第一章 8-2


「どうやら集まってきたようです」


 窓際で警戒態勢を敷いていたオユミが端正な顔を歪めて声を漏らした。レイネリアも隣に並んで窓外そうがいを窺う。漏れ出る明かりと星の瞬きだけでは心許ないが、接近する二十ほどの人影を目視するには十分であった。


 集団の先頭にはイワナの父親を名乗る男の姿があった。しかし、それに伴われる村人の様子がどこかおかしい。いや、おかしいなどという生易しいものではなかった。


 血だらけの者がいた。腕がない者がいた。脚がない者がいた。肉がただれて骨が露出した者がいた。腹が裂けて臓物を引きる者がいた。いや、あれは本当に人なのだろうか。まるで伝承に語られる怪異、食屍鬼グール帰参者レブナントではないか。


「あ、あいつです! 昨夜、私が斬り伏せたのは!」


 兵士が寝台から半身を起こして叫んだ。指し示す先に視線を向けると、袈裟懸けさがけに斬り裂かれ、衣服を赤く染めた男の姿が見えた。しかし、男は何事もなかったかのように、千切れそうな半身を揺らしながら歩いている。


 オユミがおもむろに腰にいた剣を抜く。この場において戦力と呼べる者は彼しかいない。しかし、彼が如何なる達人であろうとも、あの集団を相手取れば兵士の二の舞となることは必定であった。


 村長も肩を震わせながら外の光景を眺めていたが、やがて見知った顔を発見したのか、手で顔を覆いながら嘆声たんせいを漏らした。それは行方不明となっていた隣村の住民たちであった。


 一方、イワナだけがいつもの無邪気さをたたえていたが、大人でさえも目を逸らしたくなるような光景であり、慌てて彼女が部屋の隅へと連れて行った。


 村人、或いは村人だった者たちは、何をするでもなく村の中央広場に集まっていた。彼らが自身の姿、境遇をどのように認識しているのかは定かではないが、今はその衝動の矛先が自分たちに向かないことを祈るばかりであった。


 しかし、その願いもむなしく、やがて集団の中から人の声とは思えぬような喚声かんせいが沸き上がった。そして、その内の数体が住居に向けて押し寄せてくると、血塗れの腕を振り上げて窓を激しく叩き付けた。


 たちま硝子ガラスは割れて破片が室内に飛散した。男たちが身の毛もよだつような恐ろしい形相を突き出してくる。窓枠の残骸が顔をえぐるが、まるで意に介してはいないようだ。


「す、すまなかった。儂だってこんなことになっているとは思わなんだ」


 窓から飛び出る顔に向かって村長が謝罪の言葉を口にする。恐らくは彼らが最後に犠牲になった荒くれ者たちなのだろう。この行動は村長に恨みを抱いてのものなのか、意思疎通が図れるのかは不明だが、どうやら記憶はまだ残っているようである。


 最初に動いたのはオユミであった。彼は並んだ顔触れを横一文字に斬り付けると、今度は脇を締めて追い返すように突き刺した。男たちはたまらず、窓の向こうへと引っ込んでいく。


 しかし、安心したのも束の間、今度は中央広場から地鳴りのような怒号が上がった。どうやら三人組に感化されて暴徒と化してしまったようだ。いや、正確には今のオユミの行動を集団への攻撃と受け取ったのだろう。


 ミストリアは、殺したのは村人ではないと言っていた。それは少女の父親という男も同様であった。彼らの行動原理は危害を加える者の隔離であり、その過程としての暴力なのだ。


 しかし、果たしてこの状況で生命の危険はないと断言できるだろうか。既に集団は暴走を始めており、今までどおりに済む保証など何処にもなかった。


「早く、部屋にあるものでこの窓を塞ぐのです!」


 窓から伸びる手を撃退しながらオユミがげきが飛ばす。その喊声かんせいに突き動かされるように、彼女たちは手分けして室内の家具を寄せ集めると、群がるものたちを押し返すようにして窓を塞いだ。


 これでしばらくは時間を稼げると思った瞬間、今度は玄関の方から破壊音が響いた。これはかつて人であった知性の名残なのか、それとも本能的なものだろうか。廊下を打ち鳴らす乱雑な足音が徐々に大きくなっていく。


 今度は部屋の扉を塞ぐ必要があった。しかし、家具の殆どが窓側に寄せられており、残るは兵士が横になっている寝台くらいだ。一瞬、皆が顔を見合わせたが、決断するよりも早くに扉が激しい音を立てて打ち破られた。


「あなたのことは必ず守ります」


 オユミは彼女に向けて軽やかに笑い掛けると、剣の切っ先を侵入者に向けて対峙した。兵士は未だ起き上がれず、村長は頭を抱えて隅に縮こまっている。そして、イワナは彼女の腰元にしがみ付いていた。せめて子どもだけでも守らなくてはならない。彼女がかがみ込んで少女を抱き締めると、少女もまた彼女を強く抱き締め返してきた。


 入口ではオユミが善戦していた。狭所の利点を活かし、突き出される手足を斬り付けると、時には動きが鈍ったそれらを蹴飛ばし、肉の壁にして侵入を阻んだ。彼女には武芸の巧拙こうせつはよく分からないが、彼がツキノア騎士団の指導的立場にいることは、決して血筋によるものだけではないことは理解できた。


 しかし、それも長くは続かないだろう。抗戦するほどに侵攻は激しくなり、素人目にも徐々に押され始めていることが分かる。本当は自分も隣に並んで戦うべきではあるのだが、うにその身体は自由を失っていた。


 先ほどから少女の締め付ける力が強い。幼子の力とはこれ程のものだったであろうか。背中と二の腕は鈍く軋み、一旦離れようとするも到底敵わない。加えて、肩先にはローブ越しに鋭利な圧力を感じていた。


「イワナちゃん、どうしたの?」


 少女に返事はなく、代わりに耳障りな咬合音こうごうおんが響いてくる。自分を締め付ける力は強まる一方だ。それが何を意味するのかは分かっていた。村人たちがこの惨状では、幼子だけが無事で済んだ筈もない。きっとミストリアは最初から気付いていたのだ。いや、自分もそうだったのかも知れない。


 それでも、この子を守りたいと思う気持ちは残っていた。これも貴族としての矜持なのか、それともサンデリカへの罪滅ぼしなのかは分からないが、少女を抱き締める腕に力と想いを込めていく。


「イワナちゃん、しっかりして。お姉ちゃんになるんでしょ?」


 少女が夢見た『お姉ちゃん』という存在、その言葉を口にした瞬間、彼女を束縛していた力が緩んだ。少女はだらりと腕を降ろすと、虚ろな表情を浮かべて彼女を見上げた。


「私、お姉ちゃんになりたかったの。でも、自分でもなぜなのか分からないの」


 少女の姿が変貌していく。ふわふわとした黒髪はつやを失い、張りのある頬は窪んで黒ずみ、可愛らしく着飾った服は薄汚れてほつれ、そして生命の躍動に満ちていた手足は裂けて骨が見え隠れしていた。


 自由を取り戻したにもかかわらず、彼女は全身から力が抜けていくのを感じていた。立っていることすらもままならず、この場に倒れ込んでしまいたくなる。ああ、このような現実があって良いのだろうか。このような世界を見たかったのだろうか。


 一体どんな理由があってこの子の未来を奪うのか。どんな理由があれば、この子の未来を奪うことが許されるのか。誰か教えてほしい。もしも、それが出来ないのなら、もう何も見せないでほしい。


 視界が歪む。思考が淀んでいく。自分の立ち位置が分からなくなり、世界から色彩と音声が失われていく。なぜ、私は此処ここにいるのだろう。いや、私は何処どこにいたのだろう。


 全ては最初から何も無かったかのように、真白ましろの空間が無限に拡がっていく。私という存在が彼方へと消えてしまいそうになる。いや、そうではない。私は始めから此処ここにいたのだ。そうだ、こんな世界なら、いっそ***なければ良かったのだ。


 もう外の世界がどうなっているのか分からなかった。オユミはまだ戦っているのか、イワナはどうなってしまうのか、村長や兵士も無事だろうか。そして、ミストリアは――


「お母さんになるためでしょ」


 不意に、音を失った世界に声が響いた。徐々に世界には色が付き、世の有様ありようを彩っていく。


「お母さんになって、綺麗になるの。綺麗になって、花のように咲き誇るの」


 オユミが支えるように彼女の肩を抱く。床には村人たちが倒れている。しかし、その姿は先ほどまでの食屍鬼グール帰参者レブナントではなく、ただの人のように見えた。


「そうでしょ、


 聖光を纏いながら神に連なる巫女が姿を現す。その口から紡がれる言葉は、荘厳で気高く、崇高で貴く、そしてどこまでも慈悲深かった。幼子は満面の笑みを浮かべると、最後にもう一度彼女を見上げ、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る