Weather －レイニーデイ－

第一章 ２－１

－２－

「あわゎっ、ミスティ、こっちこっち！」

　荒涼たる大地にレイネリアの慌てふためく叫声（きょうせい）が響く。彼女の眼前に迫るのは獰猛な魔物、恐狼（テラーウルフ）であった。

　それは鋭利な爪牙を持ち、凄まじい咬合力（こうごうりょく）は樹幹（じゅかん）すらも食い千切るという。しかし、真に警戒すべきは唾液に含まれる毒素であり、直ぐに処置をせねば患部が壊死し、やがて死に至ると恐れられていた。

　彼女は必死になって逃げ惑うが、獣の俊敏さには抗えず、追い付かれるのは時間の問題である。四脚が駆る体躯は躍動感に満ちており、獲物を狙う瞳は無慈悲であるが故にどこか純粋さを宿していた。

　しかし、次にその瞳が映し出したのは、今まで自身の全てであった世界の別側面であった。そこには獲物とは異にする者が立っており、周囲を無数の仲間たちの死骸が埋め尽くしていた。皆一様に頭から胴体までを唐竹割に斬り裂かれており、溢れ出る血と臓物が大地を赤く染め上げている。

　ミストリアは自らが囮となり群れを惹き付けていたのだが、中には逸れてしまった個体もいたようだ。或いは最初から一匹狼だったのか、そこには人には知れぬ獣たちの世界があったのかも知れないが、今となってはどちらも変わらぬことであった。

「いいわ、そのまま走って来て」

　ミストリアはそれだけを告げると、一心不乱に走り続ける彼女の後方に手を翳（かざ）した。本来は巻き込まないように擦（す）れ違う瞬間が望ましいが、その心配は杞憂であろう。次の瞬間、彼女を付け狙っていた追跡者は、地面に転がる仲間たちと同様に斬り裂かれて絶命した。

『鎌柄太刀（ウィンド・ブレード）』

　風属性の魔法による斬撃である。攻性魔法の中では初歩的な部類に属するが、術者次第では達人の一刀にも匹敵するという。また、射出ではなく、特定の空間を斬り裂く点においても実剣（じっけん）と近似していた。

　これで恐狼の群れを全て退治できただろう。周囲に散乱し、腐臭を放ち始めた数多の骸に対し、全く心が傷まない筈もないが、財産である家畜を襲われ、生命すらも危険に晒された村人たちを前にして、どちらを優先すべきかは考えるまでもなかった。

　ツキノア領に入ってから一週間余り、二人は漸（ようや）く領都ヘグリの近郊まで来ていた。途中、何度か商隊や村人から食糧を調達していたが、いよいよその必要もなくなろうかとしていたとき、四鏡水鏡（ミラー・ロード）が恐狼に襲われている村を発見した。

　そのときは斥候だったのか、二人が駆け付けたときには既に魔物の姿は消えていたが、数頭の家畜が噛まれてしまっていた。恐狼は口内に強力な毒を持つため、襲われた家畜は衰弱して死んでしまい、また毒素は全身に回ることから食用とすることも出来なかった。

　しかし、何よりも危惧すべきことは、これは単なる強行偵察であり、次には群れを成して根こそぎ殺戮しに来るという恐るべき習性にあった。一時的に避難することは出来ても、家畜の全てを連れ出すには時間が足りず、途方に暮れた様子の村人たちを見て、二人は群れの討伐を志願したのであった。

　最初は訝（いぶか）しんで相手にしなかった村人たちも、ミストリアの清浄無垢（バース・バイ・バス）によって毒素を抜かれて元気に走り回る家畜を見て、掌を返すように懇願してきた。

　その晩は村長の家に泊まり、新鮮な肉や野菜、乳製品などを用いた御馳走と、久方ぶりの暖かく柔らかな寝具に感激した二人は、恩返しとばかりに改めて恐狼退治を決意した。しかし、問題は如何にして群れを惹き付けるかということであった。

　当初は家畜を一箇所に集め、防衛陣地からの撃退を考えていたのだが、家畜がなかなか言うことを聞かず、また魔物を前にして恐慌状態に陥る危険もあった。そこで敢えて討って出ることで、魔物の群れの前に自らを晒し、村に接近させることなく決着を付けることにした。

　これも全ては四鏡水鏡（ミラー・ロード）ありきの作戦ではあったが、思惑どおり不幸な旅人を装ったミストリアに恐狼の群れは襲い掛かり、過ちに気付く間もなく殲滅されたのであった。

　討伐が完了し、遺された惨憺（さんたん）たる光景を前に彼女は表情を曇らせたが、不安に駆られる村人たちのことを思い出し、自身の選択による結末を受け入れ、二度と躍動することのない生命の残骸を悼（いた）んだ。

　二人は村人たちの助力を得て死骸を大地に埋葬した。恐狼の毒は口内の微小生物によるもので、筋肉には含まれていないとされていたが、流石（さすが）に口にしようとする者はいなかった。

　村人の中には恐狼に強い憎しみを抱き、その亡骸を辱めようとする者もいたが、彼女がそれを強く戒めると、渋々といった表情で穴を掘る作業に戻っていった。

　埋葬には子どもたちも手伝い、襲撃後の怯えきった表情と違って、時折笑顔が見られたことが救いだった。しかし、果たしてこの笑顔をこれからも守り続けることは出来るのだろうか。

　今回は偶々（たまたま）ミストリアが気付いたが、少しでも巡り合わせが悪ければ村は全滅するか、方方（ほうぼう）に離散していたに違いない。領都の近郊でありながら魔物の群れが村を襲い、領地と領民を守る筈の騎士団も姿を見せず、本当にツキノア家による治世が正しく行われているのか疑問であった。

　無論、時があれば村長が領主に願い出て、騎士団が派遣されていたのかも知れない。しかし、先の宴席での一件により、ツキノア家に良い印象を抱いていなかった彼女にとって、決して今回だけが異例なこととは思えなかった。

　それが余計に彼女の意識を過敏にさせたのだろう。やがて埋葬が終わり、村人たちから多数の礼品を差し出され、受け取りに難儀（なんぎ）していた彼女の耳に、その言葉は強くはっきりと残り続けた。

『あの村のようにならなくて良かった』