第四章 4-2


 突如、茂みより放たれた攻性魔法に対し、レイネリアは素早く丸太兎ファッティラビットの影から立ち上がると、直接視認するよりも先に知覚の世界を展開した。


 向かって来ているのは、風のマイナを伝導体として細長く矢形に引き伸ばされた魔力…それも複数となれば、風属性の涼風一陣ウィンド・アローに相違ない。決して高度な魔法ではないが、戦闘時には相手の動きの牽制を目的として魔物を狩る場合にも重宝される。つまりは、狙いはこの毛塊けだまたちなのだろう。


 思考と並行させるように、矢群に向けて右手をかざす。そして、無意識下でマイナに宿る魔力を対消滅させると、露出した因子をも除去し、魔法を消去した。最初に修得したくう属性、一切皆空アッシュ・トゥ・アッシュは順調に機能しているようだ。


 しかし、これはあくまで初手、狩人たちの追撃が予想される。現状として死角に潜んだ相手への対抗手段はなく、また人同士で無用な争いを起こすつもりもなかった。


 彼女は射手に視えるように諸手もろてを挙げると、茂みの奥へ向けて戦意のないことを宣言した。構わず狙い撃ちにされる危険性があるため、決して攻性魔法に対する警戒は怠らない。


 もっとも、実体の矢に対しては打つ手が無いため、そのときは覚悟を決めねばならない。本当は毛塊たちの影に隠れ、防御陣地とした方が無難なのだが、当然にその考えは除外していた。


 茂みに向けた視線を逸らすことなく、事の行く末を固唾を呑んで見守る。もしも相手が無頼ぶらいであれば、これは完全な悪手だ。果たして、ミストリアが戻るまで持ち堪えることが出来るだろうか。


 しかして僅かな間が空いた後、再び葉のこすれる音を立てながら二つの人影が姿を見せた。それはまだどこか相貌そうぼうにあどけなさを残す、彼女よりも年若き二人の男女であった。


「わりぃッス、あれはあんたの獲物だったスか?」


 二人組の片割れ、鶏冠石けいかんせきの髪をした少年が片手を上げて近寄りながら、やや軽薄そうな口調で彼女に訊ねてきた。観たところ体格は中肉中背、胸には守備兵と同様の革鎧レザーアーマーを身に付けており、腰には短剣、背中には弓と矢筒を背負っている。顔や腕などの露出部は日に焼けて浅黒く、如何にも狩人という印象を受けた。


 一方、少年の背後に控える赤支子あかくちなしの髪の少女は、自分と似て旅装束の上から茶色のローブを羽織っていた。こちらは魔術師のようであり、先ほどの魔法も少女の手によるものだろう。


「なあ、片方譲っては貰えないッスかね。代わりと言っちゃなんだが、村まで運ぶのを手伝うッスよ」


 無言で相手を値踏みする彼女に対し、少年は意に介さずに話を進めていく。どうやら身ぐるみを剥ごうという訳ではなさそうだが、毛塊たちの分け前に預かろうという魂胆らしい。


 丸太兎は魔物の中でも、脅威というよりは狩猟の獲物、わば自然の恩恵に等しい存在だ。彼らがこの毛塊たちを狩って生計を立てることは、人の営みとして至極当然のことなのだろう。


 プラナの収奪の修練においても、既に毛塊たちを対象とする段階は終わっている。先ほど決心したとおり、このまま野に放しても問題はない。そして、その先で狩人の手に掛かり、その糧となることもまた仕方のないことなのだ。


「…お断りよ。この子たちに手出しはさせないわ」


 しかし、それは駄目だ。幾ら相手が魔物でも、恩を仇で返すような真似は出来ない。たとえ独善的と言われようとも、自分の目の前で狩ることだけは許さない。


 彼女は毅然とした態度で少年の申し出を拒絶した。元より運搬と引き換えに半分を要求するなど言語道断なのだが、少年との間にはにわかに険悪な空気が漂ってきた。


 一方、後方にいる少女は、睨み合う二人の様子を困惑した表情で見詰めていた。それでも止めようとはしないことから、少女もまた意図するところは同じなのだろう。


「あんた、ひょっとして魔物遣いなんスか?」


 しばしの沈黙の後、少年はいぶかしむ表情を浮かべながら呟いた。彼女の返答を咀嚼そしゃくし、それが単なる獲物の奪い合いではなく、魔物の助命を目的としたものであることに気が付いたのだろう。単純そうな見た目に反して、意外と機転が回るようである。


 彼女もまた思案した後、それに否定の意を示した。正体を偽ることでこの場を収められたかも知れないが、一方で魔物遣いを忌み嫌う人々も数多く、特に狩人にとっては水と油の存在であった。


「それなら尚のこと聞けないスね。そこに獲物がいる以上、狩りを邪魔されるいわれはねえッス」


 そう吐き捨てながら少年は腰の短剣に手を掛けると、威嚇するようにその剣先を向けてくる。途端にタルペイアとの出来事が脳裏に蘇り、彼女は自分の心が冷たく凍て付いていくのを感じていた。


「ちょっと、いくら何でもやり過ぎよ」


 流石さすがに野盗紛いの行為には抵抗があるのか、今度は少女が止めに入った。しかし、彼は聞く耳を持たず、逆に少女を焚き付けようとする。


「これもシータがヘマしたせいッスよ。いいから、今のうちに獲物を仕留めてしまうッス」


 シータと呼ばれた少女はまだ不満そうであったが、言われたとおりに魔法の詠唱を開始した。先ほどはまさか魔法が消去されたとは考えもしないだろうから、単なる失敗と見做みなされるのも無理はない。


「獲物を持って帰らないと村を追い出されるんス。頼むから妙な真似はしないでくれッスよ」


 少年は視線を彼女に戻すと、懇願するように片目をつむる。それでも短剣の切っ先に迷いはなく、彼女の動きを封じるつもりでいるようだ。


 そんな二人の動作と機微を彼女は自分でも驚くほど冷徹に捉えていた。少女の詠唱は長篇に及んでおり、今度は牽制目的の涼風一陣ウィンド・アローとは異なり、一撃必殺の魔法を放ってくることだろう。


 斯様かような魔法を扱える時点で、少女の魔術師としての力量は決して侮れないものだろう。しかし、今は魔法の巧拙、強弱にしたる意味はない。理論上、彼女にとって消せない魔法はないからだ。


 問題は短剣を突き付けている少年の方だ。本心では彼女に危害を加えるつもりはないようだが、どうやら食い詰めて切羽詰まっているらしく、いつ心変わりをするとも限らない。


 流石さすがに目の前で魔法を消去すれば、今度こそ何をしたのか勘付かれてしまうだろう。その次は直接的な手段に訴えてくるかも知れない。彼女の力は未だ実体を伴う攻撃とは相性が悪く、先手を打って無力化するしかすべはない。


 つまり、これは絶好の機会なのだ。今度の標的は魔物ではなく人、それも複数に対してマイナとプラナの同時並行処理ともなれば、そうそう巡り合える局面ではない。特に、何の躊躇ちゅうちょも要らないのは僥倖ぎょうこうだ。仮にも人に剣を向けたのであれば、それが何を意味するのか、分からないとは言わせない。


 例え自分にはその気が無くとも、恐怖に駆られた相手が抵抗して揉み合いとなり、弾みで刺してしまうこともあるだろう。そのような結果に対して、原因は相手が抵抗したからとでも言うつもりか。


 剣を抜くからには、それなりの覚悟を負わねばならない。もしも返り討ちにあったとしても自業自得なのだ。故に、これほどおあつらえ向きの相手もいなかった。


 心のどこかで、発想が粗野そやになることをいさめる自分がいた。こんなにも自分は血気盛んであっただろうか。もっと平和的な解決策を講じることが、ホーリーデイ家の矜持ではなかったのか。


 しかし、現実とは無情なものだ。今ここで求められているのは智よりも力…少なくとも、魔物を助けようなどという無理を通すのであれば、代わりに道理を引っ込ませるより他にない。


 やがて、少女の詠唱が終わりを迎えると空中に巨大な氷塊が顕現された。それは陽光を浴びて燦爛さんらんと輝き、見る者の心を奪うほどに美麗であったが、同時に戦鎚せんついのように鈍重で、長槍のように尖鋭であった。


氷姿雪魄パーマ・フロスト


 魔力によって空気中の水分を限界まで凍らせ、巨大な氷塊として叩き付ける水属性の上位攻性魔法である。また、衝突後は氷片が花弁はなびらのように乱れ舞い、対象を覆い尽くして氷漬けの彫刻へと変えてしまう。その二段構えの攻勢は通常の手段では防御も回避も不可能であり、対魔法の障壁を展開するか、他の攻性魔法で相殺するしかないと言われている。


 まさか彼女もここまでの魔法があらわれるとは想定外であった。これは同年代でも稀少、それこそ五大諸侯の子女にも匹敵するほどの力量の持ち主なのかも知れない。


 それにしても、たかだか丸太兎ファッティラビットを仕留めるのに随分と大仰おおぎょうではないだろうか。鮮度を保つための冷凍保存も兼ねているのかも知れないが、これでは彼女たちごと凍り付いてしまう。現に少年も驚愕の表情を浮かべており、少女に向けて何やら叫んでいるようだが、時既に遅く、氷塊は落下を始めていた。


 そして、それは彼女にとっての好機でもあった。瞬時に知覚の世界で氷塊を捕捉し、マイナに宿る魔力を対消滅させていく。このまま地面へと花開く前に、散らしてしまうことが出来るだろう。


 しかし、それだけではまだ足りない。彼女は強引に思考を分割し、並列処理の体勢に入る。少年は魔法に気を取られており、こちらの様子には全く気付いていない。今なら身体に触れることも容易いだろう。


 だが、敢えてそうはしない。少年には一切触れず、その周辺にあるマイナから魔力を奪う。やがて、枯渇して剥き出しになった因子が、まるで自己を防衛するかのように彼から生命力を奪い、魔力へと変換する。そして、また彼女がその魔力を奪い去る。それはあたかも時間が停止し、事象の地平線に切り取られてしまったかのように、永遠にも等しく繰り返された。


 いつしか空から氷塊は消えていた。ただ、野原を吹き抜ける好風こうふうに舞う粉雪だけが、かつてそこに魔法が存在していたことを偲ばせている。そして、立っていたのは一人の彼女、現代において唯一無二の空属性の御手みてであった。

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