第四章 2-1


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「レイニー、一体はそっちに任せるわよ」


 幾つかの山を越えた尾根の途上で、レイネリアは前方にうずくまる白茶の毛塊けだまと対峙していた。それは子供の背丈ほどの高さがあり、小刻みに上下左右に振動しながら、ピンと立った細長い耳と赤い楕円形の瞳を覗かせている。


 丸太兎ファッティラビット、外見的な特徴は原生のウサギと近似しており、マイナの影響を受けて魔物に分化した種と考えられている。しかし、その巨躯は動物のそれの比ではなく、また前方に向けて見境なしに突進するという習性を持ち合わせていた。


 しばしば山間部での転落事故の要因ともなる魔物だが、近縁種の亀毛兎角ジャッカロープとは異なり無角であるため、一定以上の力量があれば単独での討伐が可能な上、前方以外へは注意が散漫であることから、十分な準備をした集団であれば対処は容易とされている。


 丸々と太った体型は歩留ぶどまり、つまりは可食部が豊富であり、野性味に溢れた肉質には愛好家も多く、日々市場では専門の仲買人により取引が行われていた。武力を生業にする者にとっては良い収入源となるため、山間部を拠点とする狩人、暇を持て余した兵士、はぐれ者の腕自慢などがその供給を担っている。


 彼女は再び、目の前に鎮座する巨大な毛塊けだまを凝視した。傍目には可愛らしく見えなくもないが、いつ豹変して飛び込んで来るか知れたものではない。それがただのウサギであれば微笑ましいが、この巨体をまともに受けたら坂道を転げ落ちる羽目になるだろう。


 前方に注意を払いながらも、僅かに視線を逸らしてミストリアを一瞥する。そちらも同様に毛塊が通せんぼしており、それは若干燻んだ灰茶に見えた。しかし、幾ら巨体であってもミストリアに掛かればただのウサギ同然だ。恒常的な障壁は突進による衝撃を軽々と跳ね返し、繰り出される魔法は耐性に乏しい肉体には致命傷となる。この程度の魔物が大挙として押し寄せたところで、所詮は路傍ろぼうの小石に過ぎないのだ。


 それでも、ミストリアは彼女に任せると言った。つまりは、一人でこの魔物と戦えということだ。それは今までであれば、天地がひっくり返っても考えられぬことであった。


 再会を果たしてからの道中、彼女はミストリアに自身が会得したくう属性について話していた。ミストリアはして驚いた素振りを見せておらず、やはり斯様かような事態となることは予見していたのだろう。


 彼女が行使できる力は二種類あった。一つは皇女の私邸で老魔術師を相手に鍛錬した、マイナの対消滅により他者の魔法を消去するものである。彼女はこれを一切皆空アッシュ・トゥ・アッシュと名付けていた。


 もっとも、最初は名称など付けるつもりはなかった。わざわざ口に出さずとも、条件を満たし、意思を込めれば力は発動するからである。しかし、そんな彼女の言い分に、ミストリアは心底呆れた様子で、まるで幼子を諭すかのように教示してくれた。


 いわく、名称の認識は魔法において基本中の基本であり、名は体を現すと言うように、個別の概念として確立することで心象がより明確となり、威力や効果の向上、安定性の寄与に繋がるのだという。


 本来、魔法とは長い歴史の中で洗練、淘汰されてきたものである。故に、自ずとその名称は広く知れ渡っており、行使にあたって意識しないこと自体が不可能であった。しかし、彼女自身には魔法の実体験がなかったため、そのような常識が失念されてしまっていたのである。


 とはいえ、発展途上の段階で中途半端に名称を付けてしまえば、それが概念として固定化されてしまう懸念もあった。老魔術師が敢えて彼女に名称を勧めなかったのは、それを見越してのことであったのだろう。


 なお、既存の魔法に改良を加えるだけであれば、して難しいことではない。最早この旅の生命線ともいえる四鏡水鏡ミラー・ロード清浄無垢バース・バイ・バスも、原型を留めないほどに効果が付与されてはいるが、元は熟練者であれば習得は容易な部類の魔法である。


 しかし、完全に一から魔法を生み出すとなると話は別である。まずは思考実験の段階において、膨大な質と量のマイナからなる複合構造体を考案する必要があり、安定した解の殆どは既知であると考えられていた。つまり、理論上この世界に存在し得る魔法の多くは判明済みであり、新たな魔法が発見、発明される余地は限りなく少ないということだ。


 一方で、ミストリアが王領の宿場町で披露した鄒衍降霜コール・オブ・マーンを始めとして、極めて高位かつ高難易度、そして危険性を伴うがために、一般には秘匿されている魔法も存在している。


 独自魔法の確立は魔術師にとって最大の誉れであるとされており、魔導の探求における最終到達点として研究に生涯を捧げる者は数多い。しかし、先のツキノア領における事件のように、目的のためには手段を選ばない、非人道的な行為も辞さない魔術師もおり、各国の諜報機関が秘密裏に監視、或いは支援しているとも囁かれていた。


 空属性は決して彼女の独自魔法ではないが、現在に至るまでその実在さえも疑われていた代物である。それは同義というべきものであり、名称を付ける資格は十分にあった。


 また、名称の副次的効果として、他者との連携が図りやすくなるという利点もある。特に今回はミストリアとの初の実戦的共闘となるため、魔法を打ち消してしまわないように注意せねばならない。二人が一定の距離を保っているのもそのためであった。


 しかし、一切皆空アッシュ・トゥ・アッシュはあくまで相手の魔法に対応するものである。丸太兎は魔物の中でも知能は低い部類であり、今までに魔法を行使したという報告はされていない。つまりは、一切皆空は何の役にも立たないということになる。


 そこでもう一方、タルペイアに巣食うゲッシュをプラナごと消去した、あの力の出番となる。そして、まるでその思考の到達を待っていたかのように、彼女の眼前には白茶の毛塊が迫っていた。

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