第五章 2


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「なんか、見ているだけで凍えてきそう…」


 ヌーナ大陸の最北端に鎮座する霊峰タカチホ、大陸屈指の高所ゆえの厳しい気候に支配され、まるで一切の生命の存在を許さぬかのように静寂に包まれた中腹で、しかし抗いを続ける二つの輝点きてんがあった。


 一方は地表を白銀に染める積雪に溶け込んだ純白の少女、他方は何処いずこにあってもその存在を顕示し続ける漆黒の少女である。


 バラトリプル教国の教都クシナガラに滞在していたレイネリアとミストリアは、正式に婚姻を交わしたラーマとシータに見送られ、御幸ごこうの最終地点、霊峰タカチホへの入山を果たしていた。始めは剥き出しの大地が延々と続いた山肌も、標高が増すに連れて徐々に雪の中へと隠れていき、ついにはその姿を完全に失ってしまう。


 教国が独立前の自治権を持つ宗教勢力であった時代から、巡礼のための霊峰の保全が責務であったのだが、それは精々が登山道の整備された辺りまでのことであり、既に禁足地を越えて久しかった。


 なお、タカチホは四大聖地よりも神聖な場所とされており、たとえ麓に近い場所であっても立ち入りには厳しい制約がある。毎年、一定数の限られた教徒のみが足を踏み入れることを許されていた。


 天候を選びながらの出立の甲斐もあり、天穹てんきゅうには燦然さんぜんと輝く恒星が雲のさえぎを排してその姿を観せている。もっとも、これ程の高所に至っては陽射しが意味を成さぬほどに寒気が覆い、希薄な空気の中では呼吸すらもままならない。また、足下に堆積する雪塊せっかいも歩行を困難なものへと変えていた。


 タカチホへの入山が原則禁止とされているのは、そこが聖地であるというだけでなく、この過酷な環境によるところも大きい。所詮は人の身では頂を目指すことなど不可能であり、いたずらに殉教者を増やさぬための措置でもあった。


 しかし、頂上を目指す二人の足取りはしっかりとしており、吐く息こそ雪結晶のように白色であるが、ローブを身に纏ったその姿はこの極寒の地においても、これまでの旅路と何ら変わらぬように思われた。


風花雪月エア・コンディション


 熱風が吹きすさぶシュンプ平野の徒行をも可能とした外気遮断の魔法は、氷雪に閉ざされた大地においても健在であった。特殊な空気層による熱交換機能は、周囲の光景に反して温暖な大気を二人へともたらしていた。


 そして、ここが不可侵の領域であることを象徴するかのように、何ものにも汚されぬ無垢性を保ち続けた白銀の地面は、二人の前方はおろか後方にもその痕跡を刻まずにいた。


古今独歩エア・ウォーク


 大地が物体を引き付ける力を中和し、同時に局所的な気流操作により対象を宙に浮かび上がらせる、風と土のマイナの複合高等魔法である。


 正確をせば、二人は歩いているのではない、空を飛んでいたのだ。あまり高度を上げ過ぎてしまうと、中空を流れる強風の影響を強く受けてしまうため、地表に沿って移動する必要があった。


 ミストリアの秘術と称するに相応しい超然とした魔法により、二人は常識を遥かに超える速度で山頂へと向かっていた。四方に広がる恐ろしくも美しい風景が、まるで二人を迎え入れるかのように流れ過ぎていく。


 彼女は今や遠くに霞んでしまった教都の街並みを眼下に望みながら、なぜ登山の装備や食糧の備蓄が不要であったのかを理解した。二人を心配したラーマ夫妻、そしてアナン老師たちからも盛んに寄進きしんの申し出があったが、ミストリアは頑なにそれを固辞したのだ。


 恐らくは、日が沈む前には山頂へと辿り着くことだろう。この旅ももうすぐ終わりを迎える。封禅の儀によってミストリアは天人てんじん御許みもとへとされ、そして彼女は独り故郷への帰途に就いていく。


 しかし、そのとき一抹の不安が彼女の頭をぎった。往きはこれで良いとして、果たして帰りはどうすれば良いのだろう。特にこの過酷な雪山では、装備も備蓄もない状態では下山など出来る訳がない。


 思わず憂虞ゆうぐを吐露した彼女に対し、ミストリアは仄かに笑みを浮かべながら、一言だけその心配は杞憂であると告げた。


 彼女はその言葉を信じた、いや信じるしかなかったのだが、も言われぬ不穏な何かが忍び寄ってくるようで、遮断された筈の冷気に思わず身震いをした。

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