第四章 1-2

 

「ねえ、さっきのはどういうこと?」


 要塞と見紛みまごうばかりの関所を越えて、次第に拡がりを見せる街道で周囲に気を配りながら、レイネリアは隣を歩くミストリアに疑問をぶつけた。周辺では商人とおぼしき荷馬車が休んでおり、どうやら通行の順番を待っているようである。


 先ほどの兵士の話を鵜呑みにするならば、既に天人てんじん地姫ちぎはこの地を御幸ごこうし、もうすぐ封禅ほうぜんの儀へと臨もうとしているようである。しかし、当の本人は動揺した素振りをおくびにも見せず、久方ぶりに姿を現した恒星に目を細めていた。


 始めは本当にミストリアが教国を訪れ、儀式の準備を進めていたのではないかと考えた。再会を果たしたのは帝国領であったが、既に一度入国を果たし、また国境まで戻ってきたのではないのかと。


 しかし、すぐにそれはあり得ないことに気付く。皇女の密偵の監視を掻い潜り、出入国を繰り返していたのだとしても、御幸ともなれば隠し通すことは出来ない。


 また、帝国のように出迎えの使者を派遣していないことも妙である。教国の国是と教義を鑑みれば、天人地姫の来訪は是が非でも把握しておくべき重大事項であり、国を挙げて尊崇そんすうの念を示そうとするだろう。


 そうなると、教国内で何らかの異変が生じているのかも知れない。それが具体的にどのようなものなのかは不明だが、今時分に教国へ向かう巡礼者が少ないこととも無関係ではない筈だ。


たまにあることよ。ここで悩んでいても仕方がないわ」


 眉間に皺を寄せる彼女を一瞥しながらミストリアが呟く。どうやら目鼻が付いているらしく、どこか呆れ気味な表情でもあるのだが、その言葉は彼女の耳には届いてはいなかった。


 街道を歩く彼女は依然としてうわの空であった。一つの事柄に拘泥こうでいし、没入してしまう癖は、むしろ長所足り得るとミストリアは肯定していたのだが、今回ばかりは少し面白くなさそうに口先を尖らせている。


 しばらくの間、じっとその様子を眺めていたミストリアであったが、唐突に何やら怪しげな笑みを浮かべると、歩速を緩めて彼女の背後に回り込む。そして、脇の下に向けて手を伸ばし、ローブの上からくすぐるように手指を回転させた。


「きゃっ! んもぅっ…!!」


 突然の悪戯に彼女は嬌声きょうせいを発してしまう。しどろもどろになりながらも、必死になってその手を振りほどくと、今の反応が余程おかしかったのか、軽快な笑い声が聞こえてきた。


 彼女は赤面しながら抗議の声を上げた。ミストリアは尚も笑いが止まらないようであったが、目尻に涙を浮かべながら謝罪の言葉を口にした。その屈託のない笑顔に毒気を抜かれた彼女は、街道の真ん中で所在なさげにミストリアの様子を窺っていた。


 なんだか、昔に戻ったみたいだった。それもずっと昔のこと、まだ二人とも幼い子供であった頃だ。あの頃のミストリアは聡明ながらも、歳相応の子供らしい無邪気さを持ち合わせており、時折こうして無意味な悪戯をしたものであった。


 しばらく会っていなかったせいだろうか。少しだけミストリアとの距離に違和感を覚えた。しかし、それは空間的なものではない。現にこうして、ミストリアを間近に感じることが出来ている。


 きっと、これは時間的なものだ。共に過ごした日々は色褪せることなく、今もなお鮮明に心のうちに残っている。しかし、それはまるで現在との連続性を失い、そうであったという記憶だけが後付けされたような、断絶した過去として知覚してしまっているのだ。


……


 何を馬鹿なことを考えているのだろう。ほんの僅かの間、離れていただけで、もうミストリアを過去へと追いやってしまうのか。そんな器用な真似が出来るなら、始めから御幸に陪従ばいじゅうすることも、くう属性を身に付けることもしていない。


 自分は過去を現在に、そして未来へと繋げるために、どこまでも無数に散らばるが、それ故に糸を伝ってここまでやって来たのだ。それがもう途切れてしまっていたなんて、そんなことがある筈がない。


「きゃっ! んもぅっ……」


 思わず、ミストリアを抱き締めていた。この温もりが、この柔らかさが、この心地良さが、ミストリアなのだ。それは昔から何一つ変わっていない。いま此処には自分がいて…そして、いま其処にはミストリアがいる。


 腕の中からは少しだけつやのある声が漏れたが、特に抵抗されることもなく、その内に収まっていた。この抱擁は国境での再会を祝し、誓いを新たにしたものではない。してや、この身から隠し切れない、溢れんばかりの愛情を込めたものでもない。


 ただ、怖かったのだ。頭では分かっている筈なのに、逢えなかった時間が全てを過去へと塗り変えて、あの輝かしき日々を思い出の中へと封じ込めてしまうような、そんな得体の知れない恐怖に怯えていたのだ。


「まったく、いつまでも私に甘えてばかりでは駄目よ」


 そんな彼女の心の慟哭を察したのか、ミストリアも一度強く抱き締め返すと、肩に手を掛けて引き離し、いつもの微笑みで優しく語り掛けた。それはまるで、姉であり、母であり、そしてであるような、不思議な安堵を彼女に与えてくれた。


『あなたはこのことを忘れてしまうけど…もしも、思い出したときには、必ず私に会いに来てほしい』


 不意に、その言葉が脳裏をぎった。それは皇女に唇を奪われたとき、唐突に蘇った記憶であった。そして、自分がミストリアと口付けを交わしていたことを思い出したのだ。


 一瞬、それを伝えるべきなのかと迷った。気恥ずかしいと思うし、真意を知りたいという想いもある。しかし、一度口に出してしまったら、何かが決定的に壊れてしまうような気がして、彼女はすんでの所で踏み留まった。


 やがて、ミストリアは彼女に背を向けると、何事もなかったかのように街道を先へと歩いていく。彼女は迷いを振り切るようにかぶりを振ると、それを追って駆け出すのであった。

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