件4 読了の彼方に

「その本を拝読したいで候」


「シバタ様が、この本を? 博識なのですね。私は、文字が読めません」


 苦笑いをする旅籠の娘は可愛らしかった。


「どうも縁のある者の匂いがあるで候」


「分かりました」


 ミリヤさんが、わざわざ踏み台に乗り、取ってくれた。


「この本は、宿賃にと置いて行かれたのです」


「ほう、埃も払って、丁寧に扱っているで候」


 表紙をよく探った。

 タイトルが見当たらない。

 シバタ・ミキとだけ書いてある。


「緑色の装丁が印象的で候」


 私は、緊張して、表紙をめくる。

 はらりっと見返しは水色であった。

 何か深い意味があるのか。

 タイトルが書かれていないから、これが本当の無題なのだろうか?


「拝読いたす」


「では、お飲み物でも」


 ミリヤさんは、優しい井戸水を置いてくれた。


 ◇◇◇


 ――本には、こうあった。


 自分は、ある浜辺に深い想い出がある。

 想い出は一人では虚しいものだ。

 そのとき、自分と共にいてくれたのは、妻だ。


 妻は、持病があって、入退院を繰り返している。

 だから、薬を欠かしたこともなく、子どもを作るのを控えている。

 自分のエゴで、危険な行為はできない。


 ここは、長い長い海岸で有名な所だ。

 別荘地も密やかに点在する。

 自分は、ここに別荘を建てた。

 建物は、プレハブだけれども、一人前の土地と上物だ。

 東京とうきょうからのドライブも楽しめる。

 中々の環境にある。


「新しい薬が合わなくてね、沢山吐いたり下痢したりしたよ。今は三十九キロしかないよ」


「自分がキュートなビキニを見立ててやるからな。別荘に行こうよ」


 自分は、ビキニにミニパレオ付きの水色のセットを選んだ。

 海岸の稜線に緑の山が萌えていて、水しぶきが冷たく跳ね上がる。

 妻の瞳がキラキラと輝いていた。


「ありがとう……。きっと、今夜できると思うよ」


 自分は、誰もいない浜辺とはいえ、頬にキスをされた。

 あたたかく彼女の瞳から涙が伝わって来た。

 遠距離恋愛五年半、結婚三年と、自分は妻を感じていたが、その日のキスは、特別だったと思う。


 ――二か月後、妻からテレビ通話がかかって来た。


「どうした? 何かあったのか?」


「赤ちゃんができたの!」


 自分は、仕事先だった。

 もう、恥ずかしくて仕方がなかった。

 しかし、それより大切なことがある。

 自分と妻との間に、天使が舞い降りて来てくれた……!


「うちに帰って、お祝いしような。電話はまたね」


 その日、妻の大好きなコリスサブレを買って帰った。

 お腹の赤ちゃんに聞こえるかな?


「おー、早く嫁にはやらないと言いたいな」


「気が早いですよ」


 自分が、タンポポ茶を妻に支度した。

 二人で飲むあたたかいお茶。

 心の奥まで、ほかほかになっていた。


 明日もがんばる。

 自分は、明日も妻と子の為にがんばると決意した。


 ◇◇◇


 私は、ここまで読んで、胸の痛みを感じた。

 読み終わるまで、時間も掛かりそうだから、旅籠の部屋を借りて読むことにした。


「必ず返すで候」


「ごゆっくり」


 部屋のベッドに腰掛けるとずっと読んでいた。

 

 妻と呼ばれる人との毎日の楽しいことや悩みごとが綴られていた。

 それは、長い日記のようでいて、小説の体裁を取っている。

 九十九里浜の話を含め、様々に私の記憶と合致する。

 私は、この書物に登場する妻なのかどうか。

 そして、本当に、シバタ・ミキが書いた書物なのか。

 確かめるように読了に至った。


 最後の一行にあったのは、オオサンショウウオを飼い始めたとだけあった。

 どういう意味だろか?

 私は、省みた。

 果たして、家にオオサンショウウオがいたのかどうか。

 オオサンショウウオとは何を指しているのか。

 疑問に思ったのはそこだ。


「シバタ・ミキに会って確かめたい」

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