第三章 4-2


 レイネリアは改めて修練所を見回した。最近はもっぱらここと貴賓室を往復する日々が続いており、今では随分と愛着が湧いてしまっていた。


 もともとは老魔術師がサナリエルの修練のために設えたもので、どうやら強力な結界が張られているらしく、並の攻性魔法では傷一つ付けられない他、内部の魔力や音声などを遮断し、外部に漏洩させないようになっているという。何でもくだんの軍事演習の宴席にも同じような仕掛けが施されていたようだ。


 彼女は一頻ひとしきり修練所を眺めると、最後にタルペイアに目を留め、別れの言葉を口にしようとした。しかし、どんな言葉を掛けたら良いか、いやどんな感情を向けたら良いのか、分からなかった。


 結局、答えが見つからぬまま、彼女は入口に向けて足を進めた。タルペイアは修練所にまだ用があるのか、その場を微動だにしなかったが、擦れ違い様に掛けてきたのは意外な言葉であった。


「御顔に傷が残らなかったことが唯一の救いでした」


 彼女は反射的に左の頬に手指しゅしわす。そこにはかつて短剣が走った溝は既になく、視覚的にもその痕跡を窺うことは出来なかった。


 あの事件の直後、皇女に招聘しょうへいされた皇族専任の医師らにより彼女の治療が施された。しかし、どんなに高位の回復魔法であろうとも、外傷を完全に消し去ることは出来ず、結局は本人の自然治癒能力に頼る他ない。それはツキノア領において、ミストリアが兵士の手当てをしたときも同様であった。


 故に、しばらくは顔に傷痕が残ることになるのだが、それに当の本人よりも激しく取り乱したのが皇女であり、老魔術師に命じて左頬にだけ幻術を掛けて隠そうとした。


 れど、不思議なことに何度試しても魔法は失敗してしまい、線傷せんきずは浮かび上がったままであった。そのときの皇女の狂乱ぶりたるや、精兵たる護衛さえも震え上がるほどに凄まじいものであったのだが、幸いにも程なくして傷跡は目立たなくなり、やがては消えていった。


 この三日間、タルペイアからは何度も事件についての謝罪を受けていた。もっとも、その元凶が主人であったカエレアと、掛けられていたゲッシュにある以上、その責を問うことは出来ず、その言葉にもどこか他人事のような印象を抱いていた。


 それに比べると先ほどの言葉は幾分か、タルペイア自身の気持ちが込められているような気がして、自然と彼女の表情を緩めさせた。それを許容と捉えたのか、少女は彼女に向けて大きく一礼した。


 タルペイアはこれからどうなるのだろう。一度は助命した以上、再び処刑するような真似はしないだろうが、一生この屋敷から出られないかも知れない。ただでさえ、事件の詳細を知る立場にあるのだから、その身柄は皇女によって抑えられたままであろう。


 結局、タルペイアを救うことは出来なかった。いや、始めから救おうとしていたのかも怪しいところだ。プラナを奪うということ、それは怒りや憎しみの感情では叶わなかった。ならば一体何が足りなかったというのだろうか。


 しかし、今更考えても詮無きことであった。彼女は無言で修練所を後にすると、貴賓室に戻るために邸宅へと足を向けた。既に天空は朱に染まっており、間もなく藍へと変わることだろう。


 庭園を歩いていると、相変わらずのみやびさに思わず舌を巻いてしまう。何でも帝宮に仕えていた凄腕の庭師を引き抜いたらしく、花紅柳緑かこうりゅうりょくを体現するかのように自然な調和が保たれていた。それはあまりにも繊細かつ緻密であり、素人が迂闊に手を出せば立ち所に均衡を失い、この美しい風景に傷を付けてしまうことだろう。


『御顔に傷が残らなかったことが唯一の救いでした』


 その言葉が再び脳裏に蘇る。自分とて妙齢の女人であり、容姿を気にしない訳ではない。しかし、些か大げさに思える言葉には苦笑してしまう。まるで、もう何も未練がないみたいではないか。


 不意に、ある予感がした。それは荒唐無稽なものではないだろう。十分に考慮すべき事態であり、りとて干渉することもまたはばかられるものであった。


 だから、その行動は義心から生まれたものではない。ましてや友愛からでもない。強いて言うなれば、気付いた己自身への自負であった。

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