プロローグ 3-2
「おかえり、思ったよりも早かったじゃない」
野営地でありながら、まるで湯浴みをした後のように艶があり、着衣を漆黒のローブから
「ただいま、ちゃんと寄り道せずに帰ってきたよ」
そうして照れ隠しのように
「大丈夫、何も仕掛けられていないわよ」
まるで彼女の危惧を見透かしたように、ミストリアは欠伸を噛み殺しながら応じた。既に夜も
「それで、誰かと一緒にいたみたいだけど?」
独り夢心地な彼女に向けて、ミストリアは怪しげな表情を浮かべながら詰問した。それは詮索しているようで、既に答えを持ち合わせているらしく、敢えて本人の口から語らせたいという意地悪さを孕んでいるようでもあった。
「ああ、夜道は危険だからメイラ将軍が付き添ってくれたのよ」
しかし、その答えは予想だにしないものであったのか、ミストリアは目を丸くして彼女を見詰めた。その様子を逆に不思議そうに見返す彼女であったが、やがて向こうからは深い溜め息が漏れ聴こえてくる。
「あのメイラ将軍がねえ。彼女らしいと言えばそうだけど、もう少し周りに気を配ってはもらえないものかしら」
その落胆した様子に今ひとつ意図の読めぬ彼女であったが、話がおかしな方向に進み始めていることを察し、メイラがモリヤ将軍を気に掛けていたことを話した。そこに至って
「メイラ将軍も難儀なものね。何もあんな男を好きになることはないのに」
ミストリアの口から出た信じ難い言葉に、彼女は
「同じ志を抱いて共に修行した男と女だもの、そういう感情が芽生えても不思議はないわ。それに武勇誉れ高きメイラ将軍には、なかなか釣り合う男がいないのよ」
半信半疑の彼女に対し、ミストリアはまるで見てきたかのように、メイラの秘められた想いを赤裸々に語り出す。その話には頷ける部分も多々あったが、そうかと言って断じられるほど二人のことをよくは知らなかった。そのように彼女が思案を巡らせていると、ミストリアが呆れた表情を浮かべながら声を漏らした。
「レイニーったら鈍いんだから。それではこの先が思いやられるわね」
この先という言葉が出たことに、彼女の胸が
しかし、彼女はその結末を望まず、ミストリアの旅路に同行する道を選んだ…いや、選びたいと願った。結局のところ、それを決めるのは彼女ではなくミストリアなのだ。宴席で国王が語ったように、
果たして、ミストリアは自分が来ることを望むのだろうか。もう随分と前から苦悶し続けていた彼女であったが、その答えを知るのが怖くて、今まで直接訊くことが出来ずにいた。もしも断られてしまったら、自分は帝国に赴く羽目になるのだろうか。いや、それにも増して、ミストリアから拒絶されることが堪らなく怖かった。
ミストリアはどう思っているのだろう。自分との今生の別れに、何も苦悩することはないのだろうか。今までずっと一緒にいたというのに、寂しくは感じてくれないのだろうか。こんなに辛く引き裂かれるような想いを抱いているのは自分だけなのだろうか。ミストリアにとっての自分とは、所詮はその程度のものに過ぎなかったのだろうか。
際限なく湧き起こる悲壮感に囚われ、次第に彼女は黙り込んでしまった。一方、
「大丈夫、レイニーは誰よりも可愛いわ。ほら、あのオヒトったら、随分とあなたにご執心のようなのよね」
ミストリアが引き合いに出したのは、事もあろうにあのオヒトであった。確かに宴席での彼の奮起を
しかし、彼女自身はミストリアに陶酔する彼を見続けてきたため、それを当の本人から聞かされても虚しく響くだけである。ミストリアの
「また、ノミネア家では血が濃すぎてしまう」
その瞬間、彼女は自分の口を介して出た
「ごめんなさい、少し無神経だったかしら」
ミストリアの謝罪に彼女はますます動揺した。誰よりも大切な人に、醜い言葉を
早くそれを伝えなければならないと思った。しかし、そこで今まで張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れてしまったのか、様々な想いが堰を切ったように溢れ出し、自分でも何が何だか分からなくなってしまった。
「ち、ちが…うぅ……」
言葉にならなかった。ミストリアの姿が滲み、目からは大粒の涙が零れていた。演習や宴席においては、両国の重鎮を前にして皇帝相手にも堂々としていた口達者が、今は年相応の少女の姿で泣き
そうだ、本当はあのときだって怖かった、怖くて堪らなかったのだ。帝国からの要請を受け、ミストリアと別れて一人で陣幕に向かうときには、恐怖と緊張のあまり逃げ出しそうになった。
皇帝の
でも、自分はホーリーデイ家の嫡子だから、これが使命だから、ミストリアに相応しい人物でいたいから…そう自分に言い聞かせてここまで耐えてきたのだ。それがやっと終わったのに、何一つ解決してなくて、ミストリアにも誤解されてしまって、私は何をしていたのだろう。いったい何がしたかったのだろう。
尽きることなき想念の
「ミス…ティ……?」
ミストリアの非接触の障壁は常時展開されている。しかし、ある特定の条件下では作用しない仕組みになっていた。その一つが自身の意思で対象に触れようとした場合であり、人相手には極めて稀で、そして危険な行為でもあった。
ミストリアに触れたのはいつ以来のことだろう。幼少期は何も考えずに出来ていたことが、いつの間にか出来なくなってしまっていた。成長するに連れて、障壁は彼女にも作用をし始め、その都度ミストリアの方から触れるようにしていたのだが、やがて気を遣われることに嫌気が差し、自ら避けるようになってしまった。
それでも心は繋がっている、だから構わないのだと信じていたが、直接感じるミストリアの鼓動はとても優しく、そして心地よかった。
「大丈夫、大丈夫だから…レイニー、何があったのか私に話して」
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