた。
服装のせいもあるだろうけど、しょんぼりと背中を丸めて奈津田家のリビングのソファに座っているのもあると思う。
「……かけられたの、水だけですか?」
隣にそっと腰掛けると、彼女は私をちらりと見て力なく首を横に振った。
「水と……あと、ジュースとか。だからべたべたしちゃって。シャワー借りられて良かった」
「そうですか……。大変でしたね」
二人だけだった部屋に、遠慮がちにヒロが入ってきた。
「兄貴、イベントの事後処理しに行くから戻ってくるまで休んでてって。あと、お茶どうぞ」
「わかった。ありがと、志大くん」
花林糖さんがちょっとだけ微笑んでヒロから麦茶の入ったコップを受け取った。
「私もお茶もらっていい? びっくりして喉渇いた」
「いいけど。亜紀羅は客じゃねえから、勝手に冷蔵庫開けて飲めば?」
「いや、花林糖さんに比べて扱いひどくない?」
むっとして思わずいつもの調子で言い返すと、花林糖さんがクスリと笑う気配がした。
緊張した空気が少し緩んだことにほっとして、私とヒロは顔を見合わせて肩の力を抜いた。
志紋くんは今日、地元の小さなイベント会場を借りてオフ会イベントを開いていた。もうすぐ誕生日だから、少し早めのバースデーイベントというつもりで。
イベントには彼とよく一緒にコラボしている踊り手もゲストとして出演予定で、花林糖さんもその一人だった。確か圭くんも呼ばれていたと思う。
私は……一応声は掛けられたけど断った。断ったことで今頃「シモンの腰巾着は相変わらず顔も出さないファンサしない調子乗ってる」とか好き勝手シモンのファンたちに思われているだろうなと思っていた。私がいたらいたで、「いつもシモンの周りをうろちょろしやがって、邪魔だ」になるだろうし、どっちがマシとも言えない。
そして今日、花林糖さんはまさに後者のタイプのファンに攻撃を受けた。
シモンの近くにいるのが邪魔。彼と付き合ってるなんて許せない、と。
「最近、死ねとか脅迫まがいのメッセージもSNSで送られてきてたからリアルイベントのときは十分注意してたつもりだったんだけどなあ。警戒が甘かったよ」
花林糖さんはアハハと笑ってそう言ったけれど、私は笑えなかった。
死ね。そんな強すぎる言葉はまだ私は受け取ったことがないけれど。
消えてくれ。また思い出す。もし本当に直接、私を消そうとする人がいたら。顔がこわばる。
花林糖さんは今日、お客さんの数人から水とか飲み物を投げられたりぶっかけられたらしい。
私だって彼女ではないとはいえ、同じくらい嫌われているだろうから、今日ゲストとして出演していれば同じ目に遭っていたかもしれないと思うとぞっとする。
「兄貴のファンって、そーゆーとこダメだよなー」
ヒロの軽い口調がありがたい。
私も花林糖さんも、志紋くんのファンや取り巻きの女の人たちのマナーがあまり良くないことや、きつい性格の人が多いことも、うっすらとわかっている。正直、私は花林糖さんもその一人だと最近まで思っていた。
だけどそんなこと、口に出しづらい。
人見知りな踊り手アッキの面倒を見てくれる志紋くん。花林糖さんの彼氏の志紋くん。
そんな彼のファンを悪く言うことは、私や花林糖さんにはできないから。
彼の弟だけど踊り手じゃないヒロが私たちの代わりにそう言ってくれると気が楽になる。
「アッキちゃん、ごめんね」
花林糖さんが手に持ったコップを見つめながら、ぼそりと言った。
「何が……ですか?」
「このあいだ、ひどいこと言ったでしょ」
「あ、いえ……気にしないでください。大丈夫なので」
言われたときは嫌な気分になったけれど、その通りだと思ったから。逆にはっきりと言ってくれて、私の中では彼女への苦手意識は薄れていた。志紋くんの周囲にいる人のなかでは珍しい、私のこともちゃんと見てくれる女の人だったと、思う。
けれど、今ここで力なく座っている彼女は、ゆるゆると首を横に振る。
「きっと、動画が叩かれちゃうのはアッキちゃんだけが悪いんじゃないよ。大変なんだね……ずっと、志紋と一緒にいるのは」
「え……?」
「志紋と付き合ってみてアッキちゃんのこと、ちょっとだけわかった気がする。志紋のそばにずっといるのは、上手く言えないけど、しんどい」
花林糖さんの目は今にも泣きそうに潤んでいた。
*
志紋くんが戻ってきて花林糖さんを送りにまた家を出ていってから、私とヒロは玄関で二人して、ほう……と息をついた。お互いに少しの間黙り込み、無言の時間が続く。かといって部屋に戻って勉強する気分でもなかった。
先に動いたのはヒロ。眠そうにあくびをしながらくるりと玄関のドアに背を向けてリビングに入っていく。
自分家に帰ろうかと迷っていると、彼はこちらを振り返って「リビング行こう、クーラー効いてるし」と言った。
まだいてもいいということみたいだ。ついていくと、確かに広いリビングは涼しかった。
どかっとだらしなくソファに沈み込むヒロの向かいに私も座る。
ヒロは疲れたように私を見た。
「たぶん兄貴たち、別れるよ」
「え」
「あんなことがあったからっていうのもあるけど、兄貴が好きになった人は大抵ああなる」
意味がわからなくてヒロをまじまじと見る。今まで、志紋くんに彼女がいた時期があるのはなんとなく知っているけれど、どんな付き合いをしていたとかどんな別れ方をしたとかは、私は何も知らない。
今回の花林糖さんが、初めて私が会った志紋くんの彼女だ。
大抵、ということは前にも何かあったのか。ああなるってなんのことなのか。
目に疑問の色が浮かんでいたのか、ヒロが口を開いた。
「兄貴、中学生のときから何人か彼女いたけどいつもすぐに別れてる。さっきのおねーさんが言ったみたいにたぶん、しんどいんだよね、あの人の彼女でいるのって」
「それを言ってるヒロがしんどそうだけど。彼女じゃないのに」
「亜紀羅もだろ。奈津田志紋のそばにいる人は疲れるんだよ。兄貴は人に好かれすぎる」
吐き捨てるようにそう言うヒロ。なんか、わかる。
かっこよくて、勉強も運動もできて、優しくて。沢山の人が彼に惹かれる。
だけど彼に近づけば近づくほど、なぜか心が辛くなる。ついていけなくなる。何の曇りもない彼自身にも、明るい方向しか見ていない彼の気持ちにも。
そして、彼から特別扱いされた人は、しんどくなる。明るい彼を好いている多くの人たちからの嫉妬。それらの感情を浴びせられるしんどさに、手を差しのべてくれない彼。
よくわからない人だ。志紋くんって一体、何なんだろう。
「なんであんなヤツの弟なんだろ……」
そうつぶやくヒロの顔は歪んでいて、けれど声には何か羨ましいような悲しいようなものが混じっているような気がした。
私だって志紋くんの妹のようなものではあるけれど、志紋くんの実の弟でいるのはどんな気分なのか。
想像しかできないけれど、彼がダンスに興味を示さないことも、真面目で人望ある優等生だった兄とは正反対の中学生になったことも、単なる性格の違いだけではないような気がした。
*
九月になり新学期が始まった。
受験本番も少しずつ近づいてはいるけれど、それは卒業も近づいているということ。
今日は卒業アルバム用の個人写真の撮影日だ。
クラスでの集合写真は四月に撮影したから、もう一度改めて撮ることはないらしい。
写真屋さんが来てくれた多目的室で順番に一人ずつ並びながら、みんな髪や制服をしきりにいじっている。
私も例にもれず前髪を整えていると、部屋の隅に茶髪や金髪の同級生たちが集められているのが目に入った。
「髪染めてるから校則違反で写真撮るのアウトなんだって。応急処置で、スプレーで上から黒に直すらしいよ」
私の視線に気づいて、後ろに並んでいた友だちが教えてくれる。
普段ヒロと一緒にいる顔ぶれが数人、そのスプレーの列に並ばされていたけれど、ヒロの姿はなかった。彼はピアスはしていて先生に校則違反だとよく注意されているものの、髪は染めていない。たぶん私たちのように普通に写真撮影の列に並んでいるのだろう。
そのまま後ろの友だちと話しているうちに自分の順番が回ってきた。
「よろしくお願いします」
「はーい。よろしく。じゃあそこ座ってね。姿勢良くねー」
優しそうな雰囲気をしたカメラマンのおじさんに言われた通り、カメラの前の椅子に座った。
「もう少し顎引いてくれるかな」
「はい」
カメラのレンズを見る。
位置調整をしていたカメラマンさんが「オッケー」と手を挙げた。
「じゃあ、撮りまーす。笑顔で、笑ってー」
私は通りに口角を上げて目を見開いた。
パシャパシャと素早くシャッターが切られる中、表情を動かさないように固まっていると、急に嫌な汗が流れる感じがした。
ブス。下手くそ。消えてくれ。
「はい。終わりです。お疲れさま……どうしたの?」
「あ、えっと……大丈夫です。ありがとうございました」
逃げるようにしてその場を離れると、近くにいた担任の先生と目が合った。私を見て心配そうな表情に変わる。
「澤さん? 何かあった?」
「あ、あの……ちょっと気分悪くなっちゃって……」
「あらら、このあと教室に戻れそう? 保健室に行く?」
「……保健室行きます」
「わかった。行ってらっしゃい」
先生に頷いて私は多目的室を出た。保健室に行く余裕なんかなかった。廊下を小走りで走り、トイレに駆け込む。
個室に入った途端、洋式便器に覆い被さって胃の辺りから逆流してきたものを吐き出した。
すべて出してしまってから、ふうっと息をつく。まだ胸や喉がムカムカしている気がする。
気持ち悪い。頭痛も少しする。
「……亜紀羅?」
「あ……」
女子トイレを出ると、なぜかヒロが一人でそこにいた。
「なん、で」
「なんか、様子おかしかったから、心配で。しんどいのか?」
私は返事をしようとしたけれど、できなかった。先に、両目から勢いよく涙があふれてきたから。
なんなの、これ。わけわかんない。
カメラを見た途端、私の中で何かがおかしくなった。
聞こえるはずのないものが聞こえた気がした。消えてくれ、と。
レンズを、怖いと感じた。私を撮らないでほしい、私にカメラを向けないでほしい。
カメラの前にいるのが、とてつもなく怖かった。
今の状況をろくに説明できないまま、泣きながらふらふらと保健室へ向かう。ヒロは何も言わないでいてくれた。ただ、彼は保健室に行きつくまで、少しでも倒れたら手を差し伸べてくれそうな距離感で、後ろから見守りながら付き添ってくれた。
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