第三章 4-3


 レイネリアはきびすを返すと、再び修練所の扉に手を掛けた。一呼吸して、一気にそれを開け放つ。慣れ親しんだその場所では、先ほど自分にしていたように、タルペイアが自身の喉元に短剣を突き付けていた。


 彼女は迷わずタルペイアのもとへと向かう。彼女の帰還に気付き、きょとんとした表情で短剣を下ろす少女に、躊躇なく平手打ちを見舞った。


 弾けるような音を立ててタルペイアの頭が大きく揺れると、手に持っていた短剣が地面へと落ちる。無言で正面に直った少女に向けて、続けてもう片方の頬も打ち返す。今度は蹌踉よろめかずに踏ん張る少女に、更に両手で挟み込むようにして叩き付ける。


 何をやっているのか自分でもよく分からない。これではまるで使用人を虐める悪役令嬢だ。してや相手は皇女の侍女である。本来ならば皇女への無礼となるのだが、最初に好きにしても良いと言われたような気もする。


 タルペイアは表情を変えずに酷い仕打ちに耐えていたが、目の端に薄っすらと涙が浮かんでいるところを見ると、やはりそれなりに痛かったのだろう。その弱々しい姿に居た堪れなくなり、誤魔化すように少女を抱き締めた。


 タルペイアは抵抗することもなく、彼女の腕の中に収まっていた。半ば衝動的にこのような暴挙に及んでしまったが、なぜかこうしていると次から次へと感情が溢れ出してくる。


 この気持ちはいったい何であろう。怒りであり、憎しみであり、悲しみであり、そして慈しみでもあった。今頃になって、事件の恐怖が、別離の惜情せきじょうが、偶人ぐうじん憐憫れんびんが、薄幸の義憤が、せきを切ったように押し寄せてきて、彼女はただ落涙するばかりであった。


 タルペイアもまた彼女に感化されたのか、いつしか嗚咽おえつが漏れ聞こえ、力強く抱き締め返してくる。しばし、二人は時が経つのも忘れて、互いを支え合うように抱擁していた。


 タルペイアは語った。自分が孤児であり、幼い頃にカシウス家に引き取られたこと。皇女のもとに遣わされ、内情を探らされていたこと。容易に人をあざむき、裏切る自分が嫌いで堪らなかったこと。しかし、うちより響く声に突き動かされ、抗うことの出来ない恐怖に怯えていたこと。


 ようやく分かったような気がした。タルペイアもまた運命に囚われ、出口のない迷宮を彷徨っていた。自分が少女に向けていた想い、それは同類への哀憐あいれんと嫌悪であったのだ。故に、相反する感情が複雑に入り混じり、理解することを難しくしていた。


 しかし、今ならタルペイアの本当の姿が見えてくる。外見からは感情の起伏に乏しく、何を考えているのか掴めなかった少女も、自分という鏡に映すことで、その構造が理解できる。そして、それを認識した瞬間、彼女には再び知覚の世界が視えていた。


 そこには無数の球体があった。これが少女の内包するプラナなのだろう。そして、その奥に守られている…いや、絡め取って盾にしている、歪で醜悪な塊があった。それはどす黒い瘴気を漂わせており、もはや球体であるのかすらも判然としない。


 直感的にこれがゲッシュの正体であると確信した。しかし、そこまで辿り着くには周囲の球体を消していかねばならない。彼女はなるべく消滅を最小限に抑えながら、眼前の道を切り拓いていく。


 並行するようにして、自分の背に手を回すタルペイアの力も弱まっていった。呼び掛けへの応答もまばらとなり、徐々に意識が失われているようだ。彼女は腕の中の少女を強く抱き止めながら、同時に知覚の世界を歩んでいく。そして、元凶たる魔力の楔に触れたとき、彼女はずっと抱き続けていた疑問を口にした。


「ゲッシュが皇女に変更されたのは、いつのことなの?」


 少女がそれに答えることはなく、最後に頷きだけを返すと、事切れるように彼女の胸の中へと沈んでいった……。

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