件5 井戸屋殿
私は、急ぎ、旅籠を飛び出した。
「直ぐに帰るで候!」
私は、陽が沈む前に、先程の通りに出た。
消失点上にあった、井戸屋が気になる。
そう、虫の知らせがあった。
少しの坂を物ともせずに走る。
先程の井戸屋が、何やらニヤついて髭などを触っている。
怪しいが、私の勘が先だ。
「うおおお、上の井戸屋殿!」
遠くの井戸屋は、オレンジ色の夕陽を背に立ち上がった所だった。
鞄に水筒など、帰り支度はしっかりしてある。
「すれ違う所だったで候」
「どなたですか?」
振り向かずに、井戸屋が長い白髪を纏めていた。
「拙者は、拙者は……」
そこから、言葉が音にならない。
私は、ヌクミ。
柴田温実と奏でるだけなのに、唇を噛んでばかりだ。
ふと、代わりに井戸屋が振り向いた。
私は、爪先から天辺まで見られている気がする。
「その顔、ほどほどバストの体つき、拙者そっくりで候!」
私の容貌を持っている方が、このメルーナ国にもいる筈だと探していた。
それは、TSしているから。
きっと磁石が引かれ合うように近くにだ。
最初に井戸屋がニヤついていたのは、これか。
綺麗なお姉さんが井戸屋を隣でやっているのを知っていたのだろうな。
とは、自画自賛。
「拙者と言われても、知りませんよ」
おとぼけ戦隊、退治してくれる。
プロレス、ボクシング、マットの上では負けられないよ。
「夫の美樹くんで候?」
私は、はしたなくもビッと指差してしまった。
「では、妻の温実ちゃんだと言うのか? 俺の体になっているが」
「誠で候。三行半のショックでこのメルーナ国へ来たで候」
私は、身振り手振りで説明を続けた。
自説は、合っている筈だ。
「そのとき、何かのアクシデントで、美樹くんは私の体になったと考えられ、私が美樹くんの体になったと考えられるで候」
私は、あのオオサンショウウオの衝撃的な三行半を思い出していた。
別れるなんて、なかったことにならないか。
少々のお茶の支度で、ぶうぶう不平不満を言っていたのかな。
ミリヤさんは、あくせく働いていた。
私は、家に閉じこもり過ぎたかな。
病気持ちの主婦とはいえ。
散歩でいいから、外へ出ないとね。
馬の桶を持ったとき、爽快だったし。
「元の世界へ戻って、美樹くんとやり直したいで候……」
「温実ちゃん? やり直すだって?」
美樹くんが私の肩を抱いた。
小さく、「ごめん」と、聞こえた気もした。
「そう言えば、三回唱えてと聞いていなかったか?」
「候! 候!」
――私達は、声を揃えた。
「デイジー! デイジー! デイジー!」
「……はい、どうされましたか?」
声の主の美麗さで、先程の方だと分かる。
女神様かな?
「元の世界には帰れないで候?」
「帰れますよ。ちょっと老けますが」
弾む女神様の話に、私の心は赤いうさぎさんとなって跳ね回った。
「大丈夫、おうちに行きたいで候」
「よろしくお願いいたします」
夫婦TS状態でやはり元に戻れるのか、若干の心配はあった。
「では、少々、寝たふりをしてください。はい、お目目を瞑って。いい子いい子よー。女神様の言う通り! ポピプ?」
それから、ふわふわと平泳ぎにしてみてた。
暗闇の中。
方向を知らせるランプに従って戻る。
ああ。美樹くんも同じ所にいるのかな?
「美樹くーん」
「……おー」
ぼちぼち元気そうだ。
それにしても、ゆっくりと長い夢をみていたような気がする。
メルーナ国の人々は優しかった。
自身の劇的なボディメイクに驚いたものだ。
緑色の背表紙、中の浜辺の音や潮の香りが今にも手に取る程近い。
ああ、早く家に帰って、二人で寛ぎたい。
◇◇◇
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます