プロローグ 4-5(終)


 は未だ昇らず、街道は薄暗いままであったが、幸いしばらくは一本道であるため、道に迷うことはなかった。問題はミストリアがこの先にいるか否かである。


 既にもう追い付けない程に離されてしまったかも知れない。そもそも街道を通らない可能性だってある。或いは、実はまだ屋敷の中にいて、先走った自分が帰ってくるのを呆れた顔をして待っていることも考えられる。しかし、そんな甘い幻想をかなぐり捨ててレイネリアは只管ひたすらに走った。


 冷たい空気に息は切れ、身体中の筋肉が悲鳴をあげたが、街道の先にミストリアが見えるまで、彼女は止まるつもりはなかった。きつい、辛い、苦しい、しかし高揚感がそれを打ち消してくれる…などということもなかった。


 今だってきつい、今だって辛い、今だって苦しい。でも、これは今にしかないものだ。あともう少しで、それすらも出来なくなる。きついことはただきつく、辛いことはただ辛く、苦しいことはただ苦しく、そんな現実がすぐ背後まで迫ってきている。


 だから彼女は走り続けた。希望はこの先にしかない。それはもう無くなっているのかも知れないけれど、立ち止まれば本当に確定してしまう。現実逃避と言われようとも、その現実が自分を追い越してしまうまで、どこまでだって走り続けてやる。


 しかし、やがて彼女の身体は、その精神が肉体を凌駕しようとも、緩やかにその動きを止めようとしていた。それは限界の訪れを示唆していたが、僅かに早く東の空が白み始め、周囲が明るさを取り戻したとき、街道の先を往く黒い人影をその目に映した。


「ミスティーー!!」


 痛んだ肺を酷使して力の限り叫んだ。普段は貴族のたしなみ程度にしか鍛えていなかった身体は、ここまで自分でも驚くほどに応えてくれたが、あともう少しだけ力を貸してほしい…そう、彼女は願った。


 距離が近付くにつれ、次第にその輪郭がはっきりとしてきたとき、黒い影は見覚えのある漆黒のローブに変わり、振り絞った叫び声に振り向いたフードからは、見慣れた金糸の髪と翡翠の瞳が覗いていた。


「ミスティ…」


 それは確かにミストリアであった。湧き上がる不安を振り払いながら、か細い可能性に賭けてここまで来たが、どうやら間違いではなかったようだ。彼女は安堵の息を漏らしたが、それに対するミストリアの視線は、今までに見せたことのないような厳しいものであった。


「レイニー、なぜ来たの?」


 それは明らかな拒絶であった。しかし、ここまで来て今さら怯む彼女ではなかった。ミストリアと対峙しながら、彼女はかつて母から聞かされた言葉を思い出した。御幸の陪従、旅の同行、自分たちが全力で想いをぶつければ、天人地姫もまた必ずそれに応えてくれるのだと。


「私はあなたに付いて行きたい。あなたと一緒に旅がしたい」


 それは自分に出来る精一杯の言葉の筈だった。しかし、無情にもミストリアは首を振り、その申し出を拒否した。彼女は少しだけ母に文句を言いたくなったが、もはや言葉だけでどうにか出来るものではないことも悟っていた。


「この旅はレイニーには無理よ。あなたを危険な目に遭わせたくないの。どうして分かってくれないのよ」


 ミストリアが苛ついた様子で目を逸らす。それは自分の思い通りにならないことへの憤り以上に、深く悲しんでいることが彼女には分かった。本当はこんなことを言いたくはないのだ。だから幸せな思い出を残したまま、黙って出ていこうとしたのだ。


 ミストリアは何も悪くない、悪いのは自分だ。自分にもし武芸や魔法の才があれば、いや才がなくとも日々鍛練をしていれば、少なくともミストリアを心配させることもなく、一緒に旅に出ることが出来たのかも知れない。


 歴代のホーリーデイ家の嫡子たちが、どのようにして天人地姫を説き伏せてきたのかは定かではないが、ある者は力で、またある者は智慧ちえで、たとえその旅が短命に終わろうとも、納得がいくまで共に歩むことが出来たのだろう。


 しかし、自分にはそれが出来ない。自分にはミストリアに示せる力がない。あのときミストリアは、自分の本当の力に気付いてほしいと言った。それが何なのかは分からないが、もうそんなあやふやな希望にすがるのはやめよう。


 武力がないなら、魔法がないなら、智慧ちえがないなら、せめて気持ちだけは高く持とう。足りない自分を認め、至らぬ自分を悔い、それでもなお、自分の全力をぶつけよう。


「私には無理と言ったわね。じゃあ、もしも不可能なことを可能にしたら私を認めてくれる?」


 ミストリアは彼女の言葉の真意を図り兼ねているようだった。言葉通りの意味であれば、何か不可能と思われることを可能にして見せることで、旅の同行もまた不可能ではないと証明しようというようである。論理的には破綻していたが、ミストリアは無言で続きを促した。


「今から私がミスティの障壁を打ち破って、全力の一撃を加えてあげるわ」


 彼女はミストリアを見据えたまま、胸を張って攻撃の意思を示した。その言葉にミストリアは一瞬だけ、いやそれよりも僅かの刹那、表情を醜く歪ませた。


 それは周囲には知覚できないもので、当然のことながら彼女もそれに気付いてはいなかったが、今までの拒絶とは全く異質の、言葉にするのもはばかられるものであり、まさか自分がそのような感情を向けられているとは、彼女は夢にも思わないだろう。


「…良いわ、もし本当にそんなことが出来たならね」


 事実、それはなかったものとして、ミストリアからは承諾の返答があった。にもかくにも、決着は彼女の手に委ねられた。しかし、それはあまりにも無謀な勝負であった。


 無数の矢を弾く未投射、攻性魔法を無効化する不干渉、そして国を背負う武人の斬撃すらも止める非接触の障壁、それを非力な彼女がいかにして打ち破ろうというのだろうか。


 確かに最近は接触があったが、それは例外的にミストリアの意思で触れたことによるものだ。しかし、もうミストリアはそれを望まない。彼女のことを真に大切に思うからこそ、もう触れることが出来ないのだ。


 彼女はゆっくりとした歩みでミストリアに近付いた。最早ここまでの道中で体力を使い果たしている。それどころか、下手をすれば筋を痛めて治療が必要かも知れない。そんな彼女に一体何が出来るのか、このに及んでまだ情にでも訴えようというのか。


 彼女はミストリアのすぐそばまでやって来た。もうあとほんの少しで非接触の障壁が作用し、先に進むことを阻むだろう。その距離こそが彼女とミストリアの、僅かにして永遠の溝となる。それはこの先も存在し続け、また次代でも同じ葛藤を生むのだろう。


 無理なことは無理だ。出来ないことは出来ない。成長とはそれを知り、自分と世界に折り合いを付けることだ。しかし、彼女は両手を構えるように斜め前方に振り上げると、ミストリアに向かって飛び込んだ。


 障壁はミストリアを守る壁だ。


 好奇、羨望、嫉妬、敵視…そんな悪意の感情から守るための未投射の障壁。


 恫喝、強制、拘束、支配…そんな精神の束縛から守るための不干渉の障壁。


 そして、危害、肉欲、衝動、殺意…そんな肉体の危機から守るための非接触の障壁。


 それらはミストリアを守るため、人ならざる身で人の世に生きることをいられた少女が、他者からその心を傷付けられないように施した自己愛の壁だ。


 しかし、彼女は障壁の仕組みをほぼ理解していた。障壁が作用しない条件、それはミストリアが自ら触れた場合だけではなかった。かつて幼少期の自分にはなかったように、そして昨夜の自室での出来事のように、障壁は真にミストリアを想い、その心を傷付けようとしないものには作用しない筈だ。


 後にミストリアの語ったところによると、正確には害意に反応するものらしい。故に敵意はもちろんのこと、たとえ友好的な素振りを見せていても、その裏に欲望があれば害意として扱われる。そして、それは弓矢や魔法など、主の手を離れたものにも思念として残留するのだという。


 一方で、全くの意思なき行為、或いは自然現象などには作用しない。これは術者の最低限の生命活動を維持するための措置であり、それらが脅威として障害となった際には、一般の魔術師のように任意の障壁を展開して対応することになる。


 しかし、完全に欲望を抱かずに接するなど、自我を持つ者には不可能に近いことだ。無邪気な幼児ならいざ知らず、人は成長するにつれて欲望が育まれ、むしろそれが生きる活力ともなるため、一概に悪とは断罪できないものでもある。


 現にミストリアにとって、他人との接触は障壁の作用と同義であり、逆に作用しないときは誰よりも自身が驚いてしまうのだという。


 だからこそ、今までは彼女であっても障壁は作用した。彼女を以ってしても、自己の欲望を抑えてミストリアと接することは出来なかったのだ。してや、一緒に旅がしたい、宿命を受け入れたくないという欲望のもとで、全力の一撃という危害を加えると宣言したのだから、障壁が作用しない筈はなかった。


 しかし、結論から言うと障壁は作用しなかった。彼女は何の抵抗も受けずにミストリアに肉薄すると、振り上げた両手を下ろし、そのまま背中に回して抱き締めた。そして、今度こそ全力でぶつかった。


「私はあなたが好き。ミスティ、あなたのことが好きなの。だから私を置いてかないで、あなたと一緒にいさせて……」


 それは害意ではなく愛であった。そして、それが欲望からではなく、いや仮にそうであったとしても、ミストリアの心を傷つけはしないことを皮肉にも障壁自身が証明していた。


 宿命ゆえに愛されることを知らず、また愛することも知らず、自己愛で自分を守ることしか出来なかった少女は、強固に守り続けた心の壁を越えられ、その弱い内側にまで飛び込まれてしまった今、最早これ以上抵抗するすべは、いやその意思はないようであった。


「もしも、あなたがホーリーデイ家を出て、私が天人地姫であることをやめたら…」


 不意にミストリアから発せられた言葉は、しかしその先が告げられることはなく、しばし二人は抱き合ったまま街道に立ち尽くしていた。やがて、ミストリアは観念したように彼女の耳元で囁いた。


「レイニーには負けたわ。こんな強烈な一撃をもらったら、あなたを認めない訳にはいかないじゃない」


 それはいま初めて、本当の意味でミストリアに認められたのだと彼女は感じた。そして、期待に満ちた表情でその先を待つ彼女に、ミストリアは仄かに笑みを浮かべながら一番言って欲しかった言葉を口にする。


「レイニー、私と一緒に来てほしい」


 本当に欲しかったものは許しではなく、求めだった。自分がミストリアを求めるように、ミストリアにも自分を求めて欲しかったのだ。もう、恐れるものなど何もない。旅はまだ始まってすらいないけれど、ミストリアと一緒ならどんな困難も必ず乗り越えられる…そう、彼女は強く信じた。


 やがて東の空に恒星が昇ると、温かい陽の光が二人を優しく照らし出した。王都の北、帝国と教国を越えて、遥か彼方の降臨の地へと至る道程は、光を浴びて燦々さんさんと輝いているように見えた。それはこの先にどこまでも果てしなく続く、二人の過酷な運命の始まりを祝福しているようにも思えた。


 これは、今はまだ何者でもない少女レイネリア=レイ=ホーリーデイと、伝説を生きる神々の忘れ形見ミストリア=シン=ジェイドロザリーが、秘匿された世界の果てに至るまでの物語である。

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