第三章 4-4


「もう、準備は済んだようじゃな」


 初めて邸宅にやって来たときと変わりなく、馬車が停められた正門に現れたレイネリアの姿を認めて、サナリエルは飄々ひょうひょうとした態度で声を掛ける。皇女から下賜かしされた品々は、路銀も含めて全て貴賓室の卓子たくしに置かれていた。


 それは、明確な意思表示であった。必要な施しは甘んじて受けるが、それ以上は決して求めないという、些か都合の良すぎる矜持きょうじではあったが、どうやら皇女には伝わったようである。


 当然のことながら、自分がプラナを消滅させる力を会得し、タルペイアのゲッシュが解かれたことも承知済みだろう。或いはゲッシュが消滅すると、主人に伝わるような仕組みがあるのかも知れない。


 タルペイアは修練所に寝かせてきた。プラナを失って衰弱しているが、先の事件の時よりかは幾分とましだろう。もはや少女を縛るものは、目前にしかないと確信している。


「心配せずとも約束は違えぬ。あやつの罪状の一切を抹消し、ここを出るときには相応の支援もしよう」


 皇女は心外とでも言うように、両手を広げて大袈裟におどけてみせた。その微笑は欠片も崩れることはなく、全てはその掌の上なのだと思い知らされる。一体どれだけの経験を積めば、このような深謀遠慮に至れるのだろう。一体どれほどの節義があれば、このように無慈悲な差配が出来るのだろう。


 しかし、不思議と憤りはなかった。未だたばかられているのではないかという畏れもなかった。代わりに抱いたのは…憐れみだった。それが表情に出てしまったのか、いつしか皇女の顔からは笑みが消えていた。


 そこには自分と皇女しかいなかった。御者ぎょしゃは車体の陰に隠れており、使用人や護衛の兵士は人払いがされている。一時の師傅しふであった老魔術師との別れも既に済ませており、もう教えることは無いとお墨付きまで頂いた。


 黙したまま皇女の瞳を見詰めた。そこには深淵なる闇が潜んでいる。その正体はまだ分からない。しかし、いつか必ず、雌雄を決する時が来ることを予感させた。


斯様かように情熱的な瞳を向けられては、この身も火照るというもの。遠慮は要らぬ、ニー様の言葉であればどんな罵詈雑言も謹んで受けるとしよう」


 再び皇女はあざけるように口角を上げた。残念ながら今回は完全に自分の負けだ。元凶が皇女であったとしても、実に一月以上も庇護を受け、してやこの後もミストリアの元まで世話になるのである。


 しかし、やられっ放しというのも癪である。せっかく遠慮は要らないと言われたのだから、少しはやり返さないと気が済まない。彼女は仄かに笑みを浮かべながら、万感の想いを込めてその心情をあらわにした。


「ありがとう、サニー」


 時に、口は意思に反してこえを出す。しかし、それもまた偽らざる気持ちであった。不意を付かれた様子の皇女が何かを言い出す前に、彼女は手を振って馬車へと乗り込んだ。


 やがて、皇女の指示により、落照らくしょうを帯びた車両が動き出す。帝都を越え遥か北へ、バラトリプル教国にまで至る道は、ミストリアへと繋がっている。車窓の彼女は振り返ることなく、ただ前だけを見詰めていた。

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