第二章 6-3


「私の望みは一つだけ。いま目の前にいるあなたが幸せになること…それだけは何があっても信じてほしい」


 穢れもちぎりもなき令嬢が、帝国の皇女の私邸を裸体に等しき姿で歩き回る。もはや不敬なのか誓約うけいなのか分からぬ事態を経て、レイネリアはミストリアから自身の甘さ、迂闊さを懇懇こんこんと諭されていた。


 自分が騙されやすい性格であることをこれ以上なく痛感した彼女は、黙ってその言葉を受け入れていたのだが、やがてミストリアも小言を言うことに疲れたのか、再び就寝の挨拶を告げて寝台へと戻っていった。


 しかし、そこで彼女はかねてよりの疑問を口にする。皇帝との御会見、カエレアたちの密告、訊きたいことは山ほどあったが、彼女の口から出た言葉は意外なものであった。


『ミストリアは私にどうしてほしいの』


 なぜ、もっと直接的な訊き方をしなかったのだろう。皇帝との間に何があったのか、本当に自分を帝国に置いていくつもりなのか。そうした方が確実な情報が得られる筈なのに――もっとも正直に答えてくれた場合ではあるが――、彼女もまた真実を知ることを恐れていたのかも知れない。


 それに対するミストリアの返答が先のものであった。彼女の幸せこそが望みであり、それを信じてほしいという願いであった。その言葉からは隠している何か、言いたくても言えない何かが窺えたが、同時に彼女を拒絶する意思が無いこともまた感じ取れた。


 それ以上、ミストリアは何も答えてはくれなかった。彼女を帝国に留める意向について、真実なのかも偽りなのかも分からなかった。しかし、ミストリアは信じてほしいと言った。そして、彼女もまたミストリアを信じたいと願った。


 結局、カエレアたちのことは話せず仕舞いであった。彼らの真意は依然として不明だが、もしもミストリアに自分を置いていく意思がないのであれば、それらは無用なことでもある。


 それにミストリアが独りで出立することが心配であれば、このまま眠らないで起きていれば良いのだ。そのように考えた彼女であったが、湯浴みで身体に染み付いた香草のかおりに誘われ、押し寄せる長旅の疲れに抗うことは叶わず、深い眠りへと落ちていった。


 その夜、彼女は夢を見た。それは王都で最後に見た幼い頃の夢ではなく、目前にはただ真白ましろの空間だけが広がっていた。そこは色彩も音声も失われていたが、どこか奇妙な懐かしさをも感じていた。


 四方も上下も全方位が白で埋め尽くされ、地面が存在しているのかも定かではない。果たして、自分が立っているのか、横たわっているのかも分からなかった。


 徐々に時間の感覚も希薄となる。もともと夢の中であるのだから、時間などあってないようなものではあるが、自分が何時いつから此処ここにいるのか、或いは何時いつまで其処そこにいるのかも分からなかった。


 次第にこれが夢ではない可能性を抱き、段々と恐怖の感情が芽生えてきた。本当に考えるべきことは、何時いつではなく何故なぜなのだ。しかし、そこでまた戸惑いを覚えた。自分はいったい何者だれなのだろう。


 私はホーリーデイ家の嫡子、天人てんじん地姫ちぎの友にして御幸ごこう陪従者ばいじゅうしゃ。それは認識できるのに、自己を確立させる固有概念…そこに続くべき名が出てこなかった。これ以上、此処に居てはいけないと理性が警告していた。早く此処から出なければ、戻ることが出来なくなってしまうかも知れない。


 しかし、一体どこに戻れば良いのだろう。私はどこから来て、どこに帰っていくのだろうか。何一つ分からぬまま、起きるでもなく、寝るでもなく、進むでもなく、止まるでもなく、時が経つのも分からずにただ無為に過ごしたとき、不意に前方から光明が射し込めてきた。


 その光によって初めて距離が知れた。距離が知れたことで、自分が進んでいたことに気付けた。その輝きは指標であり、目標であり、希望そのものであった。やがて、光体との距離が縮まりその正体が視えてきたとき、それが一人の人物であることに気が付いた。


 それはミストリアによく似ていた。そして姿を認識したことにより、自身がレイネリアであることを思い出す。やはりミストリアこそが自己を足らしめる存在であり、地上の星の輝きは何処いずこにあっても自分を導いてくれるのだ。


 そのことを何よりも喜んだ彼女が、次第にこれが夢であると知覚するに連れて、真白の空間は色彩と音声を取り戻していく。目覚めの時が近付いていることを感じた彼女は、最後にもう一度だけ光体に向けて目を凝らした。


 しかし、そこにいたのはミストリアではなく…よく似た別の誰かであった。

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