第一章 1-3
「良かった、まだ居てくれたみたい」
先の発見から
二人は荷馬車に近寄ると、
そこには野菜や穀物に加え、保存食や香辛料などが
男はそれを受け取ると、改めて二人を舐めるように見回し、他にも何か入り用はないかと訊ねてきた。その視線に微かな戸惑いを抱いた彼女であったが、背に腹は変えられず、ローブの前留めを外して
本来は長旅に備え、もっと大きな肩掛け鞄に生活用品をまとめていたのだが、残念ながらそれは自室に置かれたままである。現在は急いで身に着けた旅装束、そして
中身を確認すると、手鏡、飾り櫛、
なお、ミストリアに至っては鞄すらなく、枯飯や金銭もローブの袂に潜ませているだけだ。しかし、大抵のことは魔法でどうにでもなるため、特に不便は感じていないようである。屋敷で生活していたときには、そのだらしのない生活習慣に辟易していた彼女であったが、むしろ今ではこの上なく頼もしく感じられていた。
彼女は悩み抜いた末、金属製の丸鍋1点、
注文した品々は収納性を重視した造りとなっており、3点を重ねて一つの革袋に収め、
「で、あんたらはそのまま歩いてくのかい」
目的の品を手に入れて旅を再開しようとした二人に対し、男は先ほどまでの気怠げな姿勢を引っ込め、些か真剣みを帯びた表情で問い掛けてきた。二人が纏うローブの効果は直に接したことで薄れており、また彼女に至っては一時的に外した姿を晒しているため、
ここはツキノア家の領内であるが、
返答に詰まる彼女に向けて、男は商隊の目的地が領都であることを告げると、荷馬車に便乗しないかと提案してきた。無論、彼らは商人であるため、それに見合った対価も必要となるのだが。
しかし、二人は丁重に固辞してその場を後にした。男の言動からは特に
出発こそ先であった二人だが、直ぐに休憩を終えた男たちの隊列に追い抜かれた。街道の先からは僅かに手を上げる男の姿が見える。彼女が手を振り返すと、隊列は見る見るうちに小さくなり、やがて地平線の彼方へと消えていった。
商隊と別れた後、二人は再び街道を歩み続けていたが、恒星が西の大地に沈むのを見送ると、いよいよ今夜の宿を決める必要に迫られた。
しかし、演習地で宿営した
幸いにして、食糧は先ほど調達することが出来た。水についてもミストリアの魔法で無尽蔵に生み出せる。しかし、夜間の冷え込みはローブだけでは頼りなく、また平原には獰猛な魔物も生息しているため、夜通し火を絶やさずにいる必要があるだろう。
まるで水面が波打つように空間が歪んだかと思うと、ミストリアの手が吸い込まれていく。その光景に動揺を隠せない彼女であったが、やがて全身までもが消えていこうとしたため、慌ててローブの裾を掴むべく手を伸ばした。
彼女の手が歪曲する空間を越えた瞬間、肘から先が鋭利な刃物に切断されたかのように消えてしまう。しかし、まるで痛みは感じられず、視えずともそこに確かに存在するという感触があった。
辿り着いた先にはミストリアの姿があった。再び視認された手は固く握られており、どうやら中に引っ張られたらしい。周囲を見回すと依然としてそこは枯野であったが、なぜか壁一枚、いや泡一枚隔てられているようで、外の風景が湾曲して映し出されていた。
「もう、いつまで外にいるのよ」
ほんのりと唇を尖らせながら、ミストリアは掴んだ手を乱暴に離した。その瞬間、土の上とは異なる感触に足が跳ね、空中に浮き上がるような錯覚に陥った。思わず目を丸くする彼女に対し、ミストリアは
「ああ、この魔法は初めてだったかしら」
『
魔力で作られた水泡により、外部と隔絶された空間を作り出す魔法である。強度はいつぞやの泡人形と同程度であり、また外観は裏側が透過して映し出されるため、耐久性だけでなく秘匿性にも優れている。
泡には外気を遮断する効果もあるようで、内部の気温は一定に保たれていた。しかも地面は柔らかく弾力性に富んでおり、これなら寝台も必要なさそうである。本来の用途は術者個人の身を隠すためのものらしいが、これが野営のための魔法と言われても誰も疑問を抱かないだろう。
「じゃあ、今日の分を済ませておくわね」
感心仕切りの彼女に向けてミストリアが手を
頭頂から脚の爪先まで全身が泡の中にあった。しかし、息苦しさは微塵も感じられず、水流が無数の小泡とともに彼女の身体を隅々まで撫で回す。
「んんっ…ん……ふぅ……」
それは旅装束に下着、更には内側にまで及び、全身を愛撫されるような感触に思わず
『
全身を洗浄する水属性の魔法である。直接戦闘においては使用する機会は皆無だが、旅路や従軍時の嗜みとして、貴人に仕える魔術師には必須の魔法である。
なお、ミストリアのものには改良が加えられており、着衣のまま行使することで衣装の洗浄をも賄い、更には軽傷程度なら治癒してしまう効果すらあった。当初はあまりの粗雑さに苦笑した彼女であったが、今やこの魔法の存在が旅の要といっても過言ではなかった。
ミストリアの魔法は戦闘のみならず、生活全般に広く
「もしかして、鍋も
商隊の男から購入した際、ミストリアが食糧の他には何も望まなかったことが気に掛かっていたのだが、
ミストリアは最初から万全の状態でこの旅に望んでいたのだ。それに引き換え、世俗に
『
通常は相手に火球を放つ攻性魔法であるが、神業ともいえる制御技術により、それは地面の直上に浮遊した状態で固定されていた。そして、丸鍋に水と
その光景を呆然としながら眺めていた彼女であったが、不意に引き継ぐように鍋の
二人は黙したまま
食し終える頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。そのまま寄り添うように仰向けになると、天上の彼方には満天の星空が瞬いていた。幼少期、幾度となく二人で見上げたその輝きは、今も変わらずそこに在り続けてくれていた。
この時間がいつまでも続いてほしいと、隣に横たわるミストリアの確かな息遣いを感じながら、彼女はそっと瞳を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます