第四章 1-1


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「これって、馬車が来たらどうするんだろう」


 左右を直立する苔生こけむした岩肌を眺めて、少女は不安を紛らわせるように目に掛かった前髪に首を振る。


 僅かに開けた天上には恒星の姿は認められず、陽光を遮られた谷底はまだ夕暮れには程遠いというのに薄暗い。いつもならば、蒼みがかった銀色の輝きを放つ少女のそれも、今は心なしか黒ずんでいるようにも感じられた。


「少し、髪が伸びてきたわね」


 不意に隣を歩く人影に声を掛けられる。視線だけをそちらに向けると、漆黒のローブの首元からは金糸の髪が覗いており、それは夜空に映える月光のごとく、この地にあってもいささかの陰りも見せず、自身との違いを否が応にも想起させた。


 普段から男装の気があるのかと疑われるほど、少女の髪は短く切り結ばれており、前髪が目に掛かることはなかった。しかし、王都を旅立ってから早三月はやみつき、その間に一度も髪を整えることはなく、皮肉にも女人らしさが醸し出されていた。


 実に一月半ぶりの邂逅を終え、旅を再開した二人であったが、少しぎこちなさが見受けられるようである。それはもっぱら蒼みがかった銀髪の少女、レイネリアの側に顕著であり、仕切りにもう一方の金髪の少女、ミストリアの表情を眺めては、視線が交わる度に赤面して目を逸らしてしまう有り様であった。


 彼女にはミストリアに対して言いたいことが山ほどあった。それは結果的に置いて行かれたことへのなじりであり、別離の間に過ごした日々への探りであり、そして自身が身に付けたくう属性の存知への勘繰りでもあった。


 しかし、彼女は敢えてそれを口にはしなかった。今はただ、共に肩を並べて歩めることが嬉しかった。自分が真に望むべき場所への回帰、望外ぼうがいの歓びに心を震わせていたのである。


「変なレイニー、顔がニヤついているわよ」


 そんな彼女にミストリアが笑う。どうやら表情に出てしまっていたようだ。しかし、ミストリアもまた、きっと自分と同じように感じてくれているのだと、陽の差さぬ大地さえも輝かせる満面の笑みを横目にして確信した。


 ディアテスシャー帝国とバラトリプル教国にまたがるターパ山脈、その唯一の山間道であり、国境でもあるケンモン関の通路を二人は歩いていた。そこは左右にそびえ立つ大山、ダイケンとショウケンに挟まれた隘路であり、その道幅は馬車が一台通るのがやっとの様相であった。


 また、双大山の谷間ということもあり、道筋は必ずしも直線的ではなく、左右に蛇行しながら続いていた。必然的に大軍による行軍は難儀であり、先の大戦においても皇国軍の侵攻を防ぐ天然の要害としての役割を果たしていた。


 現在は帝国と教国の共同統治とされており、互いに出入口にあたる部分に関所を設けて国境防衛における要としている。特に軍事力に乏しい教国側にとっての重要性は高く、切り立った崖の一部を削り取り、堡塁ほるいや観測所、貯蔵施設などの陣地が構築されており、遠方からでもその厳戒さが肌へと伝わってくる。


 もっとも、大戦終結後は王国、帝国、教国からなる三国同盟に基づき、原則的に通行の自由が保証されており、彼女たちは特段妨げられることもなく、教国側に向けて歩みを進めていた。


 途中、前方からの旅人らしき一団の縦列に遭遇し、互いに道を譲り合って擦れ違う。どうやら馬車の往来は制限されているらしく、越境にあたっては乗り換えが必要なようだ。確かにこの道路事情ではそれもやむを得ないことであろう。


 しかし、通行人の多くは教国側からであり、後方を振り返っても二人に同道する人影は疎らである。王都で耳にした話では、封禅ほうぜんの儀に合わせて多数の信徒が聖地を巡礼するとのことであったが、もう既に入国を果たしているのだろうか。


 それは二人にとって、些か不都合な事態でもあった。天人てんじん地姫ちぎであるミストリアは、このヌーナ大陸における絶対的な調停者、まさしく神に等しき存在である。しかし、その捉え方には各国によって差があり、国家の守護者として英雄的に観られがちな王国、逆に覇道の障害として敵対的に見做みなされがちな帝国とは違い、教国からすればまさに生きた御神体として崇め奉るべきものであった。


 教国本来の信仰対象は天人であるのだが、開祖シャーキヤにより教義が創られた頃には、既に何処いずこへと御隠れになった後だとされている。一部では、天人は自然現象の象徴であるとして懐疑的に見る向きもあるが、聖職者や神学者の間では今なお実在するものと考えられていた。


 それ故に、天人地姫の来訪は教国にとって一大行事であり、その関心の多寡は帝国の比ではない。彼女が純白のローブからフードを外したのに対し、ミストリアが依然として素顔を隠しているのもそのためである。


 王国のときと同様に、原則として国境通過にあたっては身分を明らかにすべきとされている。それは必ずしも面通しを強制するものではなく、徽章きしょうや職業組合証の提示などにも代えられており、殆どは形式的なものであった。


 仮に教国側に正体が明るみになったとして、咎めを受けるどころか、その威光に平伏すことになるのだろうが、先の帝国での一件を顧みれば、無用な混乱は避けたいというのが本音であった。


 然様さような思惑もあり、巡礼者に紛れて入国することが理想的であったのだが、今更考えても詮無きことである。せめて、彼女が素顔を晒すことで衆目を集め、詰問の際には率先して応答するしかない。


 そして、二人はケンモン関の出口、教国側の門へとやって来た。胸壁きょうへきを見上げると帝国側にも増して厳重な狭間窓はざままど――もはや要塞の域にまで達していた――が構築されており、教国における最重要拠点であることを如実に物語っていた。


 それというのも、この地より先は教都クシナガラまで、要塞や陣地などの目立った防衛線はなく、ここを抜かれたら即座に国家存亡の危機に瀕してしまうからだ。


 教国はその成立過程からして、皇国から自治権を認められた宗教都市が母体であり、帝国はおろか王国と比較しても戦力に大きな隔たりがある。むしろ、いたずらに軍備を拡張しないことが三国同盟の堅持、覇者たる帝国に対する弐心なき証ともなっていた。


 その差は兵士の身なりにも顕れており、帝国側が辺境警備隊にも鎖帷子チェインメイルを配備しているのに対し、教国側は軽装の革鎧レザーアーマーが主体のようである。もっとも、建国以来、帝国と教国が交戦状態になったことはなく、また狭所における機動性を重視したとすれば、必ずしも劣っていると断じられるものでもないのだが。


 彼女は胸壁に向けていた視線を落とすと、関門の両脇に立つ守備兵に会釈した。心做こころなしか、兵士の顔付きも帝国のそれと比べて柔和なようにも感じられる。しかし、やはり女人と被覆ひふくの組み合わせはいささか不自然に映るらしく、門兵の表情が険しくなったようにも見受けられたが、過敏な反応はかえって疑念を招くと考え、気にしないていで通り過ぎようとした。


 背中に猜疑さいぎの視線を浴びるのを感じながら、襤褸ぼろを出さないように歩速を一定に保つ。別にやましいことは何もない筈だが、これも御幸ごこう陪従者ばいじゅうしゃとしての責務である。そして、何事もなく関門をくぐり終え、ほっと安堵の息を吐いた瞬間、不意に背後から声を掛けられた。


「其の方ら、天人地姫の御姿を拝しに参ったのであろう。既に御幸あそばされ、封禅の儀は間近である故、先を急がれよ」


 突然の言葉に転倒し掛ける彼女であったが、両足に力を込めて何とか踏み留まる。そして、いぶかしげな表情をミストリアに向けるのだが、当人からは涼しい顔で返されてしまう。


 兵士の言葉どおりに解すれば、ミストリアはもう入国していることになる。一方で、ここに居るのが本人だとは気付いてないようだ。実に不可解な話ではあるが、動揺した素振りを見せては要らぬ疑念を招いてしまう。


 彼女は平静を装って兵士に返礼すると、気を落ち着かせるように息を整え、御幸の最後の地、霊峰タカチホをいただく信仰の国へと足を踏み入れるのであった。

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