プロローグ 4-2


「…レイニー、まだ起きてる?」


 扉を叩く音と自身を呼ぶ声にレイネリアは意識を覚醒させた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


 あの後、夜宴の式場を抜けて部屋に戻り、つい寝台に横になったのがいけなかったのだろう。扉の向こうからは先ほどの行為が繰り返されており、これでは確認というよりも起こしていると言った方が正しかった。


「…寝てる」


 返事をした時点で答えは明らかなのだが、とても起き上がる気にもなれず、随分と投げやりに答えてしまう。それにしても、一体どのくらい眠っていたのだろうか。夜宴が終わりミストリアが戻ってきたのであれば、それほど時間は経ってはいないかと思われた。


「ねえ、少しだけ話がしたいの」


 扉の向こうから響く声は、いつもよりも張り詰めたようにも感じられた。思い返してみれば、会場での行為はまるで避けたような…いや、完全にそのものであり、気不味い事この上ない。


 しかし、夜宴は御幸の式典を兼ねるものだ。即ちミストリアの出立は明日となる。このまま道理の通らぬ感情に流され、時間を無駄にしている暇などなかった。


 寝台に沈む身体と気持ちを奮い起こし、待ち人の立つ扉を開ける。ミストリアは彼女を見て安心したように微笑むと、招きに応じて部屋の中へと入った。どうやら先ほど披露していた白無垢から、いつぞやの淡黄蘗うすきはだの寝具に着替えたようだ。


「もう、急にいなくなっちゃうんだから」


 勝手知ったる我が部屋のように、慣れた様子でお気に入りの椅子に腰掛けると、ミストリアは頬を膨らませて抗議の声を送った。その様子からは本当に不安だったことが窺えるのだが、普段の仕返しとばかりに少しだけ意地悪をしたい気分になった。


「その割には随分と来るのが遅かったみたいだけど?」


 ミストリアは視線を落とすと、参列した諸侯の子弟への挨拶で遅れたことを詫びた。無論、彼女はそれを理解しており、むしろ表向きの主役である自分が離席したことの方が問題である。


「ごめんね。今日はレイニーのお祝いなのに…」


 それは聞きようによっては嫌味とも取られ兼ねないが、どうやら彼女がそのことに腹を立て、会場を出て行ってしまったと考えているようだった。本当のところは、彼女自身にもその理由はよく分からないのだが、今はしおれた様子のミストリアを少しでも安心させてあげたかった。


「違うわ、お酒を飲んだら少し気分が悪くなったのよ」


 それは嘘である。ハナラカシア王国では飲酒に対する年齢制限はないが、慣習として成人までは控えることが一般的であった。しかし、彼女はそれに手を付けようとはせず、参列者から勧められてもやんわりと断っていた。


「もう、お酒は程々にね。大事な身体なんだから」


 そうしてミストリアが冗談めかして笑う。しかし、彼女の胸に去来してくるのは、今回もまたそうなのかという虚脱感であった。ミストリアは、或いはミストリアだからなのか、時折自分にホーリーデイ家の女であることをいようとする。


 自分の一番の理解者の筈なのに、そうであると信じているのに、そこだけは他の誰かと変わらぬことに、どうしようもない失望と諦念を抱いてしまうのだ。


 ミストリアが自分を大切にしてくれるのは、庇護してくれる当主の娘だからか。それとも自分の娘をそうしてくれる未来の当主だからなのか。それは極めて現実的ではあるけれど、然様さように利己的な関係でしかないのであれば、果たして人と天人地姫を繋ぐのが使命などと言えるのだろうか。


 自分とミストリアの関係はそんなものではない筈だ。確かに女同士だから、男女のそれのように契りを結ぶことは出来ない。でも、自分たちの関係は決してそれだけで測れるものじゃない。そんな簡単に割り切れるものではない筈なのだ。


 彼女の心中で憤りと嘆きが、それに先導された多くの感情が渦を巻いていた。一方で、ミストリアはただ黙ったままである。それは彼女の胸中を察しているようにも感じ取れたが、その葛藤を受け止める気はないようであった。


「私も一緒に連れて行ってほしい」


 あまりにも不用意に、そして不自然に出た言葉に、誰よりも彼女自身が驚いた。ずっと言えなかった言葉は、藁にも縋る思いで紡ごうとした希望は、想像していたような劇的で情熱的なものではなく、日常の会話の中で不意に出た失言のように彼女の口から漏れていた。


 しかし、言ってしまった以上は仕方がない。もとより産みの苦しみとしてここまで棚上げしてきたものである。この機を逃しては永遠に伝えられないと悟った彼女は、尚も黙するミストリアに向けて言葉を重ねた。


「天人地姫の御幸に、ミスティの旅に私も同行させてほしい」


 言葉の紛れがないように、曖昧ゆえの逃げ道を残さぬように、彼女ははっきりと自身の希望を述べた。その瞳は真っ直ぐとミストリアを捉え、もはや誤魔化しの効かない強固な意思を感じさせた。


 やがてミストリアは、この話題を避けては通れないと観念したのか、真剣な眼差しを彼女に返すと、ようやくその重い口を開いた。


「危険な旅なのよ。いつも宿が取れるとは限らないし、盗賊や魔物に襲われることもある。貴族の物見遊山とは違うのよ」


 しかし、彼女は首を振った。その程度のことは想定済みだ。王国を北上し、帝国を抜け、教国にまで至る旅路は、半年近くの期間を要し、いくら街道が整備されてきたとはいえ、決して安全なものではなかった。


「もしものことがあったらホーリーデイ家はどうなるの。あなたの家族を悲しませるようなことはしたくないわ」


 しかし、彼女は首を振った。我が家には自分よりもずっと優秀な妹がいる。それに家族はもう随分と前から、彼女が旅の同行を希望していることに気が付いていたらしい。それというのも、歴代の嫡子の多くが御幸の陪従を申し出てきたのだという。


 自分たちが全力で想いをぶつければ、天人地姫もまた必ずそれに応えてくれるのだと母は言った。もっとも、殆どの者が旅の途上で挫折しており、他ならぬ母自身もそうであったらしいのだが。


「歴代の当主たちにもそれなりの備えがあったわ。でも、あなたには武芸も魔法の才能もない。それでいったいどうやって自分の身を守ろうというのかしら」


 流石さすがにその物言いには返答にきゅうした。自分が何も出来ないことは、自分が一番よく知っている。ミストリアに助けられながら、足を引っ張りながら、ただ一緒にいたいという理由だけで付いていこうというのだ。


 いつもの彼女ならば、とてもではないがそんな厚顔無恥な真似は出来ない。しかし、先ほどの言葉にはどこか引っ掛かる点…そう、聞き覚えがあった。


「武芸でも魔法でもない、特別な力が私にはあるんでしょう?」


 それは演習の夜に穹廬きゅうろで聞いた慰めの言葉だ。それを引き合いに出すことは少し卑怯な気もしたが、今更手段を選んではいられなかった。それは存外とミストリアの心に響いたらしく、何やら神妙な面持ちを浮かべながら言葉を漏らした。


「…なぜ、望んだときには来ず、望まぬときには来てしまうのよ」


 それはどこか遠くに向けているような、彼方の空間か、星霜の時間か、ミストリアが自分の知るミストリアではなくなってしまうような、そんな漠然とした不安感を彼女に抱かせた。しかし、それも束の間のことであり、やがてミストリアは我に返ったように彼女を見詰め直した。


「レイニーの気持ちは分かっていたわ。でも少しだけ、私にも考える時間がほしい」


 どうやらほんの僅かではあるが、希望が先へと繋がったようだ。ミストリアにしてもずっと前から彼女の想いに気が付いていたのだろう。とはいえ、出立は明日である。いや、既に今日になっているのかも知れない。彼女は逸る気持ちを抑えながらミストリアに頷きを返した。


「じゃあ、もう夜も遅いから部屋に戻るわね。おやすみなさい」


 ミストリアは就寝の言葉を告げると部屋を出て行った。いや、行こうとしたのだが、淡黄蘗うすきはだすそを掴む手に阻まれていた。言わずもがな、それは彼女であった。


「…どうしてなの?」


 ミストリアが驚愕の表情を浮かべる。それは珍しく冷静さを欠いているようであったが、彼女はその不自然さに気付くことはなく、むしろ自分のした行為に驚いた様子であった。


「いや、明日にはもうここにいないのだから、その、せめて今夜くらいは…」


 その続きは掻き消えてしまったが、ミストリアは全てを理解した様子で肩を竦めると、先ほどまでのいぶかしむような表情を引っ込め、いつぞやの慈愛に満ちた笑顔を向けてくれた。


「やれやれ、いつになってもレイニーは甘えん坊ね」


 彼女は懸命にそれを否定したが、その赤く火照った顔を見れば真偽は明らかであった。やがて二人は寝台へを進めると、跳ね上げられた寝具の中に潜り込んだ。


「こうして一緒に寝るのは子どものとき以来ね」


 屈託のない笑顔を浮かべるミストリアを見て、彼女は幼き日のことを思い出していた。もう随分と昔のことになるが、あの頃は何を考えるでもなく、ミストリアに抱きついたり、一緒に寝たりすることが当たり前だった。


 それが変わってしまったのはいつからなのか。どうして出来なくなってしまったのだろうか。物思いにける彼女であったが、次第にミストリアがすぐそばにいることが実感されてくる。


 金糸のような髪が寝台の上に乱れ、横を向く翡翠の瞳が自分を見詰めていた。衣ごしに豊かな双丘が上下し、甘い吐息が顔をくすぐる。今この瞬間が幸せであることをいつか悲しんでしまうくらい、ミストリアは綺麗だった。


 それを意識した瞬間、唐突にミストリアの非接触の障壁が作用した。彼女は弾力性のある不可視の壁により、寝台の支柱に強く押し付けられてしまう。


「ちょ、ちょっとミスティ…、痛い、痛いってば。早くこれ引っ込めてよ」


 彼女の懇願に慌てながらもミストリアはあの穹廬きゅうろのときのように、自ら彼女に触れることで障壁の作用を解除した。しかし、先の作用が発動するまでには些かの時間差があった。そして、その前にも同様の現象が起こっていたのだが、彼女自身はまだ気付いてはいなかった。


 それから二人は寝具にくるまいながら、やれ使用人の誰それが付き合ってるだの、やれ王都に行列の菓子店が出来ただの、年頃の少女らしく他愛のない話に花を咲かせていた。


 久しぶりにゆっくりとした時間が二人の間を流れていた。だが、やはりどうしても心はそこに引き寄せられてしまうのか、やがて彼女は旅のことを口にしていた。


「それで明日はいつ旅立つの?」


 ミストリアは言葉を濁しながら、正確な時間は決めていないが、必要な準備が整い次第、出発することを告げた。原則的に天人地姫の御幸は秘匿されており、母からも旅の見送りは屋敷の敷地までと言われている。ミストリアの返答次第では、これが二人で過ごす最後の時間となるだろう。


「王都の城門って大きいよね。朝にはもう開いてるのかな?」


 彼女たちが住む王都オハリダは、王国の政治と経済の中心地であり、外周を高い壁で囲われた城塞都市であった。四方には大門が設けられ、日中のみ通行が許されており、まずは北門を出て街道沿いに北上し、帝国との国境を目指すことになっていた。


「ツキノア領か、もうオイワ将軍には会いたくないな」


 王国の北部、帝国との国境付近には五大諸侯の一角、ツキノア家の領地がある。の家が外交を担っていたのは、その立地が帝国との玄関口にあたり、元を辿れば弁者べんしゃとして交渉の窓口となったからである。しかし、残念ながら現代にはその才は引き継がれなかったようである。


「帝国って王国よりもずっと広いよね。通り抜けるにはどのくらい掛かるのかな?」


 帝国は周辺国家を征服しながら領土を拡大しており、今では大陸の中央部に広大な版図を誇っていた。タカチホへの御幸はヌーナ大陸を北に縦断する旅路となるが、王国と接する南側の国境から北側の教国との国境まで、徒行では数ヶ月を要することが予想されていた。


「教国って天人と地姫を祀る国なのよね。ミスティが来たら大歓迎してくれるんじゃない?」


 いつしかミストリアからの返事はなく、代わりに可愛らしい寝息が漏れてきた。どうやら途中から一人で喋り続けていたようである。ミストリアは逆向きに眠っているため、残念ながら寝顔を拝むことは叶わなかったが、自然と幸せそうな表情が思い浮かんできた。いや、今こうしている自分こそが、最も幸せな笑顔を浮かべていることだろう。


 何にせよ、全ては明朝に決まる。ミストリアには断られるかも知れないが、ここまで来たらもう強引にでも付いていこうと決めていた。やはり、自分の気持ちに嘘は付けない。彼女は気を引き締め直すと、そっと瞳を閉じて深い眠りの中へと沈んでいった。

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