プロローグ 4-4


 不意に寒気を感じてレイネリアは目を覚ました。先ほどまで懐かしい夢とそれに対する強い違和感を覚えた記憶があるが、次第に意識が明確になるにつれて忘れてしまった。


 窓を見ると未だ外は暗く、どうやら朝までには時間があるようだ。もう一度寝ようと身体の向きを変えたとき、自分が寝台の上に一人でいることに気が付いた。


 いや、寝台なのだから一人でいるのは当然だ。確かにいずれは誰かと一夜を共にする日も来るのだろう。しかし、それはまだもう少しだけ先の筈である。そんな益体やくたいもない思考を高速で追い抜き、彼女は廊下へと飛び出した。


 そのまま真っ直ぐミストリアの部屋へと向かう。灯りの落とされた廊下は薄暗く、ひんやりと冷気が漂っていたが、そんなことは意に介さずに先を急ぐ。やがて部屋の前まで辿り着くと、扉を叩くのももどかしく取っ手を掴んだ。


 それは何の抵抗も示さず、拍子抜けするほどあっさりと開いた。屋敷の中であっても就寝時は鍵を掛けるように戒められていたが、それを咎めるべき相手は既にいなかった。


 室内の家具に特段の変化はなかったが、ミストリアの私物がなくなっていた。元より出立に備えて整理されていたのだが、いつも外出時に纏っていた漆黒のローブもどこにも見当たらない。


 もはや疑う余地はなかった。彼女は急いで自室に戻ると手早く着替えを済ませ、取るものも取らずに階段を駆け下りた。まだ大広間には家族や使用人の姿は見えなかったが、構わず玄関の扉を開けて庭園を抜けると、屋敷の外門から王都の大通りへと飛び出した。


 そのまま只管ひたすら北に向かって走る。ミストリアは必ず北門を通る筈だ。周囲はまだ薄暗く、門は開いていない筈だから、今ならまだ間に合うかも知れない。外気から、そして内部から漂う悪寒に身を震わせながら、彼女は懸命に北門を目指した。


 やがて、大門が観えるところまでやって来たとき、未だそれが閉められたままであることを確認し、安堵の息を漏らす。しかし次の瞬間、彼女は恐ろしい想像をしてしまった。


 ミストリアは朝の開門を待たず、もうその先へと行っているのではないか。ミストリアの魔法を以ってすれば、空を飛ぶなり壁をすり抜けるなり、或いは幻で門番に開けさせるなり容易に出来る筈だ。


 とにかく、まずは門番に確認しなければならない。ここでミストリアを見なかったか、或いは王国の要人などに頼まれて例外的に開けた事実はないか。いや、ミストリア自身が最重の要人なのだから、魔法を使うまでもないのかも知れない。そして門のすぐ傍までやって来た彼女は、そこで警備をする兵士に声を掛けようとした。


「あれ、レイニーじゃないか。こんな時間にどうしたの?」


 思いがけず逆に声を掛けられてしまい、驚きながらも相手の顔をよく見れば、それはあのオヒトであった。彼は部下とおぼしき兵士に何かを伝えると、いつもの少年のような笑顔を向けてこちらへとやって来た。


 どうやら話を聞くには、あの軍事演習以降、騎士団を離れてメイラ将軍のもとで鍛錬しているらしい。騎士団の部隊長から門番の隊長とはお世辞にも栄転とは思えなかったが、今はただ彼がここに居てくれたことに感謝した。


 しかし、肝心のミストリアについては心当たりがないそうで、念のため詰所の兵士にも確認してもらったが、誰も姿を見ていないという。彼のことだから、ミストリアに頼まれたら二つ返事で開門してしまうだろうが、逆に隠そうともしない筈なので嘘を付いているようにも思えなかった。


 彼は門番の職務の都合で、昨夜の祝宴に参列できなかったことを詫びてきたが、ミストリアの白無垢を見られなかったことには、まだ気付いてはいないのだろう。しかし、今はそんなことよりもミストリアが何らかの方法で門を越えた可能性を論じるべきである。


「そうだね、ミストリア様に掛かればこんな門は無意味だよ」


 彼女の抱いた疑問に対し、彼は門番に有るまじき発言で賛意を示した。りとて、開門は日が昇ってからと王国の法で定められており、このまま朝になるのを待っていたら追い付くことは不可能だろう。


 天人地姫の御幸は救世済民きゅうせいさいみんの旅でもあり、何処其処どこそこの村が奇蹟により救われたなど、その軌跡が人づてに伝わってくることはあれど、一度その姿を見失ってしまえば再会することは困難であった。


「お願いオヒト、この門を開けて」


 彼女は懇願した。それがどれほど彼の負担となり、その微妙な立場を危うくするのかも分かってはいたが、今はすがるより他にすべはなかった。しかし、彼は迷うことなく首を振り、その申し出は拒否されてしまう。万策尽きて項垂うなだれる彼女であったが、続く彼の言葉は意外なものであった。


「レイニー、誤解しないでほしい。僕は職務だから門を開けないんじゃない。それがミストリア様の御意志だと思うから開けられないんだ」


 彼女は驚いた表情で彼を見上げた。先ほど彼は心当たりがないと言った筈だが、それはどういう意味なのか。堪らず詰め寄る彼女に、彼はも当然のことのように答えた。


「もしもミストリア様が陪従を認めたのであれば、レイニーに黙って出御しゅつぎょあそばされる筈がないだろう」


 その通りであった。いや、本当は自分でも気付いていたのだ。今のこの状況は、ミストリアが自分を拒絶したということだ。大切な人は…大好きな人は、自分を置いて行ってしまったのだ。


 それを認めたくなくてここまで来たけれど、自分はもうミストリアに会うことは出来ない。ホーリーデイ家の女としての宿命を変えることも出来ない。ただ昨宵さくしょうの寝台の温もりだけが、自分が恋い焦がれた想いの残滓ざんしなのだ。


 しかし、しかしだ、そうであるならば今の自分は何だ。自分はなぜここにいる…いや、なぜここに来ることが出来たのか。いつもの自分であれば、今頃はまだ寝台の上で寝息を立てていた筈ではないか。


 今ここに自分がいることには必ず意味がある筈だ。だったら、まだ希望は潰えてはいない。そのとき彼女は、ほんの小さな可能性の芽を見つけたような気がした。


「ミスティならば、魔法で私を眠らせておくことも出来た筈よ。でも、私はここにいる。それはまだミスティが迷っているから…いいえ、私が自力で門を越えて追ってくるのを待っているのよ」


 それが真実であるか否かは分からない。ミストリア本人を除いては答えられない。しかし、まだ可能性があるのならば、御幸の陪従が定まっていないのであれば、自分を向こうへと、希望へと通してほしい。


 それは願いのようであり、要求のようであり、そして脅迫でもあった。誰にも知り得ぬ天人地姫の意向を盾に、法を捻じ曲げて門を通せと言うのだ。たとえホーリーデイ家の者であっても、その横暴は通らないだろう。ただし、門番がオヒトでなければ。


「…分かった、門を開けるよ」


 それは彼女にとって文字通り最初の関門、まだ何も解決した訳ではないが、それでも力ずくでこじ開けた一歩であった。


 いや、もしかするとオヒトは最初からそれを待っていたのかも知れない。黙って成り行きを見守っていた兵士の中には、開門に異議を唱える者もいたが、彼は毅然とそれを跳ね除けた。


「国王陛下が皇帝の前で仰ったことだ。御幸の陪従は天人地姫のさだむること…しからば、彼女はその要否を受命せねばならない。それを阻むことは王命に背くものと心得よ」


 くして北の大門は開かれた。彼女は待ちきれずに兵士と一緒になって門を押すと、やがて開いた隙間に身体を滑り込ませ、オヒトに礼を告げて向こう側へと消えていった。


「レイニー、旅を終えて帰ってきたら、そのときは君を……」


 後ろでオヒトが何かを叫んでいたが、街道をひた走る彼女の耳には届いてはいなかった。

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