プロローグ 1-3


 軍事演習はまるで両軍が示し合わせたかのように、同時に放たれた無数の矢によって幕を開けた。それは神々しくも一切の慈悲を許さぬ天の裁きのようであり、虚空に放物線を描いた後、矢尻を翻して大地へと舞い降りた。


 標的は無残に貫かれ、原型すらも留めないだろう。陣幕の者たちがそのような凄惨な光景を想像する中、レイネリアはただ黒衣だけを見詰めていた。


 やがて、先陣の矢が標的に到達しようとした瞬間、まるで時が止まったかのように空中で静止した後、傾きをへんじて地面へと突き刺さった。その現象は後続の矢にも伝播でんぱし、気が付けば両方向から放たれた無数の矢は、まるで初めからそうであったかのように、黒衣の足元へと無造作に散らばっている。


 陣幕の者たちも前線に立つ兵士たちも、しばし目前の現象に理解が追い付かず、ただ呆然とその光景を眺めていた。


「未投射の障壁です」


 静寂に包まれた陣幕の中で清廉とした彼女の声が響く。ただ一人、現状を把握している人物の言葉に誰もが耳を傾けずにはいられなかった。


「ミストリアの魔法です。弓矢だけでなく、手槍や投石などの投擲とうてき行為全般に対応しています」


 にわかには信じ難い内容に陣幕内がざわめく。皇帝も国王も口を閉ざしてはいたが、臣下の動揺を抑えるまでには至らないようだ。やがて、幕僚を代表して老魔術師が彼女に問い掛けた。


「いつ、これほどの障壁を展開したのですかな」


 両方向から放たれた無数の矢を弾く障壁など、如何いかほどの魔力と時間を費やせば成し得るのだろうか。帝国の魔術顧問を務める老魔術師の疑問は、帝国だけでなく王国側にとっても同様のようであった。


 そのような直接的な詮索に対し、彼女は返答にきゅうしていた。自身はこの障壁の仕組みをほぼ正確に理解しているが、何も正直に手の内をさらす必要はない。しかし、皆の視線が先の矢の如く、痛いほどに集まっていることを感じ取り、仕方なく差し障りのない範囲の開示でその場を凌ぐことにした。


「最初に申し上げたとおり、ミストリアは常在戦場でございます。障壁もまたしかりです」


 その何とも掴み所のない返答に、老魔術師は一瞬、驚愕の表情を浮かべて彼女を凝視する。しかし、すぐに元へ直ると再び視線を荒野に戻した。彼女は内心、不遜な態度を取ってしまったかと気を揉んだが、存外その言葉は的を射ていた。


 陣幕の者たちは、彼女の発言の真偽を計り兼ねているようだが、それは暗殺に対する警告とも推察された。事実、魔術師は程度こそ違えども、自らに対して恒常的な防性魔法を施すことは決して珍しくはなかった。


 いずれにせよ、弓矢に対して防衛策を講じているのであれば、近距離まで接近して斬り伏せるか、それを上回る攻性魔法を放つしかない。それは前線の指揮官も痛感していたようで、次の瞬間、帝国兵の間から炎の弾丸がほとばしった。


硝煙弾雨ファイア・バレッド


 帝国の魔術師が得手とする火属性の攻性魔法である。第1師団エフェソスには約三百名の魔術師が配属しており、集中運用による一斉掃射はこれまでに多くの城砦じょうさいを陥落させてきた。帝国にとっても切り札とされる虎の子の部隊であったが、それをたった一人を相手に用いることに、もはや一片の躊躇ちゅうちょもないようである。


 一方で、王国軍は帝国軍の動きを静観していた。王国でも市井しせいには多くの魔術師が暮らしているが、帝国軍のように組織化されてはいない。それが帝国と王国の戦力差の一端でもあったのだが、王国は魔術師を軍属として徴用することには消極的であった。


 迫りくる炎弾の嵐を前にしても、黒衣はまるで気付いてすらいないかのように、何らの動きも見せないでいた。やがて、到達した炎弾が標的を覆い尽くそうとした瞬間、先ほどと同様に空中で静止し、吹き消されるように霧散消滅してしまった。


 再び、陣幕内の視線が彼女に集中する。このに及んでようやく、なぜ彼女が皇帝の傍らに控えているのかを理解されたようだ。天人てんじん地姫ちぎと呼ばれる人智の及ばぬ存在、ミストリアをるのは彼女だけなのだ。


「不干渉の障壁です。攻性魔法に対応した障壁で、火属性以外の四大属性にも効果があります」


 皆の驚愕の視線が以前にも増して突き刺さったが、もはや彼女はそのことを気に留めてはいない。今回の一件には承知し兼ねる部分も多々あるが、こうして天人てんじん地姫ちぎの力を衆目に晒した以上、出来得る限りその威光を喧伝しようと方針を切り替えていた。


 もとよりそれが彼女の一族の御役おやくであったし、たとえどれほどの言葉を紡いだところで、天人地姫の本質には及ばぬことも理解していた。


 両軍の弓矢と魔法を無力化し、尚もその力の片鱗を見せない超常の存在。神代しんだい人代じんだいくさびを打つ半神半人の巫女、天人地姫ミストリア=シン=ジェイドロザリーの存在が、王国が独立を保ち、帝国が大陸全土の統一を断念した、唯一にして絶対不可避の理由であった。

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