第24話 おじさんの10年

 わけがわからないまま、僕はリビングに通されると促された通り素直に革張りのソファへと座る。

 おじさんが僕の対面に座ると、モモちゃんは『お茶淹れて来るね』と奥に続くキッチンへと消えて行った。

「さて、どこから話たものかなぁ」

 胸のポケットから煙草を一本取り出して火をつけ、ふぅ~~とため息を吐くように長く白い煙を吐き出したおじさんは背もたれにどっかりと背中を預けた格好になる。

「ああ、それよりも突然呼び出して悪かったね。他に予定があったなら申し訳ない事をした」

「いえ……用事なんて特にありませんので……」

「そうかぁ。いや先週の日曜に桃が帰りたくないって人様の家で駄々をこねてると聞いてね。じゃあボクから言いましょうかって桃の携帯に電話したら……懐かしい声が聞こえて来たので本当にびっくりしたんだよ。小和田さん、お元気そうで何よりだよ」

 そっか、お母さんと電話で話をしたのは一ノ瀬のおじさんで。

 だからお母さんは『モモちゃんのご両親に会え』と言ったんだ。

 おじさんだから僕の家の場所は知っていたし、特に説明しなくても真っすぐに迎えにこれたんだ。

「おじさんは……ちょっと痩せましたね」

「はっきり言ってくれていいんだよ、老けたねって」

「いえ、そんな事は……」

「いやいや。もうボクも初老の域になろうかと言う年齢だからね。体力は落ちるしあちこち痛いしでこれでも大変なんだよ?」

 深く煙草を吸うと先端がチリチリと赤く光って、それから僕にかからないよう注意深く煙を吐き出すと、おじさんは次の話へと移る。

「まぁ、ボクの体の事を話したくて来てもらったわけじゃないんだよ。分かってると思うけど、桜の話だ」

「はい……」

 この人を玄関で見た時からきっとそうだろうと思っていた、今日の本題。

「これ、聞かせてもらったよ。誠一君には悪いと思ったけどね」

 あの日掘り返した僕と桜のタイムカプセルの中に、僕の書いた手紙を入れなかった桜が代わりに入れたあのICレコーダーを、おじさんは僕とおじさんを隔てているテーブルの上にことりと置いた。

「誠一君が持っていると、もしかしたら衝動に駆られて壊したりしかねないから、って桃が持って帰ってきていたんだ。それと、これも。ああこっちは封を開けていないから安心して」

 さらに、桜色の封筒をICレコーダーの隣に置くおじさん。

「そう……ですか」

 そういえばタイムカプセル……と言うかその中身はどこに行ったんだろう? って思ってたけどモモちゃんが保護してくれていたのか。

 そのモモちゃんはティーポットと人数分のティーカップを持って戻ってきて、手際よくハーブティーを注いで振舞ってくれる。

「パパ、まずはどうしてパパがここにいるのかを話さないとセイちゃんずっと飲み込めないままだよ?」

「お、そうだったそうだった。まぁ平たく言えば『再婚』したんだよ」

「再婚……」

 あんなに自分の奥さんと娘を愛していた人が、そんな簡単に自分の愛を捨てられるものなんだろうか?

 それともモモちゃんのお母さんがおじさんの愛する人達よりもずっと愛する価値のある人だったんだろうか?

 恋愛未経験者の僕には再婚しようと決意したおじさんの気持ちがちっともわからなかった。

「誠一君も顔を合わせた事ある人だよ、桃のママ」

「え?」

「今買い物に出かけてるから、きっと見ればわかるわ」

「そっか……」

「ああ、それでね誠一君。『一ノ瀬』と言うのはボクの前の奥さん……麗子の姓なんだよ。ボクは一ノ瀬不動産に入社して、そこで本家の跡取りだった麗子とボクが結婚する事になったんだけどね。その時本家から出された条件が『婿養子になる事』だったんだよ」

 じゃあ、綿貫と言う表札に記載されたモモちゃんの姓が、おじさんの元の姓なのかな。

「でも、一ノ瀬の家の女性は代々、ほとんどが短命でね。麗子や桜の命を奪った癌……子供を産むための内臓器官に巣食う悪性腫瘍を遺伝的に発現するのがその理由だそうだ。これも結婚する時に本家の……桜のおじいさんから聞かされていた話なんだよ」

 どうして?

 どうしておじさんは『もしかしたら早くに死別するかもしれない』と分かってて、それでも結婚すると決意したんだろう?

「はは、納得がいかないって顔してるな。まぁ無理もないかぁ。ん~そうだなぁ……」

 大きくて重そうな陶器製の灰皿に煙草を押し付けて火を消すと、おじさんはモモちゃんが淹れたお茶を一口すする。

「好きだから、だとしか言えないねえ。仮に自分が愛した人が近い将来自分の手の届かない場所に行ってしまう運命だとしても、それを受け入れて、その分他の人の何倍も凝縮された幸せをお互いに享受出来ればそれでいいじゃないか、と。長いから深い、なんて事は無いし、その逆に短いから浅いって事もない。簡単に言えば『今をしっかりと生きているか』だよ誠一君」

「今を……しっかり……」

 そのおじさんの言葉は未だ桜と言う……いや『僕の中の初恋の女の子像を凝縮させた桜と言う存在』に捕われ続けている僕の心に重くのしかかってくるのがわかる。

 10年前からある程度桜には見透かされていた僕の今。

 確かに、自分から主体性を持って行動する事は稀で、他人の意見に反対をせず、与えられるがまま与えられての10年。

 じゃあ自分が相手に何かを与えた事がひとつでもあるか、って聞かれたら。

 本気で誰かと向き合おうとしなかった僕はたった一つですら答える事が出来ない。

「ただいま~………あ、もう来てるのね!」

 玄関の扉が開く音がして、モモちゃんの声をちょっとだけ低くしたような声が響く。

「おかえりー」

「ママ、おかえりなさい」

「はーいただいま……っと。あぁ、やっぱり貴方が『セイちゃん』だったのねぇ」

 モモちゃんと同じ色素の薄い髪をワンレングスのボブカットにした、想定される年齢よりはずっと若く見える女性がリビングへと買い物袋をいくつも抱えて入って来た。

「あ……小和田誠一です、はじめまして」

 咄嗟に立ち上がってお辞儀をする僕に、その女性は『コラ』と一言叱責を飛ばす。

「はじめましてじゃないでしょ、よく見なさいよ。それとも………それすら封じ込めちゃったかしら?」

「えっ?」

 頭を上げてモモちゃんのお母さん、一ノ瀬(綿貫と言う方がいいのかな?)のおじさんの再婚相手の顔を脳内に記憶されている僕の記憶の中の人達と照らし合わせて……。

「あっ」

 その妙齢の女性は。

 確かに、桜の面倒を見てくれていた、あの看護師さんだ。

「……思いだしてくれたみたいね。それにしてもこんな偶然って、あるのねぇ」

「10年前は……お世話になりました」

 さっき挨拶した時よりも深々と頭を下げて、10年越しのお礼を言う。

「やめて頂戴、仕事だもの当然の事をしていただけよ……でも、ありがとうね。あ、お茶いいなぁ。ママにも頂戴」

 モモちゃんのママはそういうと一旦キッチンへ買い物袋を置きに行って、ついでに自分の分のティーカップを手に戻ってくると当たり前のようにおじさんの隣へと座る。

「で、どこまで話してたの?」

 モモちゃんの前にティーカップを差し出して中身を催促しながら話の進捗を訊ねて来る。

「ん~、ボクの初婚の時の話だよ香織さん」

「あ、じゃあまだまだなのね。良かったわぁ急いで帰って来たかいがあるわ」

 香織さんはなみなみと継がれたハーブティ―のほんわかした湯気を楽しむと、隣のおじさんに次に進めるよう促した。

「誠一君、ボクが再婚したのを不思議に思うかい? 正直に言ってくれていいよ」

「それはまぁ……桜にあれだけ愛情を注いでいたのに何でかなぁ、とは……」

 僕が一ノ瀬家と知り合った時もう奥さん……麗子さんは亡くなっていたから麗子さんに対してもそうだったのか、は分からないけど。

 でもハッキリと言ってしまうと何だか責め立てるような、綿貫家に不和をもたらすようなそんな気がして言われるままはっきりとした言葉で言う事は出来なかった。

 それが僕の杞憂だとしても。

「ははは。さっきボクは言ったね? 『ICレコーダーの中身は聞かせてもらった』って」

「はい」

「うん、これと桃の説明でボクと香織さんは今誠一君が陥っている……いや、10年ずっと沈み込んでしまっている場所から、少しでも這い上がるきっかけになればいいなって3人で話し合ったんだよ。日曜の夜から昨日の夕方までかな。結論が出るまでちょっとかかってしまった」

 そこでおじさんは香織さんの方に顔を向ける。

 香織さんはおじさんの言わんとする事を理解して、ただ一度首肯する。

「ボクだってね、麗子や桜の事を忘れたわけじゃない。忘れるなんてできやしない。毎日思いだして、心の中でいろんな出来事を報告して。そう、本当に辛かった…………。ご飯は喉を通らないし、そのせいで頭は働かないし、でも食べられない……そんな状況が続いたボクはとうとう倒れてしまってね。気が付いたら病院のベッドの上で、そしてすぐ傍に香織さんがいたんだ」

 おじさんも辛かった……?

 いや、今でも辛いまま……?

 でも、じゃあ……。

 ますます再婚した理由が分からなくなる。

「それから、ある程度回復したボクは香織さんに怒られたよ。『娘さんがあんなに必死に生きようとあがいていたのに、あの娘の親である貴方が簡単に生きる意味を見失ってどうするんだ?』ってね。だからボクは言い返したよ、『妻と娘を失ったボクの何がわかる!』って。そしたら……」

 そこからは暫く、おじさんの思い出話を受けて、と言う導入部分を経てしばらく香織さんの独壇場となった。

「私なんか妊娠中に旦那が交通事故で即死したわよ! お別れの時間がたっぷりあった貴方の方がぜんぜんマシじゃない!」

「そうそう。そうだった。香織さんは元の旦那さんを亡くしても気丈に生きていたんだよ。それはもちろんモモちゃんがいたから、と言うのは大きいかもしれないけど。彼女に言わせれば『死と向き合う場数の違い』だそうだよ。まぁそういうの医療関係者に言われてもねえ」

 苦笑いするおじさんを香織さんは『貴方はタバコでも吸ってて』と口調は軽めに、でも視線はとても凄みを効かせて諫める。

「たいていの場合、女よりも男の方が落ち込んで変な迷路に迷い込んでしまうわね、経験上。それに私だって別に誰かが死ぬことに心が麻痺してしまったわけじゃないわ。患者さんが亡くなる度、全く同じ悲しみが全身を襲うの。どうしてだかわかる?」

「わかりません……」

「正直でいいね。うん、じゃあ教えるね。だって私達看護師は、一人ひとりの患者さんに全力で向き合おうとするわ。医者は定期的に診察をして、経過を見て色々な判断をするから患者さん一人当たりと向き合う時間は極わずか。でも看護師は医者が向き合わない時間まで含めて、病院内にいる限りずっと患者さんと向き合うのよ。言ってみれば入院中の家族みたいなものかな。だから全力でお世話をさせてもらうの。桜ちゃんにだってそうしたよ。どんなに医者が回復は難しいって判断しても、他人が判断したからってそれを鵜呑みにして自分達も同じように患者を突き放す家族なんて、いると思う?」

「いえ……いないと思います……」

 僕の答えにそうだね、でも……と香織さんはさらに続ける。

「ま、中にはいるんだけどねえ。お金は出すから死ぬまで病院で面倒見てくれって言う血縁者。極々小数だけどね。でも大半は見捨てたりしないんだよ。最期の時まで寄り添おうとするんだよ」

「はい……」

「誠一君はコレを聞いたんでしょう?」

 香織さんは目の前のテーブルに置かれたICレコーダーを指さす。

「聞きました……」

「どうだった?」

「…………一言で言えば、『完全に壊れました』です」

「それでいいじゃない」

「え?」

 壊れた、ってもちろん言葉の綾で、意味は『何もやる気が起きないくらい打ちひしがれた』って事なんだけど……。

「壊れたって事は、それだけ想いが深くて本当に好きだったって事だよ。それに、誠一君のお母様や桃は、君が壊れた時それを笑ったかな? なじったりしたかな?」

「いいえ……」

「でしょう。だって桜ちゃんの事になると血相を変え、性格を変えて思い出を守ろうとするのが今の誠一君なんだよ。それってダメな事なのかな?」

「過去に捕われていたら……」

 僕がいわゆる知識だけ持っている一般論を口にしようとすると、それに食い気味に反応する香織さん。

「そういう聖人君子ヅラした偉そうな輩の戯言は良いから。そういう事言う奴に限ってさっき話した極々小数がやるような仕打ちを裏でやってるものだよ。いいじゃん、過去に捕われていたって。だってそれら全て含めて君……『小和田誠一君』じゃないのかな?」

「たまたま、誠一君を取り巻く環境にいる人があんまり桜ちゃんに関する話題を振らないと言うだけで、今後君に近づいてくる人の全てがそういう人だとは限らないでしょ? そんな時どうするの? 激怒する? 拒絶する?……ハッキリと言うけど、そんなの社会人がしていい行動じゃないよ。分別ある大人が取っていい行動じゃ、ない」

「はい……」

「まぁ最も、意図的に悪意を持って接してくる奴らはその限りではないけどね」

 そうそう明確な悪意を持って接してくる人がいるとは思えないけど……これも僕の人生経験が乏しいせいなのかなぁ。

「誠一君は完全に壊れて、10年もの間抜け出せない暗闇に陥っているんだよね。でもいいじゃない、それで。大切な人を失った悲しみはその人だけのもので、どう折り合いをつけていくかその方法が見つけられなきゃずっと悲しいままだよ。苦しいけどね」

 いい、のかな。

 悲しみ、苦しみを忘れないでも、いいのかな。

「大抵の人は、どうにかこうにかその折り合いを見つける。そうやって今を生きているんだよ。忘れたりなんてしない。そもそも君自身が苦しみ続けているのは……」

 みんな、そうなのかな。

 お母さん、敬太、義明、そしておじさんも。

 桜を失った悲しみを今でも背負っていて、それでもその事実と折り合いを自分達なりにつけたのかな。

 でも、次に続く香織さんの言葉は僕にそんな緩い考えを許さなかった。

「桜ちゃんの死に意味を見出そうとしているからじゃないのかな?」

「!!」

「それは自然現象に意味を持たせようとしているのと同じだし、残念だけど桜ちゃんの死と言う状態に対して人類全てが誠一君と同じ感情を持つわけじゃない。死は生き物全てが最後に経験する事象で、それに意味なんてないんだよ。遺された人達が無理やりにでも意味を持たせたいと思うのは分からなくもないけどねえ」

 意味、か。

 桜と言う一人の女の子が存在していたという、意味。

 それは……。

 それは、決して僕を死ぬまで自分に縛り付ける事ではない……と桜本人が語っていた。

 僕がそれを選択するであろう事を予見して。

「だから誠一君がこれから、このICレコーダーに録音されていた通り前を向いて歩いていくには、たった一つの方法しかない。いや、たった一つを実践するだけでいいんだよ」

「それはいったい……」

「桜ちゃんの死を、きちんと受け止める事、だよ」

 受け止めているから悲しくて、苦しくて、そこにいない事を嘆いてるんじゃないのか!

 でも……それは僕が我儘で強情で頑固だからそう思いこんでいるだけ……かもしれないと心のどこかでもう一人の僕が主張する。

「これは私の予想だけど、その手紙には多分そういう事が書いてあるんじゃないかな?」

「…………その先は……手紙を読んでからでもいいですか?」

 ここまで香織さんの主張を、僕なんかよりずっと『死』と向き合って来た大人の意見を聞いた僕はどうしても最後に残された桜の痕跡を確かめたいと強く思ったんだ。

「いいよ。読んでごらん」

 今までの強い、責めるような口調を一転させて優しい看護師さんの口調になった香織さんは自分の目の前にある封筒を僕に手渡してくる。

「……」

 丁寧に、桜の最期の意思を封じたシールをはいで中身を取り出す。

 桜色の便せんは一枚切りで、中で三つに折りたたまれていた。

『セイちゃんへ


 ICレコーダー、聞いてくれたかな?

 もしこっちを先に読んでいるのなら、この先は聞いてから読んでください。


 え~と……随分録音しちゃって言いたい事は全部言っちゃったからこっちは手短に。


 わたしはねぇ、幸せだよ。

 セイちゃんが文字通り毎日お見舞いに来てくれてるから。

 好きな人と毎日一緒に過ごせるって、とても幸せな事だよ。

 セイちゃんも同じように感じてくれていると嬉しいな。


 だってセイちゃんの幸せは、わたしの幸せだから。


 だから、わたしがいなくなっても幸せになる事を拒んでほしくないです。


 ずっと、見ているからね。

 セイちゃんが幸せに生きているのを、遠い所から『これがわたしの愛した人だよ』って誇らしく思えるように、そんな風に生きて欲しいです。


あなたの桜より』

 手紙は、そんな風に綴られていた。

 数日前に枯れ果てたはずの涙が、どこからか沸き起こるようにこみあげて来る。

「逃げるな! 他の何から逃げてもいいけど、自分が惚れた女からは、逃げるな! 男だろ!!」

 僕が、逃げてる…?

「桜ちゃんは誠一君に何事からも逃げる最低の男になって欲しくないから命を懸けて自宅に戻って、コレを録音したんじゃないの? 君に幸せになって欲しいから、自分に縛られて欲しくないからその手紙を書いたんじゃないの?」

 そうか。

 僕は桜の死を言い訳にして逃げていたんだ。

 家族から。

 友達から。

 同僚から。

 生きる事から。

 ……全てから。

 桜に恥じない生き方。

 そんな生き方を、僕はしていけるのだろうか……。

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