プロローグ 3-2


「おかえり、思ったよりも早かったじゃない」


 穹廬きゅうろの入口をくぐったレイネリアを迎えたのは、腰まで伸びた金色の髪を絹糸のようにいている美しい少女であった。


 野営地でありながら、まるで湯浴みをした後のように艶があり、着衣を漆黒のローブから淡黄蘗うすきはだの寝衣に着替えたことも相まって、なぜか見ていると心臓の鼓動が早まるような気がした。


「ただいま、ちゃんと寄り道せずに帰ってきたよ」


 そうして照れ隠しのようにむくれる彼女を見て、ミストリアは優しく微笑みながら奥へと促した。内部には天蓋てんがいの施された寝台が二床ふたしょう用意され、周囲を豪華な装飾品が彩り、さながら王族への待遇のようである。これも帝国が如何に天人地姫を厚遇しているかの証左であったが、それは同時に一抹の不安を掻き立てられるものでもあった。


「大丈夫、何も仕掛けられていないわよ」


 まるで彼女の危惧を見透かしたように、ミストリアは欠伸を噛み殺しながら応じた。既に夜もけて久しく、ずっと眠気を押して待ってくれていたのだろう。そんなミストリアの姿を想像すると、何だか申し訳ないような、それでいて嬉しさに溺れてしまうような、複雑な感情が止めどなく溢れ出してきた。


「それで、誰かと一緒にいたみたいだけど?」


 独り夢心地な彼女に向けて、ミストリアは怪しげな表情を浮かべながら詰問した。それは詮索しているようで、既に答えを持ち合わせているらしく、敢えて本人の口から語らせたいという意地悪さを孕んでいるようでもあった。


「ああ、夜道は危険だからメイラ将軍が付き添ってくれたのよ」


 しかし、その答えは予想だにしないものであったのか、ミストリアは目を丸くして彼女を見詰めた。その様子を逆に不思議そうに見返す彼女であったが、やがて向こうからは深い溜め息が漏れ聴こえてくる。


「あのメイラ将軍がねえ。彼女らしいと言えばそうだけど、もう少し周りに気を配ってはもらえないものかしら」


 その落胆した様子に今ひとつ意図の読めぬ彼女であったが、話がおかしな方向に進み始めていることを察し、メイラがモリヤ将軍を気に掛けていたことを話した。そこに至ってようやく合点がいったのか、ミストリアは興味深そうに話に食い付いてきた。


「メイラ将軍も難儀なものね。何もあんな男を好きになることはないのに」


 ミストリアの口から出た信じ難い言葉に、彼女はしばし唖然としたまま、帰路でのメイラの様子を思い返していた。確かにあの時はどこか様子が変であったが、あれはそのような意味だったのか。しかし、少し話が飛躍し過ぎではないかとも思えてくる。


「同じ志を抱いて共に修行した男と女だもの、そういう感情が芽生えても不思議はないわ。それに武勇誉れ高きメイラ将軍には、なかなか釣り合う男がいないのよ」


 半信半疑の彼女に対し、ミストリアはまるで見てきたかのように、メイラの秘められた想いを赤裸々に語り出す。その話には頷ける部分も多々あったが、そうかと言って断じられるほど二人のことをよくは知らなかった。そのように彼女が思案を巡らせていると、ミストリアが呆れた表情を浮かべながら声を漏らした。


「レイニーったら鈍いんだから。それではこの先が思いやられるわね」


 この先という言葉が出たことに、彼女の胸がにわかに疼き出す。それは封禅の儀へと旅立った後のことであろうか。伝承のとおりであれば、ミストリアは降臨の地で神の子を宿し、自分もまた誰かと婚姻して子を授かることになる。その子どもたちは、また自分たちのように成長し、そして別離を迎えていくことだろう。


 しかし、彼女はその結末を望まず、ミストリアの旅路に同行する道を選んだ…いや、選びたいと願った。結局のところ、それを決めるのは彼女ではなくミストリアなのだ。宴席で国王が語ったように、御幸ごこう陪従ばいじゅう天人てんじん地姫ちぎが定めることであった。


 果たして、ミストリアは自分が来ることを望むのだろうか。もう随分と前から苦悶し続けていた彼女であったが、その答えを知るのが怖くて、今まで直接訊くことが出来ずにいた。もしも断られてしまったら、自分は帝国に赴く羽目になるのだろうか。いや、それにも増して、ミストリアから拒絶されることが堪らなく怖かった。


 ミストリアはどう思っているのだろう。自分との今生の別れに、何も苦悩することはないのだろうか。今までずっと一緒にいたというのに、寂しくは感じてくれないのだろうか。こんなに辛く引き裂かれるような想いを抱いているのは自分だけなのだろうか。ミストリアにとっての自分とは、所詮はその程度のものに過ぎなかったのだろうか。


 際限なく湧き起こる悲壮感に囚われ、次第に彼女は黙り込んでしまった。一方、うつむいた様子の彼女を見て、ミストリアは先の自分の言葉のせいだと誤解したのか、慌てるようにして励ましの言葉を送ってきた。


「大丈夫、レイニーは誰よりも可愛いわ。ほら、あのオヒトったら、随分とあなたにご執心のようなのよね」


 ミストリアが引き合いに出したのは、事もあろうにあのオヒトであった。確かに宴席での彼の奮起をかんがみれば、幾らか信憑性のある言説であった。


 しかし、彼女自身はミストリアに陶酔する彼を見続けてきたため、それを当の本人から聞かされても虚しく響くだけである。ミストリアのおだては尚も続き、辟易した彼女の脳裏を不意にぎったのは、宴席で耳にしたあの嫌悪した筈の言葉であった。


「また、ノミネア家では血が濃すぎてしまう」


 その瞬間、彼女は自分の口を介して出たおぞましきものに戦慄した。いったい自分は何を口走っているのだろう。今のは違うのだと、慌てて弁解しようとした彼女の目に映ったのは、悲哀と軽蔑を帯びたかのようなミストリアの乾いた表情であった。


「ごめんなさい、少し無神経だったかしら」


 ミストリアの謝罪に彼女はますます動揺した。誰よりも大切な人に、醜い言葉をのたまう人物だと誤解されてしまった。それは自分の言葉じゃない、私の口から出たけど私じゃない。


 早くそれを伝えなければならないと思った。しかし、そこで今まで張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れてしまったのか、様々な想いが堰を切ったように溢れ出し、自分でも何が何だか分からなくなってしまった。


「ち、ちが…うぅ……」


 言葉にならなかった。ミストリアの姿が滲み、目からは大粒の涙が零れていた。演習や宴席においては、両国の重鎮を前にして皇帝相手にも堂々としていた口達者が、今は年相応の少女の姿で泣きじゃくっていた。


 そうだ、本当はあのときだって怖かった、怖くて堪らなかったのだ。帝国からの要請を受け、ミストリアと別れて一人で陣幕に向かうときには、恐怖と緊張のあまり逃げ出しそうになった。


 皇帝のかたわらに立ったときには、威圧感と周囲の視線に足が竦んで崩れ落ちそうになった。帝都に連れて行かれそうになったときだって、本当は泣き叫んで誰かに助けてほしかった。


 でも、自分はホーリーデイ家の嫡子だから、これが使命だから、ミストリアに相応しい人物でいたいから…そう自分に言い聞かせてここまで耐えてきたのだ。それがやっと終わったのに、何一つ解決してなくて、ミストリアにも誤解されてしまって、私は何をしていたのだろう。いったい何がしたかったのだろう。


 尽きることなき想念の瀑布ばくふが、彼女を奈落の底へと押し流そうとしていた。しかし、そんな彼女を不意に柔らかく暖かいものが抱き止めた。それはミストリアであった。


「ミス…ティ……?」


 ミストリアの非接触の障壁は常時展開されている。しかし、ある特定の条件下では作用しない仕組みになっていた。その一つが自身の意思で対象に触れようとした場合であり、人相手には極めて稀で、そして危険な行為でもあった。


 ミストリアに触れたのはいつ以来のことだろう。幼少期は何も考えずに出来ていたことが、いつの間にか出来なくなってしまっていた。成長するに連れて、障壁は彼女にも作用をし始め、その都度ミストリアの方から触れるようにしていたのだが、やがて気を遣われることに嫌気が差し、自ら避けるようになってしまった。


 それでも心は繋がっている、だから構わないのだと信じていたが、直接感じるミストリアの鼓動はとても優しく、そして心地よかった。


「大丈夫、大丈夫だから…レイニー、何があったのか私に話して」

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