第二章 6-2


「明日と言わず、いつまでも此処に居てくだされ」


 帝国の栄耀栄華えいようえいがを極めた夜宴も終わり、未だ案内役を自認するサナリエルに連れられて、レイネリアたちは皇女の私邸に身を寄せていた。


 無論、宮殿にも皇女のための私的な区画はあるのだが、そこでは何かと自由がかないらしく、特別に皇帝の許しを得て設けられたのだという。それにしても一年前の国使の件といい、どうも皇帝は皇女には何かと甘いようである。


 皇女は皇位継承権を有するため、私邸には帝宮に次ぐほどの厳重な警備体制が敷かれており、門の前では兵士が強張った表情で立番をしていた。また、内部にも様々な仕掛けが施されているらしく、ミストリアは魔力の反応を感知したようだ。


 そして、皇女は彼女たちを貴賓室に案内すると、就寝の挨拶を告げて自室へと帰っていった。そこはくだんの宮殿のものに勝るとも劣らぬほど豪奢であり、これもまた皇女の権勢が並外れたものであることを物語っていた。


「今日は疲れたわね。明朝にはここを出るから早めに休むとしましょう」


 ミストリアは欠伸をしながら早々に寝台へと入っていく。室内の調度品はいずれもぜいを尽くしたものばかりだが、特に中央に並んだ華美な寝台には目を見張らされた。


 それは天蓋てんがいから脚部に至るまで精巧に細工がされており、柱体は眩いばかりの金色の光沢を放っている。また、内部には弾力性に富んだ絹布けんぷの寝具が主の到来を待っており、思わず誘惑に駆られて飛び込もうとした彼女であったが、唐突に扉を叩く音に引き止められてしまった。


「失礼いたします。湯浴みのお世話をするように申し付かりました」


 どうやら皇女の使用人らしく、思い返してみれば今日は御料車ごりょうしゃから宮殿、そして私邸と移動続きであり、まだ清浄無垢バース・バイ・バスも済ませてはいなかった。気になった彼女が彼方此方あちこちに鼻を近付けてみると、やはり舞踏でよく身体を動かしたこともあり、幾らか汗臭いようにも感じられた。


 念のためミストリアにも声を掛けてみたが、もともと舞踏には参加しておらず、また日頃から清浄無垢バース・バイ・バスに似た効果を周囲に循環させているらしく、もう寝台から動くつもりはないようである。


 貴賓室を充てがわれた手前、豪華な寝台を汚してしまうことを懸念した彼女は、特に断る理由もないため、使用人の申し出に素直に応じることにした。


「それでは、浴場までご案内いたします」


 扉を開けた先には年若い侍女が立っており、彼女の姿を認めると頭を垂れた。王都の屋敷にも同様の使用人がおり、勝手が分かっていた彼女は礼を告げてその後に付いていく。


 途中、侍女から屋敷には様々な仕掛けが施されているため、装飾品にはみだりに触れないように注意を受けた。夜宴からの帰りであるため、もう既に日付が変わろうとしていたが、廊下で巡回中の兵士と擦れ違い、改めて警備の厳重さと皇女の重要さを再認識させられる。しばらく廊下を進んでいくと、やがて真紅の絨毯が敷かれた先に目的の場所が見えてきた。


「では、ここでお召し物をお脱ぎください」


 侍女に言われて着慣れた旅装束に手を掛けたとき、不意に迷いが生じた。彼女は着替えを持ち合わせておらず、入浴後にまた同じものを身に付けては、臭いが移ってしまうのではないかと考えたのである。


 しかし、既に脱衣所には寝衣が用意されており、その心配は杞憂のようであった。どうやら皇女の指示によるものらしく、これまでの旅路で彼女の衣装に替えがないことは看破されていたようだ。


 いつの間にか不精ぶしょうなことが当たり前となってしまった自分に、少しだけ呆れてしまいながら、彼女は一糸纏いっしまとわぬ姿になると浴場に足を踏み入れた。


 人前に裸体を晒すことに決して慣れてはいないが、貴族の常というものか、入浴の世話を受けることは習慣的なものであった。勿論、まだ処子故に相手は同性の使用人に限られるのだが。


 こうした入浴も実に久方ぶりのことである。王都を旅立ってからというもの、宿場町の浴場では当然世話をする者もなく、殆どが清浄無垢バース・バイ・バスにより済まされていた。


 確かに便利この上ない魔法ではあるのだが、些か疲れが取れないと感じることもあった。今日こそはゆっくりと日頃の疲れを癒やし、また明日から始まる徒行に備えようとしていた彼女であったが、侍女はそんな胸中を知ってか知らでか淡々と語り始めた。


「それでは、カエレア様からの言伝ことづてを申し上げます」


 突然のことに彼女は目を丸くしてしまう。しかし、侍女はそれこそが本題であると言いたげな顔をしており、最初から入浴の機会を利用して接近したようであった。


 滞在先が皇女の私邸となることは、夜宴の終幕時に初めて知らされたことである。つまりは、カエレアの言葉が一段と信憑性を帯びたということになる。


 侍女の名はタルペイアといった。どうやら彼の親戚筋にあたるらしく、名家の娘が主筋の使用人となることは決して珍しいことではなかった。同様の習慣は王国でも頻繁に行われており、ホーリーデイ家もまた貴族の子女を迎えていた。


 その目的は主家への忠誠の証であり、また奉公を通じて関係性を深めることにある。しかし、一方で暗黙の了解として情報収集や諜報活動の役目も負っており、今回は後者の意味合いが強いようにも思われた。


「明朝、天人地姫はあなたを置いて旅立たれる御意向のようです」


 それは最も聞きたくない話であった。このに及んで、此処まで来て、また自分は置いていかれてしまうのか。しかし、果たしてそれは信ずるに値するものなのだろうか。


「疑念を持たれるのは当然です。しかし、私たちはあなたが帝国に留まることを望んではおりません」


 それこそ不可解な話であった。帝国が自分を留めておきたい理由は明らかである。自分を手元に置いておけば人質として、いや帝国こそがホーリーデイ家の在るべき場所として、王国から天人地姫を離反させられるやも知れないからだ。


 それは帝国の軍人、してや高位の武官である彼にとっては、願ってもないことの筈であった。天人地姫の無力化が叶えば、もはや帝国の大陸統一を阻むものはなくなる。しかし、そんな彼女の疑問にタルペイアは首を振った。


「現在の帝国の在り方を善しとしない者もいるのです。これ以上、私からは申し上げられませんが、あなたとは利害が一致する筈です」


 王国に諸侯の確執があるように、帝国にもまた複雑怪奇な事情があるのかも知れない。思い返してみれば、演習後の野宴でも皇帝と皇太子の間には穏やかならぬものがあった。今日の夜宴に参加していないこととも何か関係があるのだろうか。


 しかし、彼らの言葉を信じるか否かはまた別の話である。ミストリアが自分を帝国に置いていくなど、信じられない…いや、信じたくなかった。


「では、もしも天人地姫が先に旅立つようなことがあれば、その時は私たちをお頼りください。必ずや、お二人を引き合わせる力となることをお約束します」


 そこまで言われてしまっては信じずとも頷くより他なかった。元より斯様かような事態となれば頼れる者などいないのだ。是が非でもミストリアに追い付かねばならなかった。


 やがて、湯浴みの時間も終わり、彼女はタルペイアの用意した寝衣に着替えた。どうやら皇女の見立てらしく、上質な純白の絹布けんぷにより、透き通るほど清廉に仕立てられている。


 それは彼女の純潔をこの上なく顕してはいたが、比喩ではなく本当に透けていた。彼女は慌てて元の旅装束を探したが、既に洗浄のために回収された後であった。


 その後、二人は内部を巡回する兵士たちの目を掻い潜り、時には緊急用の隠し通路までをも利用しながら、ミストリアが眠る貴賓室へと戻ってきた。その理由は言わずもがな、彼女のあられもない姿にあった。


 全ては皇女の奸計かんけいに他ならぬが、彼女の全身は透き通るような…いや、透けた衣裳に包まれており、まるで戦場から戻ってきた夫を寝所で迎える若妻のようである。


 ようやく目的の場所へと到達したとき、タルペイアとの間には確かな連帯感が芽生え始めていた。彼女は束の間の相棒に別れを告げると、慎重に扉を開けて室内へと身を滑らせる。


 そして、こっそりと寝台に潜り込んだのだが、ミストリアにはしっかり見られていたようで、延々と説教をされる羽目になるのであった。

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