第一章 1-1


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「これ、結構美味しいかも」


 昼下がりの街道を歩きながら、口に含んでいたものを飲み込んだレイネリアが感嘆の声を漏らした。その好意的な反応に、隣を歩くミストリアの表情もどこか満足そうである。


 彼女がしょくしているものは枯飯かれいいといい、ヌーナ大陸に広く分布するイネと呼ばれる植物に水を加えて熱し、よく乾燥させて保存食としたものである。本来は一度水で戻してから、他の食材と共に炒めたり、煮込んで汁物にしたりすることが多いのだが、こうして直接食べるという用法もあった。


「貴族の御令嬢の口にも合うようで安心したわ」


 ミストリアは意地悪そうに笑うと、自身も同様に乾燥した塊を口にする。彼女はそれを横目にしながら、手に摘んだ残りを口に放ると、前方に遥か伸びる街道を遠望して目を細めた。


 二人が王都オハリダを旅立ってから既に二週間が経過していた。大陸を縦断する大動脈となる道筋は、王都から帝国との国境までをケイ街道と呼ばれており、馬車であれば二日、壮健な男子ならば二週間で到達できるとされていた。しかし、流石さすがに女人の足ではそれは叶わず、未だ道半ばといったところである。


 御幸ごこうが難行とされる理由の一つは、その道程が全て徒行によることである。移動だけが目的であれば、王国の威信にかけてりすぐりの駿馬良馬しゅんめりょうばが用意されたことだろうが、天人てんじん地姫ちぎが自ら踏破することもまた儀式の一環であり、陪従者もそれにならうより他なかった。


 天人地姫の御幸は救世済民きゅうせいさいみんの旅でもあり、人々の営みをあまねくその瞳に映し、また困苦する者には救いの手を差し伸べるべく、時間を掛けて歩む必要があった。彼女もまたこの二週間の旅路でそれを身に沁みて理解していた。


 旅の始まりが意図せず急であったため、彼女の旅支度は十分なものではなく、また母親に渡された路銀も部屋に置いてきてしまっていた。当初、彼女に用意された路銀は正金貨しょうきんかで百枚にも上り、それは平民の生涯年収を上回るものであった。


 幸いにして、ミストリアには持ち合わせがあったため、贅沢をしなければ特段の支障はなさそうである。これまでは王都の近郊であったことから、街道沿いには駅家えきかとともに宿場町が発達し、寝床や食事に苦労することもなかった。


 しかしながら、先の路銀は賢明なホーリーデイ家の当主にしては不可解なものであり、もしもそのような財産を持ち合わせていることが知られたら、たちまち盗賊や悪徳商人が列を成して群がってきたことだろう。


 王都にほど近い宿場町であっても…いや、その王都でさえも、薄暗い路地裏を覗いてみれば、生活に困窮する浮浪者、故に悪事に手を染める者、そしてそれらを牛耳る裏社会の陰影いんえいがあった。


 王都の華やかな部分に身を置き、王国有数の貴族として箱入りのように育てられてきた彼女にとって、それは知識では理解していても、現実に観るのとでは大きな隔たりがあった。


 本来、王国民には肉親や近隣者による相互扶助が定められ、そこから零れ落ちた無告むこく窮民きゅうみんのために、義舎ぎしゃと呼ばれる養護施設が設けられている。しかし、それらが機能しているのは都市部に留まり、王都から離れるに連れてその格差は顕著となっていた。


 彼女は立ち寄った宿場町で、まだ年端も行かぬ子どもたちが、痩せ細った身体をにして働いている姿を見た。そして、怪我や病気、或いは老いによって働けなくなった者たちが、道端で旅人に施しを求め、それを快く思わない店主たちから追い払われる光景も見てきた。


 もしも、あの莫大な路銀があったならば何かが変わったのか。いや、一時的な施しだけでは、本当の意味で人を救うことなど出来はしないだろう。国を挙げて救済の仕組みを機能させ、困窮する者に生活の糧を与えなければ、人は自らに依って生きてはいけなくなる。しかし、今ここにいる彼らには、明日ではなく今日の救済が必要なのではないか。


 不意にミストリアのことが気に掛かった。神に等しき存在として崇められ、世に繁栄と安寧をもたらすと讃えられても、全ての人を救うことなど到底出来はしないだろう。彼らはミストリアが天人地姫であることを知らない。もしもそれを知ったら、こぞって救いを求めにくるだろう。


 御幸が秘匿され、天人地姫であることを隠しているのは、救いを求める人々を避けるためなのか。それは必要なことかも知れないが、とても悲しいことだと彼女は思った。しかし、彼女はまだ理解していなかった。天人地姫が想像を遥かに超える存在であることに、ずっとそばにいた彼女ですらも捉えきれてはいなかったのだ。


 初めての宿場町の夜、彼女の懊悩おうのうを察していたかのように、とばりが下りて星が瞬く寒空の下、ミストリアは天高く両手を掲げて祈りを捧げた。


鄒衍降霜コール・オブ・マーン


 最初、それが何かを理解できなかった。月明かりに照らされて空から舞い降りたのは雪…いや、しものようであった。それは手に取ると綿のように軽く、そして口に含むとほんのり甘く、不思議と体内に活力がみなぎってくるようであった。


 ミストリアは呆けるように眺めていた浮浪者に、これを食すように告げた。また、早急に他の者たちにも伝え、皆が口にするようにとも言付ことづけた。


 翌朝、人々は白銀の世界となった宿場町に驚きの声を上げた。やがて、それらは溶けるように消えてしまったが、何故かいつも疎んでいた浮浪者たちがいなくなっていた。


 店主たちにとっては好都合であったため、特に気に掛けることもなかったが、低賃金で酷使していた孤児たちが妙にたくましくなり、何かと反抗するようになったことには手を焼いた。


 それからしばらくして、隣の宿場町で浮浪者とよく似た人工にんくを見掛けた。しかし、彼らが働けないことを知っていたため、それは別人であると結論付けた。後に聞いた話では、その街にも白銀の世界となった朝があったという。


 王都から帝国に向かう道中の宿場町で、その霜のようなものは北上しながら降り続けた。やがて、それらが天人地姫の奇跡であったことを人々が知ったのは、二人がツキノア領に入ってからのことである。

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