第四章 2-2


「そろそろ、起きてくれないと脚が痛いのだけど…」


 ぼやけた視界と微睡む意識の中で、聞き慣れたその人の声が響く。ほのかに漂う甘露かんろの芳香が鼻孔をくすぐり、後頚部こうけいぶを弾力的な柔布やわぬのが優しく包み込む。まるで心がなぎのように鎮まり、いつまでもこのままでいたいと願ってやまない自分がいた。


 世界とは相対的、相補的、或いは相反的なものだ。世界から自己を定義するためには、自分以外の一人が要る。一人が2個で二人になるのではない。二人がいて初めて2個の一人となるのだ。


 では、逆説的に言えば、二人がいれば世界は定義されるのか。ならば、その一人だけで良い。ずっと自分を見てくれる、ずっと自分と居てくれる、ずっと自分を愛してくれる…それはどんなに幸せな世界なことだろう。


 しかし、それは時にとても簡単で、時に絶対に不可能なことだ。なぜならその一人もまた、自分と同じく世界を定義し得るもう一人を求めているのだから……。


 やがて視界がはっきりとした像を捉え、こちらを見詰めるミストリアの顔を映し出す。その頃にはもう、先ほどまでの思考はまるで風に吹かれたかのように霧散していた。


 ミストリアの向こうには、どこまでも続く青空が広がっていた。身体は依然として固い大地に繋ぎ止められているが、それでも首先から感じる心地好さが、まるで雲の上に浮かんでいるかのような錯覚を抱かせる。


 次第に覚醒する意識の中で、レイネリアは自身の置かれている状況を冷静に分析し、そして理解した。どうやらミストリアに膝枕をされているようであった。


「私、やられちゃったの…?」


 徐々に意識を失う直前の記憶が蘇ってくる。あのとき、彼女は突進してくる丸太兎ファッティラビットのプラナを奪おうとしたのだが、巨体の勢いを止めることが出来ず、後方に強く弾き飛ばされてしまったのであった。


 幸い、目立った外傷はないようで、ミストリアの回復魔法による効果か、身体は痛みを感じていない。しかし、彼女の二つの瞳からは止めどない涙が流れ落ちていた。


 それは悔しいという感情であった。タルペイアの自己犠牲の末、あれほどの辛苦を重ねて切り札として会得した筈の力が、一体の魔物相手に通用しなかったのである。


 しかも、これは今回に限った話ではない。もしも相手が武器を持った人物であったならば、今頃自分は生きてはいなかっただろう。この力はあくまで奇襲でしか通用しないのだ。相手と正面から打ち合ってしまえば、プラナを消滅させる前に致命傷を負ってしまう。


 どこまでいっても、自身の力の無さが恨めしかった。空属性の力を以ってしても、自分にはこの程度のことしか出来ないのか。


「もう、いつまでも泣き虫なんだから。あっちを見てご覧なさい」


 一人、悲嘆に暮れる彼女の頬をミストリアの手が左右から挟み込む。それはひんやりとして気持ち良く、そのまま首を横に傾けて地面の向こうを覗かされた。


 そこには、先ほどまで自分と対峙していた白茶の毛塊けだまがあった。細長い耳も赤い楕円形の瞳も体毛に埋もれているようで、ウサギというよりも本当にただの球体である。


 どうやら、初陣は相討ちだったらしい。ミストリアと対峙していた灰茶もその少し先でのびている。両方とも死んではいないようだが、しばらくは目を醒ますこともないだろう。


「良いわ、ここから先は私が教えてあげる。だからいつまでも泣かないの」


 再び、ミストリアは彼女の首を戻して自分の方へと向かせると、女神と称するに相応な慈愛に満ちた表情で微笑んだ。それはいつか感じた母性に溢れていたのだが、心の片隅からみ出る違和感に彼女自身は気付いてはいなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る