第三章 4-1


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「私たちの目的はあなただけ。大人しくここで死んでくれれば、彼女に危害は加えないわ」


 タルペイアはそう言い放つと、手に持った短剣をレイネリアの喉元へと押し当てる。彼女は椅子の上に座らされており、身動きが取れないようである。目前で繰り広げられる光景に、サナリエルは憤怒ふんぬの形相で少女を睨み付けている。


 タルペイアは黙したまま、その視線を彼女と皇女の間で行き来させていた。相変わらず感情の起伏に乏しく、何を考えているのかは読み取れない。やがて、刃の怜悧れいりな感触に気分を害したのか、彼女はせるように咳き込んでしまった。


「ニー様、大丈夫ですか。ええい、いつまでやっているつもりだ!」


 皇女の叱咤にタルペイアは短剣を収め、彼女を介抱すべく背中をさすろうとする。その瞬間、咄嗟に彼女がその腕を掴み上げた。我を忘れたかのように強く腕に力を込める彼女に対し、少女は僅かに表情を歪めると、皇女が割って入って二人を引き離した。


「ごめんなさい…」


 荒れていた呼吸を整え、動揺を静めた彼女が謝罪の言葉を口にする。慌ててなだめようとする皇女と、深くこうべを垂れるタルペイアを見て、今回もまた失敗に終わったことを彼女は痛感していた。


 人からプラナを奪うという試みは、開始から三日が経過した現在も一向に進展する兆しが見えなかった。そして、ミストリアをセイトに引き止めるための工作もそろそろ限界であり、ついに許された時間が終わりを迎えたことを悟った。


 そこで最後の悪足掻わるあがきとして、皇女の発案で例の事件の再現が行われたのだが、結果は知ってのとおりであり、いたずらに心の傷を露呈させてしまっただけであった。


 彼女の心中には、未だあの事件に対する憎悪が渦を巻いており、それが却って空属性の発動に効果的に働くのではないかとも考えられたが、どうやらそう単純な話でもないようである。


「妾は馬車の様子を見てこよう。ニー様はゆっくりと身体を休めていてほしいのじゃ」


 彼女に気遣うような言葉を掛けると、皇女はタルペイアを伴って修練所を後にした。二人が去った後、彼女は椅子から転げ落ちるように床にせると、またぼんやりと殺風景な天井を眺めていた。


 窓を照らす陽光に朱が差し始めていた。少なくとも恒星が沈む前には出発しなければならない。皇女は馬車を用意してくれただけでなく、街道沿いにある宿場町の手配も済ませており、まさに至れり尽くせりであったのだが、肝心の自分がこのようなていたらくでは、あまりの不甲斐なさに申し訳が立たなかった。


 そもそも、本当に可能なのだろうか。老魔術師による修練も並行して進められており、魔法を消去する技術には一層の磨きが掛かっている。しかし、魔法を構成するマイナと人体に存在するプラナとでは勝手が違う。大体にして、プラナがどういうものなのかもまだよく分かってはいないのだ。


 理屈としては、魔法と同様にプラナの魔力を対消滅させてしまえば良いのだろう。そのために必要なことは対象の理解であるが、人体の構造、それも外見的な部分だけでなく内面までもとなると、とてもではないが手に負える代物ではなかった。


 最初から土台無理な話だったのかも知れない。むしろ、魔法を消去できただけでも信じ難い成果である。過ぎたる力を追うよりも、今あるもので何とかすべきではないだろうか。


 もともと、自分には何もなかったのだ。何もない自分にここまでのことが出来たのだから、これは重畳ちょうじょうというものだ。何もない自分が何もなくさせる力を手に入れた。それはとても滑稽で、それでいて相応なようにも感じられた。


「そろそろ出発のお時間です」


 唐突に頭上から響いた声に、彼女は驚いて飛び起きた。視線を向ければそこにはタルペイアが立っており、いつの間にか戻ってきたようである。しかし、皇女の姿は見当たらず、少女一人だけのようであった。


「準備が整いましたら正門までいらっしゃるようにと、サナリエル様から申し遣っております」


 どうやらこれまでのようだ。あとは貴賓室に戻って旅支度をするだけなのだが、軽装だった荷物はこの滞在中に随分と増えてしまった。それは主に衣装や装身具である。


 殆どが皇女からの御下賜品ごかしひんであり、流石さすがに長期間の滞在にあたっては、同じ服装ばかりでは困ると強く言い含められてしまったのだ。もっとも、あれやこれやと玩具のように着せ替えられたのは、多分に皇女の趣味であったと思う。


 昨夜はその中から必要なものを厳選し、同様に下賜かしされた肩掛け鞄に詰め込んだ。皇女からは路銀の提供も受けており、そのときは自分が情けなくなって、一旦は固辞しようとした。


 しかし、食客しょっかく見窄みすぼらしい真似をさせることは、屋敷の主人としての沽券に関わると力説され、今更そこだけ遠慮しても仕方がないと思い直し、有難く頂戴することにしたのであった。

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