プロローグ 3-3


 レイネリアは一頻ひとしきりミストリアの胸で泣いた後、宴席での一件をつまびらかに語り出した。しかし、封禅ほうぜんへの陪従ばいじゅうだけは口にすることは躊躇ためらわれ、国王と皇太子が上手く執り成してくれたことにした。


 ミストリアは時折相づちを打ちながら、黙って彼女の話に耳を傾けていた。やがて、一通り終わったことを確認すると、そのまま彼女を寝台に横たわらせ、自身は脇に備え付けられた華美な椅子に腰を下ろした。


「どう、少しは気分が落ち着いた?」


 ミストリアは柔らかに微笑みながら彼女を覗き込んだ。彼女は気恥ずかしそうに寝具に顔を隠したが、しばらくして目から上だけをひょっこりと現す。ミストリアの表情は慈愛に満ち溢れており、まるで姉ではなく母、或いはもっと歳上の存在のようにも感じられた。


「ごめんね、服を汚しちゃった」


 彼女の言葉と視線を追って、ミストリアは自身の胸元を見下ろした。それは涙と鼻水で濡れており、豊満とは言わずとも、決して小振りではない身体の線を浮き上がらせていた。


「平気よ、レイニーだもの」


 そう言って笑顔を崩さないミストリアを見て、彼女は自分がうの昔に心の奥底に押し込めた感情が、少しだけ揺り動かされるのを感じていた。それはあまりにも出来ない理由が多すぎて、決して起こり得ない…いや、起こってはならないと諦めたものでもあった。


「ごめんね、レイニー」


 そんな彼女の心情を知ってか知らでか、ミストリアは再び謝罪の言葉を口にする。自身の心を読まれたのかと慌てる彼女であったが、どうやらそれは勘違いのようで、ミストリアは淡々と今回の軍事演習に関する考察を述べた。


 ミストリアは初めから、この演習が本来とは別の目的で行われようとしていることに気付いていたという。それは魔力の確認を打診された自身だけでなく、彼女にまで及んでいたことからも明らかであり、むしろ後者こそが本命ではないかとにらんでいた。


 演習では過剰なまでに兵士の安全に配慮していたのは、それを口実に彼女が不利な状況に陥ることを危惧した故であった。もしも死者が出てしまっていたら、それは帝国の演習のつねとはいえ、もっと厳しい立場で宴席に望むことになっていただろう。


 また、ミストリアは演習中も彼女を監視しており、あらゆる事態に備えていたようだが、肝心の宴席ではそれが出来ずにいた。何故ならば席場には堅牢な結界が張られており、それはミストリアを以ってしても感知の網を潜り抜けることは困難であり、無理をすれば彼女にまでるいが及ぶ危険があった。


「宴席の顔ぶれの中に、帝国の老魔術師がいたことは覚えてるかしら?」


 唐突な問い掛けに彼女はしばし返答にきゅうしていたが、やがて年配の魔術師の姿を思い浮かべる。そう言えば宴席だけでなく陣幕においても、その言動が場を動かす重要な役割を担っていた。


「一見するとただの好々爺こうこうやのようだけど、魔術師としての力量はヌーナ大陸随一とも噂されているわ。きっとあの結界も彼の手によるものね」


 ミストリアがそこまで他人を褒めることは珍しかった。しかし、老魔術師がそれを聞いたら、ミストリアにだけは言われたくないと怒り出すことだろう。彼女は思わず苦笑いを浮かべてしまったが、それは心に余裕を取り戻しつつある証でもあった。そして、ミストリアが老魔術師に妙に詳しいことにも違和感を覚えた。


「もしかして、今のは先代の記憶なの?」


 彼女の不可思議な問い掛けに、ミストリアは迷うような仕草の後、僅かに首を振る。ミストリアは歴代の天人地姫の記憶を部分的に継承しており、それは成長や特定の事象を契機として、段階的に甦るとものだとされていた。


 特に魔法に関する記憶は早い段階で現出するが、人物となると余程縁があった者でないと難しいらしく、ホーリーデイ家でも彼女の母親、現当主のクラウディアナよりも前の代は朧気なのだという。


「もしかしたら、ずっと昔にっているのかも知れないわね。でも、私がそばにいる限り、レイニーには指一本触れさせないわ」


 その何物にも代えがたい心強い言葉に、彼女は改めて自分がミストリアに守られていたことを痛感した。そして、今日の行動が如何に無謀であったかを自省し、宴席で克己こっきした筈の覚悟はすっかりとしぼんでしまった。


「私にはメイラ将軍のような武芸の才はないし、ミスティのように魔法を使うことも出来ない。今日は少しだけ何かを変えられたと思ったけど、どうやら気のせいだったみたい」


 それは演習や宴席における彼女の所作を見た者からすれば、否という他ない不当な自己評価であった。斯様かような弱音に対して、ミストリアは居住まいを正すと、いつになく真剣な眼差しを彼女へと向けた。


 その吸い込まれるような翡翠の瞳に思わず物怖じしそうになる。しかし、何とか踏み止まりながら視線を交じえていると、やがて慈愛に満ちた心地良い声が響いてきた。それは普段ミストリアが見せるものとは何かが違ったが、或いはこれこそが、綿々と受け継がれてきた天人地姫としての本来の姿なのかも知れなかった。


「私はあなたの本当の強さに気付いてほしいの。それは武芸でも魔法でもない、あなたたちだけが持つ特別な力よ」


 本当の強さ、特別な力…そんなものが自分にあるのだろうか。天人地姫を庇護するとされながら、逆に護られるだけの自分にいったい何が出来ると言うのか。


 尚も無力感が彼女を苛んでいた。それほど彼女が歩み続けた苦悶の日々は根深かったのだ。だが、ミストリアはそんな胸中を見透かしたかのように微笑みを絶やさなかった。


「あなたの母も、かつては理想と現実の隔たりに思い悩んでいたの。でも、聡明な彼女は次第に周囲にも目を向けられるようになり、やがては持ち前の洞察力から外交の分野で頭角を現していったわ」


 それは初耳であった。彼女の母親である当主クラウディアナは、ホーリーデイ家の特殊な立ち位置に目を付けられ、王国に良い様に利用されているのだと思い込んでいた。しかし、実態は母こそが王国の外交を主導していたのだという。


「ツキノア家の発言力が低下したのは、帝国の敵対国家が滅亡したことだけが原因ではないわ。彼女の卓越した手腕が認められているからなのよ。まあ、どのみちオイワ将軍に外交を任せるのは無謀の極みだけどね」


 彼女は宴席におけるオイワ将軍の振る舞いを思い返していた。あの唾棄すべき発言はトチネア家への追従だけでなく、ホーリーデイ家に対する逆恨みでもあったのかも知れない。


「だから、あなたもきっと上手くやっていけるわ。もっと自分を信じなさい」


 そうして胸を張ったミストリアの姿に、彼女は緊張がほぐれたのか、自分でもよく分からぬままに笑みを溢した。ここまで太鼓判を押された以上、落ち込んでなどはいられない。気を取り直して、思考を澄んだ状態に戻した彼女は、改めて今回の一件を振り返ってみた。

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