第367話 何でもない冬の日々・その二
「ふー……」
「ああ……」
エリスはユンネに教えてもらったストレッチを、ここ最近は欠かさずに続けている。しかし一向に効果は現れてくれない。
「痛みが募るばかりで何にも変わんないや……」
「……」
自分に対する肯定感が瞬く間に薄れていってしまう。
それを引き留めたのは、扉を開く音であった。
「エリス、ただいま。さっき百合の塔に寄ってきたんだが、苺が届いていたぞ」
「お帰りアーサー。今すぐ苺をわたしによこしなさい」
「はいはい」
「ワンワン!」
アーサーとカヴァスが入ってきて、いつも見かける木箱をリビングの机の上に置く。
鈍い音がするのもお約束。開けるとみっちりと苺がお出迎えしてくれるのも号令行事だ。
「はうぅ~。おいひい~」
「お前が真っ先に食べるのも普段通りだな」
「だってお腹が空いちゃうんだもん。じゅるり」
「ワオン!」
ほんのりと降る雪を背に、文明の恩恵を堪能しながら苺を食べる。
「いや~あったかいなあ。魔術空調がなかったら、わたし達こんな生活できてないよ」
「昔の人はもっと原始的な方法でやってたもんな。魔法だって魔法使いに頼み込んで、対価と引き換えに得ていたものだ」
「いい時代になったなあ」
「……」
だんだんとお腹がいっぱいになってくると、
少し真面目なことを考えてしまう。
「……ねえアーサー」
「わたし……剣術の訓練、やってみたいな」
突拍子もなく突然なことを言われたので、セイロンが入ったティーポットを落としかけそうになるアーサー。
「……そのリアクションはなくない?」
「ごめん。本当に悪かった。でも予想外だったのは事実だぞ」
「ワンワン……?」
エリスを心配しているのか、カヴァスが飛び乗って密着してくる。
「何かそう思うに至ったことがあったのか、とカヴァスは訊いているな」
「……それは」
「……内緒」
一瞬ためらって出てきた答えがそれかと、アーサーは若干ずっこける。
「でも、他でもないお前の頼みだ。演習場は混んでいるから島でやろう。あの訓練場の出番だ」
「ありがと」
というわけで島。イザークがここについて来そうになったが、急いでルシュドやハンスに押し付け逃げるように到着。
「うううー、寒い。寒すぎるよー」
「そんな重装備じゃ剣は触れないぞ」
「重装備って……」
もこもこの上着に分厚いセーター、更にその中には長袖を一枚着込んでいる。
「じゃあこの……コートだけは脱ごう」
「まあ、お前がそれでいいのなら。それじゃあこれを手に持ってくれ」
武器庫の中から木剣を二本取り出し、片方をエリスに渡すアーサー。
手に持った直後にエリスはしかめっ面をした。
「うわっこのっ……中々重いね」
「軽かったら敵の肉体を斬り裂けないからな」
「むぅ……」
振り回せない重さであると言い聞かせて、エリスはぶんぶん上下左右に振ってみる。
「その木剣で丁度1000グラムだったかな。800グラムだったかもしれない」
「えー、木なのにそんなにあるのー……?」
「鉄とか鋼だと軽く数キロは超える。だから、気軽そうに見えて案外大変なんだぞ」
「はへぇ……」
ウェンディという騎士が如何に努力家で素晴らしいかと、重々思い知った。
「重さに引っ張られて身体があらぬ方向に行くこともある……というわけで、体幹を鍛える訓練も実は必要だったりするんだ」
「そ、それはまた後で受けます。とりあえず素振りしよ?」
「ん? ああ、そうだな。身体を動かさないと寒い寒い」
だんだんと早口になっていったアーサーを見て、若干唖然としたエリスだったが、
彼が隣に立ったのを受け、剣を構える。
「素振りは闇雲に剣を振るんじゃない。ある特定の位置まで剣を降ろし、そこでぴたっと止めるようにするんだ。勢いを止めるのには筋力を伴う」
「そっから筋トレに繋がってっちゃうのかぁ~」
「そうそう、かなり筋肉は使うぞ。わかっていると思うがゆっくりではなく素早くだ。先ずは十回、やってみよう」
アーサーは手を鳴らす。エリスも気合を入れ直し、言われた通りに剣を振る。
「やあっ……!」
「はあっ!」
彼が口で言う以上に、腕への負担は大きい。
勢いを止めた瞬間、それが腕に回って負荷を与えてくるのだ。
その負荷すらも素早く受け止め、また剣を素早く振り上げる――
たった十回であっても、慣れていないと体力消費は凄まじい。
「ぜぇ……はぁ……」
「お疲れ。どうだった?」
「ど、どうだったって……見ればわかるでしょ……」
顔を真っ赤にして、深い息を何度も吐きながらエリスは水を飲む。
「これを百回も……あと九セット……」
「そこまで言ってやっと訓練開始だからな。でも今回は、もう打ち込みに回るとしよう」
アーサーはエリスの正面に立ち、横向きに剣を持つ。
「これを真っ二つにする勢いで……飛びかかってみてくれ」
「よ、よーし……」
ずるずると数歩下がって、じっくりと距離を確認して、
助走を行う。軽快に走った後は、
右足で高く飛び上がって剣も上に振りかざす。そのまま重力に引っ張られて落下――
「むんっ!」
「きゃあっ!?」
アーサーが構えた剣に自分の剣が命中すると、
弾き飛ばされて尻餅をついてしまう。
「ったぁ~……」
「単純に筋力が足りなかったな。オレの力に押し負けたからこうなった」
「……そうだよね」
「急に武術に転向するなんて……やっぱ無理だよね……」
それを言われて、何故エリスが急に剣術の訓練がしたいと、言い出したのかわかったアーサー。
「……まだ魔法が使えないから、魔法以外の戦闘方法でやろうと思ったのか」
「……うん」
彼女が魔力増強に奮闘しているのは、当然アーサーも知っている。そしてその成果が中々出ていないことも。
「周囲から理解されていたとしても……やっぱりやだよ。みんなができていること、わたしもできないってのは……」
「……筋はよかったぞ」
俯く彼女が顔を上げられるように、アーサーは前向きなことを伝えることにした。
「……そうなの?」
「ああ。素振りの構えとか飛びかかる姿勢とか、初めてやったにしては整っていた。身体に叩き込んでいけば様になるだろう」
「……今後も訓練する前提で話してる」
「一回やっただけで諦めるのは違うと思うぞ。筋力がないと嘆くなら、レーラさんとかウェンディさんとかどうなんだって」
「……」
確かにと腑に落ちるエリス。ほんのり気分が上向きになった。
「……何だか、本当に剣術って悪くないかもって、思ってきちゃったじゃん」
「やるならオレは幾らでも手を貸そう。最高の師匠が側にいるぞ」
「やぁだぁ、自分でそこまで言う~?」
「ワンワーン……」
ほっとくんじゃねえと言うように、カヴァスが不貞腐れながらアーサーの身体から出てくる。
「ワオン?」
「今後の予定か? うーん……エリスはどうしたい?」
「アーサーが訓練したいって言うなら、わたしは付き合うよ。最高の師匠様のフォームを間近で観察させていただきますっ」
「おおっ、そう言うならオレ頑張っちゃおうかなー」
伝説に謳われる騎士王と、それを発現させた主君。
紛れもなくそれが、二人の関係性の進展を阻んでいるのは、言うまでもない。
「――♪」
「おー、誰かと思ったらサタ子じゃん。おいっすおいっす」
昼食休憩の休み時間、この日のリーシャは早々に食事を済ませ、宿題に精を出していた所だ。
「むむー、スノウのリイシアにどんなご用なのですっ」
「担任のナイトメアとして見に来たんでしょ。何でそんな敵対心もりもりなの~」
「スノウのかわいさがうすれる気がしているのです!」
案の定そんなことだったと、可笑しくなってリーシャは微笑む。
「むにー! スノウにとってはしかつもんだいなのでーす!」
「~」
「なのですっ!? ぽ、ぽんぽんが、優しいのです……!」
「♪」
教師としての威風を漂わせるサタ子を見ていると――
彼女の本当の主君が教室に入ってくる。
「やあ皆ー、俺が座れる席あるかなー?」
「それならあっち空いてますよー。リーシャの隣ですー」
カツレツ丼の乗った皿を持ってきて、ヘルマンがリーシャの隣に座る。サタ子は行為を中断して彼の元に向かった。
「先生こんにちは~。私今宿題やってたんですよ」
「リイシアはまじめさんなのです! えっへん!」
「そうかそうか! 立派だな! で、科目は何なんだ?」
「魔法学でーす。いやー最近、授業の内容が難しくって。帰った後に取り組むだけじゃ追い付かないんですよ」
あひる口で羽ペンを挟みながら、リーシャはご機嫌に肘をつく。
「魔法はイングレンスの基幹文明だからな。四年生以降に繋げる為にもしっかりと教え込まないといけない……リーシャは氷属性だよな?」
「そうでーす」
「じゃあ属性魔法学はあの人になるのか。とってもいいじゃないか」
「誰なんですか?」
「ハンナ先生だよ」
やったあと小さくガッツポーズをする。
「いいよなあ、課外活動も勉強も面倒見てもらえるなんて。実は俺もそうだったんだよ」
「というと、アドルフ先生ですか?」
「その通り! 俺はあの人に出会って、人生が変わったも当然なんだ」
「いい出会いですねぇ~……」
その後暫くの間、リーシャは黙々とペンを動かし、ヘルマンは黙々と箸を動かし、スノウとサタ子はきゃぴきゃぴと戯れていた。
「……そういえば先生ー」
ヘルマンが食器を片付けようとした所を、リーシャは逃さぬように質問する。
「どうした? わからない問題でもあったか?」
「宿題は問題ないんですけど、それ以外で。魔法学の授業で妙な話聞いて……」
リーシャが伝えたのは、魔力の喪失についての質問だった。
「ああ……『翼を失った竜』のあれか?」
「先生も知ってるんですか?」
「流石に出版から半年以上経っているからな……マイナーな戯曲だったけど、それなりに広まって魔術師の耳にも入っている。魔力喪失理論は、帝国時代に非人道的実験の果てに証明された、そういう意味では有名な魔術理論の一つだ」
「……非人道的」
「例えば人間は飲まず食わずでどれぐらい生きられるかって検証を、奴隷を連れてきて本当にそのようにしてやった。同じノリで魔力を致死量限界まで喪失させた実験例があるんだ」
「おーこわ……でもそういう実験のおかげで、私達の生活が成り立ってるんですよね……」
「それがわかっているなんて、リーシャはよくできた二年生だなあ。ってのはさておき……」
「その実験においては、異種族の特徴は消えると同時に、記憶も喪失することが証明されてるんだ」
信頼している教師からの情報。リーシャはそれを得られてかなり手応えを感じていた。
そのまま向かうは薔薇の塔――
(……ハンスはああ言ってたし、一理あるけど)
(でも私は気になる……心の奥底で、なーんか妙に引っかかるんだよね……)
「わあっ!?」
「うおっ! ルシュド、いい所で会った!」
今から呼びに行こうと思っていた相手だったのだ。二人は放課後で賑やかなロビーで鉢合う。
「お、おれ、何か?」
「ルシュドに訊きたいことがあってさー。カフェでドリンク奢るから、訊かせてもらってもいい?」
「いいけど……何だ? おれ、答えられる?」
「答えられるよ。訊くのは昔のことだもの」
ちゃっちゃとカフェでカプチーノを購入した後、彼は答える。
「昔……おれ、ろくなこと、なかった……」
「えーと……竜族の特徴がないからいじめられてたってやつ?」
「うん……人間、竜族、皆そう……おれ、劣等……」
言葉に詰まる度彼はカプチーノを啜るので、リーシャのよりも減る速さが早い。
「皆、おれのこと、嫌い……優しいの、姉ちゃんと、竜賢者様。それだけ」
「……他に優しくしてくれた人もいなかったんだよね?」
「いない、そんなのいない。皆、おれ、優しくない……」
「友達なんてのもいなかったんだよね?」
「うん……遊びたい、おれ。でもみんな、いじめる……」
「んっと……ルイモンドさんだっけ? も、違うよね……」
「……」
「……ルイモンド、誰?」
「……えっ?」
「お、おれ、ルイモンド、知らない、そんなの……」
互いが手にしていた中身のないカップが、握力を加えられて変形する。
「……竜族の族長さんだよ。身体的特徴がないからといって、優しくしてもらえるようなこともなかったんだよね?」
「……」
「うん、なかった……」
「ルイモンド、父さん、おれ、の……父さん、優しくない……そうだった……」
「……」
露骨にリーシャが顔を顰めていたので、ルシュドは若干青褪める。
「あ、あの、おれ、何か悪いこと、言った……?」
「え!? 全然そんなことないよ!? 私、今そんな表情してたかな。ごめんね!」
次は何を訊こうかと考えた瞬間、
リーシャは思考するのをやめた。
「なあ……昔のこと訊く、何で?」
「昔、振り返る、いいこと、何もない。昔、後ろを向く、いけない。前を向く、大切」
――この島の島民、村人共は全員そう言ったよ
我々に慈悲があるだなどと、そんな幻想に喰らい付いていた
――まあこういう展開における、定石というものだな
物がないなら身体で支払え、連れて行くぞ
「……」
今度はリーシャが青褪めた表情をしたので、ルシュドは一周回ってきょとんとする。
「……リーシャ? 大丈夫? 質問、止めてもいい」
「……え、あ、ごめん。私の方から訊いてきたのに、心配させちゃったね」
「別にいい、問題、ない。というか、そろそろご飯」
「それもそうだね。じゃあ私、これで失礼するわ! また明日!」
「うん――また明日!」
二人は歩みを進めていく。
その記憶から後ろめたさを抜き取って――
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