第4話

 大五郎の散歩は、行火が、祖母のソネの家に泊まらせてもらうお礼として請け負った手伝いだ。「おばあちゃんはもうお年なんだから、あなたが力になってあげないとね」という母の言葉に従って仕事を求めた行火に、ソネは少し悩んでから、犬の散歩を提案した。

「こいつは大五郎。十歳のオス犬だ」

 ここに来た当日の夜、庭に面した窓をあけてソネは彼を紹介した。ふんふんと鼻を鳴らして近寄ってきた茶色い雑種犬に、行火は思わず歓声をあげた。

「こ、これ、本物の、生き物ですか? 生体型多機能端末ロボニアルじゃなくて?」

「もちろん。大丈夫なら、ちょっと触ってごらん」

 ソネは振り返り手招きした。おそるおそる近寄る。ソネの膝に顎を乗せてうっとりしていた大五郎は、行火に気づくとぱっと顔を上げた。

「こいつは噛んだりしないから安心しな。まずは手の甲の匂いをかがせてやるんだ」

「え」

行火は瞬きをした。ソネは、じっと行火を見ている。仕方なく、行火はソネの隣に膝をついて、おっかなびっくり右手の甲を黒い鼻先に近づけた。濡れた感触がして、うひゃあ、と悲鳴をあげてしまい、ソネに笑われる。

「そうそう、それがあいさつ代わり。で、犬が満足したら手のひらを上にして、あごから頬を触る。そう、上から手をもってくんじゃないよ。びっくりするからね」

 ゆっくり伸ばした指先で、みっしりとしたやわらかい毛とその奥にある熱を感じる。たどたどしく撫でていると、大五郎は鼻づらを行火の手にぐいと押し付けて、肉厚な舌でべろりと舐めた。口の中にぞろりと生えそろった牙が見えて、思わず手を引っ込める。

「うわあ」

「はは」

 ソネはめずらしく声を上げて笑い、立ち上がると、玄関から赤いリードを持ってきた。リードの付け方と持ち方、くさりの外し方、それから散歩中のマナーを丁寧に説明する。

「散歩コースって決まったもんはなくて、だいたい三十分くらい、行きたい方向へ歩かせてやって。気が済めば、自分で家に帰ってくる」

「……わかりました」

「あと、こいつは茂みでフンをするから、それはきちんと拾ってくること」

 行火がぎょっとした顔をすると、ソネはまた笑った。

「散歩用のバッグにビニール袋があるだろう。それ越しに掴んで、こう、裏っ返すと、ほら、触らなくても大丈夫」

 ソネは実際に一枚ビニールを取り出して実演してみせる。理屈は分かるが、たとえビニール越しでもフンを手で触るというのは、抵抗があった。顔に出ていたのだろう、ソネは苦笑して、ならトイレットペーパーも持っていくといい、といった。

「フンの上にペーパーを重ねて、それでつかめば、そこまで気にならないよ」

「……すみません」

「いや、何が大丈夫で、なにがダメかってのは、人によって違うもんだ」

 無理してやることもないよ、とソネは言った。行火はハッとして首を振る。

「いえ、大丈夫です。やらせてください」

 少しだけ強がって、行火は胸を張った。そうして始めて今日で三日目。犬の散歩なんてはじめてだったけれど、今のところ、順調にこなせていると思う。


「そういえば今日、散歩の途中で、渡良ってやつに会いました」

 回想を止め、行火はパンに手を伸ばした。ちぎったバターロールからはふわりと小麦のいい香りがして、食欲をそそる。まだ固いバターをなじませるように塗りながら、行火は小声で聞いてみた。

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