第530話 幕間:オレリアとイアン
ざわざわと店が立ち並ぶ大通り。そわそわと水の流れる音を聞きながら、イアンは偶の休日を満喫していた。
と言ってもやることは、ベンチに座って買ってきたサンドイッチを片手に街を眺めることぐらいだが。
「……」
人の流れをよく観察すれば、自分の行いが正しいということを実感できる。
こうして町が栄え、人々が行き交い、経済が回っているのも代々グロスティ商会として尽力してきた成果だ。
今の繁栄は全てとは言えないが、自分達の功績である。自分は正しい――
「……ん?」
そのような人込みの中に、見知った顔がいるのを発見した。
いや、厳密には髪の色が違っていたが、それでも姿は見慣れている。
彼女もまたこちらの視線に気付いたのか、真っ直ぐ近付いてくる。
「……イアン様。ご機嫌麗しゅう。今日もいい天気でございますね」
オレリア。最近自分が重用している使用人であるが――
普段はこげ茶色の髪が、今日は深緑。サングラスを外して出てきた、瞳の色も青から紫に。鋭い瞳も今は垂れ下がって穏和に思えた。
「君も……今日は休日だったな」
「はい」
「……だから髪色を変えているのか?」
「いいえ、これは地毛です。瞳も同様です」
「地毛……だとすると、君は」
「はい。私は沼の者の出身です」
「……」
「隣に座ってもいいですか? サラダサンドを購入したので」
「ああ……構わない」
普段とは違う感覚である。
互いに毎日見慣れているが、休日という形で会うことは今まで一度もなかった。
「……六年前だったか。突然アリアの奴が、こいつは使えるとか言って強引に使用人にさせた」
「ええ。あの頃はこうして働くことに抵抗がありましたが、今はこの仕事以外考えられなくなりました」
「……その時流れていた噂が、アリアが沼の者を倒したという話だ。沼の者ともあろう君が、あいつに負けたということか?」
「アリアさん……だからだと思います。あの人はナイトメアですから。私が何度毒を撃ち込んでも倒れず、終いにはこちらが先に果ててしまった。最もその頃は、一族の為に成果を上げないといけない使命感に駆られていて、戦うにしても冷静にできなかったというのもあります」
「そうだったのか……」
「アリアさんは私を利用しました。沼の者を打ち負かしたとすれば、誰も彼女に逆らおうとは思わなくなる。そう利用した上で私を生かしてくれました」
「そして私の元に寄越したと」
「……何で生かしてくれたのかも、何で貴方の下で働かせたのも、全然わからないんですけどね」
「彼奴のことは私が一番よくわかる。大方メイド服が似合うとか、生足が美しかったとか、そんなことだろう」
「生足……ああ、そんなことも言っていた気がします。一族の女はこれが普通だって言ったら、とても驚かれて」
「……」
ふむと唸って考え込むイアン。サンドイッチを持った手がぶらりと垂れ下がる。
「どうされました?」
「いや……生足が美しいと言うのなら、服飾のモデルという路線も考えられると思ってな」
「モデル……ですか?」
「有名人が服を作り、また違う有名人がその服を着こなして絵にしてもらうというのが、ウィーエルの方で流行っているらしい。アリアも半分は興味からだとは思うが、そちらについて積極的に調べて回っている」
「ミセス・グリモワールの影響ですね。確かにアリアさんそういうの好きそうです。そして今話題にしたということは、イアン様も興味を持たれているということですよね?」
「そうだな……グロスティは総合商会だ。先鋭的な物を取り入れ、安定させて流通させるのが仕事だ」
「ならば魔法音楽は?」
薄々感じていた。
流行と口にした以上、これを出されるだろうと。
「……あれは愚民の娯楽だ。これ以上あんなものが流行ったら人は堕落する。喧しいあの音を聞いたらいつ狂ってしまうか「御託はいいんですよ」
笑顔を保ったまま、けれども若干の意思を宿して――
オレリアは続ける。川の潺が際立って聞こえてきた。
「ご子息……イザーク様が好きな物だったから、関わるのが嫌なんでしょう?」
「……」
「あんな失敗作が好きだったもの、勉学に励まなくなっていった原因だから、露骨に嫌っているのでしょう?」
「……貴様は。貴様は、彼奴のことを口に出さない、優良な奴だと思っていたのに」
「毎日掃除していたら、気付いちゃうものは気付いちゃいますよ。日記とかが山程出てきましてね……」
「……」
嫌な話題を切り出されるので、ベンチから引き上げようと思ったが――身体が動かない。
「……何をした」
「影縫いです。沼の者に伝わる暗殺術の一つ……悪いようにはしませんから、お話しましょう?」
「話すことなど何もない」
「ありますよ。今私が述べたこと、それすらも御託なんでしょう?」
「……」
「奥様……イザーク様のお母様は、彼を産んだと同時に亡くなってしまった。母親がいなくなってしまったから、父親である自分がしっかりしないといけないって、そうお考えになられた」
「……」
「けれど自分は今まで仕事一筋の人間。突然親の役割をしろと言われても無理があって……中々それができずに苦しんでいた。それでも親にならないといけなくて、その結果仕事を押し付けるようなことになってしまった」
「……それも日記にか?」
「はい」
「そのようなことを書いた覚えはない」
「だんだんと立派な子に育てないといけないという使命感が強くなって、当初の本音を忘れてしまったのでしょう」
「……」
川の潺は、人の思いを体現するかのように、緩やかに流れる。
「……」
「言葉にするか悩んでいるのですね」
「……何故わかるのだ、君は」
「私の……特技みたいな物です。人の表情や態度から、考えていることを察することが得意で」
「そうか、そうか。暗殺者のような特技だな」
「褒め言葉と受け取りましょう。それで、言葉にすると今までの自分を否定することになるのを、恐れているのでしょう?」
「……」
「ということはつまり、どこかで気付いているんです。イザーク様のことを認めてあげようって」
「……君は、私を恐れないのか? 主に対して無礼だとは思わないのか?」
「無礼なら何度も働いてきました。刃を向けることで。今もある意味そうですね」
「……」
潺に紛れて煩いあの音色が流れてくる。
それを聞いてとうとう観念した。
「……事実だ。君の言ったことは全て。だが、それでどうなると言うのだ」
「……」
「もう彼奴との関係は改善できん。今更理解し合うことなぞ不可能だ」
「一度で改善しようと思っているから、そうなるんじゃないですか?」
グロスティ商会長たる彼の語彙力で、その衝撃を例えるならこうだ。
『青天より霹靂が落ちる』。
「雨垂れは石を穿つ。一つの河川が幾年にも流れ、そうしてリネスの町は出来上がった。人間関係もそれと同じですよ。それは貴方もよくわかっているはず」
「……」
「グロスティが築き上げてきた信頼関係。それは昨日突然出来上がった物ではなく、長年の積み重ねである。今見ているこの風景だって、そういった苦労があってこそ美しく映えている」
「……」
この、オレリアという女は――
どうしてここまで、自分の事情に対して、親身にしてくれるのだろうか。
「家族は一緒にいるべきだと思うんですよ」
「何も言ってないぞ」
「顔に出ていました」
「……」
「私の父は仕事……暗殺の途中で死にました。母はあの制圧戦の時に。両親が死んで私以上に、妹が悲しんでいた」
「……」
「そんな妹すらも私は見捨ててしまった。任務の為とはいえ……あの子に辛い経験をさせてしまった。私はそれが……嫌なんです」
「……ならば帰る選択もあったろうに」
「私は殺されている人間です。それはあの子も同じように認識していますから……」
ふと見ると、彼女の腰元には、武器の入っていない短剣用の鞘が差してあった。
「……その鞘は?」
「私が愛用していた短剣を入れていた物です。この中身は、あの子に渡しました」
「……そうなのか」
「あの子に生きてほしいと思って。私は何処かで元気にやっているから、貴女も元気でやってほしいって。あの子がグレイスウィルに入学しているって聞いた時、そう決断しました」
「死んでいると思われている所に、生存を報告すると」
「沼の者は任務の失敗が死を意味します。でも私は……アリアさんに生かされて、生への執着を思い出してしまった。もっとこの世界で生きて、あの子に会いたいと思ってしまった」
「アリアの賜物、か」
そう言って目を閉じる。
「……君達は姉妹仲がいいんだな」
「ええ。幼い頃は互いに一番の遊び相手でした」
「それなのに、会うことは到底叶わない」
「そうとも言えますね」
「……私はその気になれば会いに行けるのに、彼奴との仲は最悪だ」
「……」
「任務の失敗が死……いや、違う。イングレンスに生きている限りは誰だってそうだ。次に会う時は死体になっている可能性だってあるんだ……」
「その際に、ずっと後悔を抱えることになるのは……耐えられない」
耐えられなくて思わず立ち上がる。
いつの間にか影縫いは解けて、すっと立ち上がれた。立ち上がれると思っていなかったのでよろめいてしまう。
「っと……」
「すみません、ちょっと長かったですね」
「いや……いい。君にこうして本音を話せた。それだけで……報われた……」
「……イアン様。ああっ」
彼の身体が触れてしまい、オレリアが持っていた買い物袋の中身が落ちる。
それは花の模様の便箋であった。
「……手紙を書くのか」
「はい。折角だから定期的に便りを出そうと……そうだ、イアン様も一緒に書きましょう。どうすれば気持ちが伝わるか、一緒に考えていきましょうね」
「……できるだろうか、私に」
「できなければどうか頼ってください。アリアさんに私もいます。トシ子さんもだって喜んで協力してくれますよ」
「そうだな……そうだ……な……」
あれだけ髪を慇懃に整えるような男でも、泣きたい時は泣く。
「……幸せ者だな、私は」
「それだけ多くの人が、貴方に幸せを分けてもらっているからですよ」
「……思えば君は昔に比べて、よく笑いよく喋るようになったな」
「貴方に幸せにしてもらえたからですね」
「ははは……」
「ふふふ……」
昼下がりの道を揃って歩く。
館に戻っていく途中で、関係性は普段の、厳格な主従関係に様変わり。
けれどもその中には、確固たる信頼が築かれている。
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