プロローグ 3-4


「そもそも、帝国は本当に私を連れて行くつもりだったのかしら」


 まず、レイネリアは解決した筈の課題に敢えて疑問をていした。その前提を覆す柔軟な発想こそが彼女の真骨頂であり、心做こころなしかミストリアの表情もどこか綻んでいるようにも思われた。


「だって、そのときは絶対にミスティが黙っていないと思う」


「ええ、皇帝と皇太子、それに重鎮たちが一堂にかいし、戦力も第1師団しかないのだから、まるで滅ぼしてくれと言っているようなものね」


 何か恐ろしく物騒な発言があったように思われたが、彼女は肯定の意であると解することにした。そう、彼女を自国へ招き寄せたいのであれば、モリヤ将軍の言葉ではないが、ミストリアが旅立ってからにすれば良かったのだ。


 王国にとって最大の安全保障である天人地姫の存在も、封禅の儀に伴う代替わりの期間には空白となる。儀式の正確な日時が秘匿されているのも、或いはそれを危惧してのものなのかも知れない。


「帝国が知りたかったのは王国側の出方なのかも。もしも帝国との間でいさかいが起こったとき、諸侯たちがどのような反応を示すのか…」


 絶対君主制の帝国とは異なり、王国は王家と五大諸侯に権力が分散されている。ホーリーデイ家も少なからぬ影響力を有してはいるが、実態的な力までは持ち合わせてはいない。


 今回は五大諸侯の中でも意見が割れ、ノミネア家が彼女の味方、ここでは便宜的に王国側として、トチネア家とツキノア家が帝国側、そしてシチウタ家とコトミナ家が中立の立場を取った。


 もっとも、コトミナ家は内政に根差した文官の一族であるため、帝国との衝突には消極的というだけで、立ち位置としては他のどこよりも王国側だろう。無論、トチネア家とツキノア家についても、あくまで今回は帝国寄りの発言をしただけで、叛意を示すような意図はない筈だ。


 一方、シチウタ家に関しては昔から悪い噂があった。いわく、王国からの独立を画策しているという疑惑である。シチウタ家は商業組合や職人集団の元締めであり、王国の経済を裏で牛耳っていると噂されていた。


 また、王国の西側、大陸の西海岸一帯に広大な領地を持ち、西方大陸との交易を独占的に行っている。珍しい舶来品には莫大な値が付けられ、利益の一部を税として国庫に納めてはいるものの、保有する富は王家にすら比肩するとまで囁かれていた。


「相変わらずのことだけど、王国の統治基盤って随分と脆弱なものね」


 それは臣下としては決して口に出してはならぬものであったが、ミストリアには無縁のことである。


 ハナラカシア王国は、かつて大陸全土を巻き込んだ大戦を経て独立した国家であり、建国の中心となった人物が初代国王として戴冠し、その子孫が王家の命脈を保ち続けてきた。


 そして、武功のあった配下や協力者たちはヤノロム家を含む当時の六大諸侯の祖となり、領地を分与されて辺境地帯を異民族から守護してきた。天人地姫を擁するホーリーデイ家もこの頃に家名をたまわったとされている。


 しかし、世代を経る毎に王家と諸侯の結び付きは薄れていく。領地が発展を続けることで諸侯の統治が安定化する一方、国王の権威は次第に弱まっていき、やがては諸侯が実質的な王国の舵取りを担うようになった。


 それを危惧したヤノロム家が諸侯の地位を返上し、側近として仕えるようになったのだが、その潮流を止めることは出来ず、現在に至るという訳である。


「ウィンダニア王女のこともあるし、しばらくは不安定な情勢が続きそうね」


 先の建国以来の構造的な問題に加え、王国にはもう一つ国運を左右し兼ねない難題があった。それは現国王ヒコイツセの唯一の実子にして王位継承権第一位、王嗣おうしとなるウィンダニア王女の存在であった。


 ハナラカシア王国は女王の即位が認められているため、順当ならばウィンダニア王女が即位するのだが、難点は伴侶となる王配おうはいである。


 如何に国王の権威が弱まっているとはいえ、元首としての存在感は健在であり、仮にいずれかの諸侯から王配を迎えた場合、国内の権力構造に重大な変化が生じることは明白であった。


 この問題に対する諸侯の思惑は様々であり、自らの一族から擁立しようと画策する者もいれば、逆に王配は不要であると唱える者、或いは他国から招聘しようとする者、はたまた継承順位では下位の王弟の即位を推す者すらあった。


 然様さような国内における不和に対し、帝国が付け入ろうとすることは想像に固くなく、案外目的はそこにあったと考えると合点がいく。


 そこまで仮説を構築した後、不意に彼女はある引っ掛かりを覚えた。それは宴席で自身を擁護してくれた皇太子の存在である。


「それが帝国の真意であったとして、なぜ皇太子は私に味方してくれたのかしら」


 彼女の策の決定打となったもの、それにまつわるの疑問を口にしたとき、にわかにミストリアの瞳が輝き出した。どうやら既に目星が付いているらしく、ずっと彼女がそこに至るのを待っていたようでもある。


 やはり智略においても、自分はミストリアの後塵を拝しているのだと感じながら、彼女は率直に理由について尋ねてみた。


「やっぱり気付いてなかったのね。演習での経緯をよく思い出してご覧なさい」


 しかし、ミストリアは勿体振るようにして、自分で考えてみるように彼女に促した。それが自身の武器となることを自覚している彼女は、演習時における皇太子の言動を思い起こしてみた。


 今まではモリヤ将軍への憤りばかりが占めていたが、く考えてみると、皇太子からも不可解な発言があったように思える。


『彼女に謝罪したまえ。先の発言は騎士として有るまじきものだ』


『しかも、我が妃となるやも知れぬ貴人に対して何たる侮辱か。重ねて述べるならば、王国は決して属国などではない』


 確かに、これは先ほど考察した帝国とは似ても似つかぬ熱血漢である。斯様かような人物が皇帝に即位した暁には、存外と王国との諸問題は解決に向かうのかも知れない。しかし、いま考慮すべき点はそこではない。真に問題とすべきは皇太子のあの発言である。


「我が妃となるやも知れぬ貴人って、まさか…」


 ついにそこまで辿り着いたかと言いたげに、ミストリアが満足そうに頷いた。つまりはそういうことなのである。彼女は赤面しながら嬌声きょうせい…ならぬ、叫声きょうせいを上げた。


「ミスティを妃にしようだなんて言ってるの、あの皇太子!」


 彼女の身は怒りに震えていた。その表情は先ほどの意気消沈したものとは打って変わり、湯気が出そうなほどに火照っている。ミストリアもそれを眺めながら、もはや呆れを通り越して憤りを抱いたようであった。


「あなたって本物の馬鹿ね。帝都に行っちゃえば良かったのに」


 ミストリアのあまりの暴言に彼女は驚いてしまった。自分は何かおかしなことでも言っただろうか。しかし、皇太子の目的がミストリアであるとすれば、幾らか説明の付く点もあった。


「皇太子は私の味方をすることで、ミスティに好印象を伝えさせようとしたんじゃないかしら。ほら、将を射んと欲すればず馬を射よって言うじゃない」


 親しい者から薦められた相手は無下には出来ないものだ。彼女は自身を馬に例えることに甘んじてまで自説を強弁しようとした。一方、ミストリアは彼女に更なる鞭を送った。


「ある国家の権力者は自らに逆らう者を判別するため、わざと鹿を馬と呼んで反論するかどうかを試したらしいわ。でもね、私は思うのよ。本当に鹿を馬と間違えていたのかも知れないって」


 あまりに遠回しに言われたことで、しばしその意図が見えず首を傾げていた彼女であったが、やがて自分が馬鹿にされたことに気付き頬を膨らませた。それを楽しそうにも呆れたようにも眺めていたミストリアは、これ以上は時間の無駄として本題に入った。


「皇太子の真意は別として、国内が一枚岩でないのは帝国も同じということよ。そして、何よりの失態はそれを宴席の場で示してしまったことね」


 本当の問題は意見の相違そのものではなく、それを他国の前で見せてしまったことである。案外、皇帝と皇太子の対立は想像以上に根深いものなのかも知れない。


 そして、彼女たちが思い至った程度のことに、宮廷政治に長けた五大諸侯の当主たちが気付かぬ筈はなかった。宴席での沈黙は皇太子の威光に押されたのではなく、皆がその異様さを感じ取ったからであったのだ。


 逆に言えば、皇太子にはそこまでの事態を引き起こしてまで、あのとき発言すべき理由が存在したということになる。それは一体何なのか、一つの疑問が解ければ、それがまた新たな疑問として湧いてくる。


 仮説の迷宮に限りはない。ともすれば、囚われて正常な思考すらも覚束おぼつかなくなる。それを見兼ねたミストリアがまるで連れ戻すように彼女を諭した。


智慧ちえある者は一つの行動に複数の意図を忍ばせるものよ。それは時に相反することもあるから、全てを正確に読み解くことは難しいし、あまり意味もないわ」


 今回の合同軍事演習の真の目的、それを知るのはもっとずっと後のことになるのだろう。この先も延々と生涯にわたり、腹の探り合いを続けていかねばならないのだ。それは気の遠くなるような話であったが、既に彼女は覚悟を済ませていた。


「その様子ならもう大丈夫そうね」


 ミストリアは少し淋しそうに笑うと、彼女の額を優しく撫でた。その手指しゅしはひんやりとして気持ち良く、彼女はまるで母親に甘える子供のように、嬉しそうな照れくさそうな表情を浮かべていた。


「本当はもっとあなたと一緒にいたかったのだけど、もうあまり時間は残ってないみたい」


 それは封禅の儀が目前に迫っていることを意味していた。霊峰タカチホへの道程は約半年間に及び、出発の日は到着の時期から逆算して決められるという。


「あなたが十八の成人を迎える日が最後になりそうね」


 それはあと数ヵ月のことであった。若輩ながらも大人の一員と認められる日、その先には各々の使命が待っている。それは決して平坦なものではないが、二人は独りで乗り越えていかねばならない。


「…ねえ、本当にミスティが行かなければならないの?」


 愚問であることは分かっていた。それでも敢えて聞かずにはいられなかった。初めて出会ったときからいつも一緒だった。それはまるで本当の姉妹のようだった。いや、実は本当の姉妹ではないかという噂もあった。


 彼女は今一度ミストリアを見詰めた。その少女には神との契りが約束されている。しかし、現代ではそれを懐疑的に見る者もおり、封禅の儀は天人地姫の伴侶を探す旅…そして、ホーリーデイ家に婿入りするのではないかと揶揄されることもあった。


「ええ、それが私の運命だから」


 その言葉にはどこか諦めにも似た響きがあった。ミストリアは彼女の額から手を戻すと、おもむろに立ち上がり就寝の言葉を告げた。彼女は離れゆく背中に向かい、決して漏れることのない叫び声を上げた。


 ずっと傍にいてほしい。どこにも行かないでほしい。それでもどうしてもと言うのなら…私も一緒に連れて行ってほしい。


 遠ざかるミストリアに、縋るような彼女の手が伸びる。しかし、それは障壁に達するまでもなく止まってしまった。

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