4-7 拭えぬ疑い

■■■


「ごちそうさま」


 どんぶりの前に静かに箸を置いて、姫奈は呟いた。

 居間には彼女一人しか居らず、いつもなら賑やかな食卓も、今日は静かだ。


「リリアンさん、結局昼まで帰って来なかったな」


 姫奈は壁に掛けられた時計を見る。正午はとっくに過ぎており、午後2時を回っていた。

 テーブルの上の携帯電話を手に取り連絡のチェックをするが、通知はない。


「連絡くらい入れなさいよもう、依頼も来てるっていうのに」


 姫奈は発信履歴から宗治の名前を選択すると、再び通話を試みた。

 呼び出し音が繰り返される。

 数秒後、微かなノイズとともに聞き慣れた男の声が聞こえてくる。


『――しもし? ごめん姫奈ちゃん! ちょっとゴタゴタしてて連絡取れなかったです!』

「ごめんじゃないわよこの赤もやし! 今何処で何してるの!?」


 姫奈は片手でがたんと机を叩いて立ち上がると、ありったけの怒声を携帯電話にぶつけた。

 その声に対して響いてくる宗治の声は比較的落ち着いており、現状をはきはきと伝える。


『隼弥生と森の中で接触しました。今は彼とその仲間と港町にいて、これから3人で竜の洞窟に向かいます』


 その言葉を聞いて、姫奈は「はぁ?」と呆れた声を上げる。


「3人? たった3人でやれるわけないじゃない! 相手は凶暴な竜なのよ!?」

『今は一刻を争う事態だ。姫奈ちゃんの気持ちは分かるけど、仲間を集めてる時間なんてないんだよ』

「それは……そうだけど」


 姫奈はそう言うと、2階に繋がる階段の方を見る。この先で、上で大切な幼なじみが苦しんでいることを思い出す。

 最悪、兄と同じ道を辿ってしまうこともありえる病。あるいは人殺しと化す可能性もある。悪化する前に治療しなければならない。

 それがもし、間に合わなかったら。

 最悪の事態を想像してしまいそうになる自分を振り払うように、姫奈は居間の出入り口に背を向けた。

 少しの沈黙の後、携帯電話から宗治の声が響く。


『どうか、僕たちを信じてくれませんか?』


 優しく柔らかい声が、姫奈に語りかけた。

 携帯電話を握る手とは逆の片手をきゅっと握る。

 そして、少女は震えた声で問いかける。


「どうして……どうやって他人を信じろっていうのよ」


 大切な人を何人も失った少女。

 失いたくないという思いが人一倍強く、だからこそ人を頼るのが怖かった。

 頼り、寄りかかってしまうことで、失ったときの悲しみも大きくなってしまう。

 姫奈はそれが怖かった。


「龍斗を助けるために真田が死ん――戻って……戻って来なかったら、元も子もないのよ」


 少女は詰まりそうになる言葉を小さな体から一生懸命に吐き出した。


『隼弥生はさ、俺の幼なじみだったんだ。一緒に行く坂上さんは隆一……隼弥生の仲間だし、心配ないよ』


 幼なじみ、という単語に姫奈の心が揺れ動く。

 そして、孤独だった少女の、今最も信頼している人物の名が電話越しに響く。


『姫奈ちゃんは、龍斗くんを信じるのに理由がいるのかい?』


 ――そんなの。


「ズルいよ、真田」


 少女はゆっくりと深呼吸をすると、静かに瞼を閉じた。


 ――そんなこと言われたら、何も言えなくなるじゃない。


「アンタにとって隼弥生がそういうヤツなら、もう仕方ないじゃん」

『ありがとう。必ず戻ってくるよ』


 その言葉をさいごに、通話は途絶えた。

 少女は携帯電話を握る片手を下ろして、その場に立ち尽くす。


 もしも彼女の中の失う恐怖と信じたい想いが天秤にかけられていたとしたら、丁度釣り合っている状態だろう。

 だが、ほんの少し指をかけただけでも、それはぐらりとバランスを崩して恐怖の方に傾いてしまうかもしれない。

 そうなってしまえば、きっと平常心を保つことなど出来ないだろう。

 それほどに、少女の心は危うい状態だった。

 姫奈は携帯電話の電源ボタンを長押しする。

 真っ暗になった画面を見つめながら、姫奈はぽつりと呟く。


「戻って来なかったら、死んでても許さないから」


 電話の役割を果たさなくなったそれは、空のどんぶりの横に乱暴に放り投げられた。

 少女はテーブルの前にぺたりと座りこむ。


「いい加減にしてよ、もう」


 姫奈は、じっと耐えた。

 今にでも叫びたくなりそうな想いを、溢れそうになる涙と一緒に無理矢理引っ込める。

 そして、ゆっくりと深呼吸をすると、口角を上げて呟く。


「全く、どいつもこいつも心配ばかりさせて」


 姫奈はいつも、耐え続けていた。

 龍斗が盗賊を倒しに行くと言ったときも、彼の想いを聞き入れ、引き止めたい気持ちを押さえつけた。

 本当は心配で、怖くて、また大切なものを失ってしまうのではないかという不安を抱え続けていた。

 そうやって耐え続け蓄積されたものが今、彼女の中で限界値に達そうとしていた。


「――……っ。」


 ダンッと両手でテーブルを叩く音と同時に、少女の叫びが部屋中に響く。


「待っている方の気持ちなんて、アンタ達には分かんない!!」


 そう叫んだ直後姫奈ははっとなり、乱れる呼吸を整えようとゆっくりと息を吐いた。

 2階で眠る少年のことを思い出し、姫奈は心を乱し吐き出してしまった言葉に後悔する。

 案の定、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。


「ど、どうした?」


 寝巻き姿の少年が居間を覗き、驚いた表情で姫奈に尋ねる。


「ごめん、起こしちゃったね。何でもないよ」


 姫奈は、作り笑いでそう言った。

 が、幼馴染の彼はそう簡単に騙されるわけもなかった。


「だから、無理に笑ったら不細工になるって言っただろ」


 龍斗は姫奈の向かいで腰を下ろすと、いつものように気怠そうに頬杖をついた。


「やっぱり龍斗には、嘘つけないね」


 姫奈は貼り付けていた笑顔をやめ、ゆっくりと目を閉じ、長く息を吐く。

 そして、少し意地悪そうな顔で言う。


「さすがのエスパーさんだこと」

「……それはもう忘れてくれ」


 龍斗は恥ずかしそうに目を伏せた。いつもクールに振る舞っている龍斗のそんな顔が面白くて、姫奈は思わずふふっと笑った。


「病人からかって喜ぶとか……お前悪趣味だな」

「だってあんたの顔、面白いんだもん」


 そう言葉を返して静かに肩を震わせて笑う姫奈。龍斗は呆れた表情で、そんな彼女を見ていた。

 リリアンも宗治もいない、二人きりの昼下がり。一見すると、和やかな少年少女のとりとめのない会話。

 しかし、少年は深刻な病に侵され、少女には心の葛藤があった。

 いつものように笑ってはみせても、当然、二人はその事実を忘れていたわけではない。

 姫奈は、改めてそれを再確認するように龍斗に尋ねる。


「で、身体の調子はどうなの?」


 うーん、と天井を見ながら考えた後、龍斗は答える。


「身体は問題ない。ただ……」


 「ただ?」と訊き返し、姫奈は首を傾げる。

 龍斗は、姫奈を真っ直ぐに見て、言う。


「兄さんが夢の中に出てきたんだけど、そこで言ってたことが引っかかってる」


 ――悪夢に影響されてる。


 悪夢症は、悪夢を見せ続けることで、精神的に感染者を苦しめる。

 特に、感染者自身が恐れていることを夢として見せる。

 姫奈は、そんな悪夢に呑まれそうになっている龍斗を諭すように言う。


「悪夢に騙されちゃダメよ?」


 一方の龍斗は、頷きながらも納得仕切れないような表情をしていた。


「分かってる。分かってるけど、気になるんだ」


 あれだけ悪夢症には屈しないと言い張っていた龍斗が、ただの悪夢と割り切れずにいる。

 悪夢に飲まれて彼の心が壊れないように、ただの悪夢だと一言言って元気付けよう、姫奈はそう考えた。

 そしてついに、少女は訊ねる。


「どんな夢だったの?」


 姫奈は龍斗の返答を待つ。


「兄さん、こう言ったんだ」


 少し間が空いてから、龍斗は言葉を放った。


「赤い髪に琥珀色の眼を持った男には、気をつけろって」

「…………」


 姫奈は、言葉を失った。

 やはり彼女の中に浮かんだ人物も、龍斗のそれと一緒だった。

 ただの悪夢だよ、などと一言言って元気付けてやりたかったところが、何の言葉も発せなくなった。

 それは、姫奈の中でも龍斗と同様に、以前からその人物に対して疑問を抱いていたからかもしれない。


 真田宗治とは、何者なのか。

 何故、龍斗と姫奈は、宗治が黒である可能性を拭えないでいたのか。

 二人の間で暗黙のタブーとなっていた会話が、今初めて交わされる。


「やっぱり3年前の、政光隊の――」

相牙そうが。赤い髪に琥珀色の眼を持った、冷酷な殺人鬼」


 龍斗が言いかけたところで、姫奈は口を開いた。

 そして眼を合わせないまま、少女は続ける。


「幸民隊隊長だったアタシのお父さん――美山翔を殺した男」


 一つの悪夢が、二人の疑いを増幅させた。


「可能性としてはありえるから、あの人には気をつけた方がいいかもしれない」

「……そうね。でも」

「でも?」


 姫奈は言いかけて、龍斗の目を見た。

 強い憎しみを抱いた、鋭い目。

 テーブルの上のどんぶりに目を落とし、静かに言葉を紡ぐ。


「今の関係を保って、少し様子を見た方がいいかもしれないなって。だって――」


 ――だって、真田はそんな人には見えない。


 そう言いかけたが、姫奈は龍斗の目を見るとそれが言えなかった。


 ――真田は、殺人鬼なんかじゃない。絶対にそんな風になれる人じゃない。


 少女は、柔らかく、頼りなく歪む琥珀色の目を何度も何度も思い出す。

 そうやって彼への拭えぬ疑いを、これまでの平穏な日常で塗り潰そうとした。


 ――アタシの知ってる真田宗治は、そんな罪を犯す人じゃない。

 ――頼りなくて、だけど強い人。そうだよね?

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