件3 危ない背表紙
ええと、普通は言語が通じる筈だよね。
私は、旅籠でテーブルの周りをあくせく働いている娘に目をやった。
案の定、向こうから微笑みで返された。
や、やばい。
私、目が泳いでいるよ。
「おはようございます。シバタ様」
「おはようございまするで候」
まするで候なんて、可笑しいな。
くすっとか笑われているし。
「朝食にパンとワインがございますが」
「申し訳ござらんで候。ワイン以外の飲み物を所望するで候。拙者は喉が乾いて候」
あー、何この翻訳がひどいよ。
「パンを包みまするね。通りに井戸屋の水売りがおりまする。ミリヤの旅籠だと仰ってくださいませね」
「ミリヤ殿まで、言葉を拙者に合わせてすまないで候」
私としたことが、何て恥ずかしいんだ。
「世話になった。ミリヤ殿、宿賃とパン代はいくらで候」
「シバタ様は、前払いと仰って、旅籠屋には十分な程いただきましたでソウロウ」
前掛けの似合うミリヤさんが、手を拭って、カウンターへ行く。
手に腰袋を大切に持ち、私に渡してくれた。
なんだろう?
この流れからすると、金銭か。
「ただ、八日も眠っていらしたので、ご心配をしておりソウロウ」
「ええー! もうソウロウ、止めよう候」
私は、勇気を出して喋ったが、精悍な肉体と言葉がお子様だったのがギャップになっているようだ。
これは、失態だ。
早く、水で喉を潤おそう。
「ありがたき。拙者は何者か分からなくなり候。夢を長く見過ぎたか省みるで候」
冷たく硬い今のドイツパンのようなものを預かり、金子を懐に木戸を潜る。
「行って来るで候!」
◇◇◇
ああ、通りにある井戸の前に座っているのが、井戸屋だな。
よく見れば、長い通りの消失点にもある。
あら、目がよくなったこと。
私の装備は赤い眼鏡だけれども、夫は裸眼だからな。
よく見えるものだね。
手前の井戸屋に声を掛ける。
「水を売って欲しいで候」
「一杯かね?」
髭を蓄えたオヤジの言う通りでいいか。
本当は沢山飲みたいけれども。
私は首を縦に振った。
「馬の桶一杯か?」
「何と不埒で候!」
私は、バカにしないでよと叫ぶ所だった。
おかまになってしまう。
「ミリヤの旅籠だろうよ? ミリヤはその水からお兄さんに飲み物を作ってくれる。さあ、行け。お代はそれか。今日は気分がいい。要らんて」
「ありがたいで候」
私は、軽く頭を下げた。
ひょいと持てたのはその桶だ。
馬の桶一杯の水を旅籠まで持って行った。
せっせっ。
せっせと。
はい、筋肉野郎の体で助かったわ。
木戸の前で、桶を担いだまま、立ち止まる。
「ミリヤ殿、参ったで候」
「まあ! 重たいのに、持って来てくださったのですか?」
それが目的ではなかったのでは。
策士ですか。
「まだ、夕食前ですので、休んでくださいね。さあ、中に入って」
「それには、及ばざらんで候。出立するで候」
「まあ」
「その前に、水を一杯欲しいで候」
私は、カウンターに手をついて、人差し指を立てた。
「分かりました」
ミリヤさんが木のマグを私に差し出した。
んー。
少し、香りがするな。
この辺りは水質が良くないから、レモンでも入れたのかな。
「いただきますで候」
くっと飲み上げ、マグをカウンターに置いた。
――そのときカウンター内にある棚の上に一冊の本を見付けた。
どうということのない書物だった。
背表紙は、緑色で、文字は何となくしか読めない程度だ。
でも、読み取れたのは、作者の名前。
「シバタ・ミキ……!」
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