第21話 夢、あるいは回想(その6)

 おじさんから『桜が今日一時退院する』と言う連絡をもらった僕は一ノ瀬家の門の前で、病院からここまでを車で到達する時間をグーグルマップで確認し、割り出した到着時刻の5分前から待つ事にした。

でも僕が調べた到着予定時刻から遅れる事30分、ようやく見慣れた車が角を曲がってゆっくりとこちらに向かってくるのを確認すると、ほっと一人安堵する。

「ごめんね、ちょっと寄り道してたら遅くなっちゃった」

 よろよろと頼りない足取りで車を降りた桜の左手には、電気屋の小さなビニール袋がしっかりと握られていた。

「本当に退院して大丈夫なの?」

 ふらつく桜を見て本当に戻って来て大丈夫なのかなって疑問を感じた僕は第一にその事が気にかかった。

 そうは言っても昨日まで毎日病室で会っていた桜の顔は久しぶりにお日様の下と言う事もあってか随分と血色が良いみたいだ。

「うん、お医者様が『完治の可能性が出て来たから自宅にも慣れておきましょう』って言ってくれたの」

「そっか……良かった……良かった……っ」

「セイちゃん、もしかして泣いてる?」

「泣いてるよ! 嬉しいもん!!」

 しっかり立っているようでも長い事ベッドの上とそこから手の届く範囲が世界のすべてだった桜はおじさんが車を付近の月極駐車場に戻しに行ってる間の10分と言う時間、立ったまま待っているのは辛いみたいでさっきから健康な人ならなんてことないそよ風に上体を煽られてフラフラと左右にバランスを崩しては戻してを繰り返していた。

 それに合わせて束ねた髪が宙をそよぐ様はまるで桜の花びらが踊るように地面へはらはらと舞い落ちる様を僕に連想させた。

 それをずっと見ていたい衝動をぐっとこらえて、たまりかねた僕は桜の片腕を軽く持ち上げ、彼女の脇に自分の頭をくぐらせる。

「ちょ、セイちゃん……?」

「少しは男らしい事、させてよ。これならフラつかなくて済むでしょ」

「う、うん……」

 桜が元気な時でもここまで接触した事は無かったせいか、僕は自然と自分の鼓動がそうしている間中、徐々に大きく、また強くなり続けるのを意識しないわけにはいかなった。

 だって桜は僕が『女の子』として意識していて、返事は貰ってないけどその想いを拙い言葉で伝えていて、でもやっぱり僕の事を異性として意識してもらいたいって思っているから。

 だから桜が今までした事のないスキンシップを、名前の由来通りに頬を桜色に染めて受け入れてくれた事は否が応でもテンションが上がってしまうわけで。

「おーい、お待たせ……ってお前らほんと、仲いいなぁ」

 駐車場から戻って来た一ノ瀬のおじさんは僕が桜を支えて立っているのを見てそ呟いた。

「パパ、そこは『儂の目の黒い内は娘には指一本触れさせん!』って言う所じゃないの?」

 空いている片手を軽く握って、いつものクスクス笑いをする桜。

「いや、うーん……だって誠一君だしなぁ……」

「そうね、セイちゃんだもんね」

「え、何それちょっと酷くない?」

 僕のその反応を見て高らかに笑う一ノ瀬親子。

 でも僕は少しだけ拗ねて、でもおじさんが鍵を開けた門を、そして一ノ瀬家の玄関を、桜を支えながらゆっくりと進んでいく。

 一歩進む度、桜の手に握られた袋がシャリ、シャリと音を立てて僕の顔や腕に軽くぶつかる。

「わー、本当に久しぶりだぁ」

「病人なんだからあんまりはしゃぐなよ」

 勝手知ったる一ノ瀬家の中を僕はやっぱり桜を支えたまま彼女の自室へとまっすぐ向かっていって、ベッドへその主をそっと寝かせる。

「ちょっと、今お尻触ったでしょ?」

 桜が刺すような疑いの眼差しで僕を睨みつける。

「さ、触ってないから!」

「そうかなぁ、なんか感触が……残ってるんだけど……?」

 あっ。

 桜の身体を持ち上げた時もしかして……。

「寝かせるための……そう! 不可抗力だよ!」

「ふぅん……やっぱり触ったんじゃない」

「…………」

 桜には敵わないなぁ。

 何か僕いいように扱われてる気がしなくもないけど。

 でもそれでもいいやって思えちゃうのは惚れた弱みなのかな?

「あ、そうそうそんな事よりさ」

「女の子がお尻触られた事よりも大事な話?」

「ちょっとぉ!」

「ふふ……嘘、冗談。で、なぁに?」

 また片手を口に当ててクスクスと笑う桜。

 今日の桜ははしゃぎすぎでとても楽しそうだなぁ。

 入院中は当然というか、桜はいつもの笑顔をあまり見せなくなっていたし、この笑顔を今日はもう2回も見れたって事は本当に調子が戻って来たのかも。

「お母さんがね、桜の退院祝いになんでも桜の好きな料理作るって。何がいい?」

 僕が家を飛び出す前におじさんからもらった電話の内容を伝えると、そんな風に言ってくれたお母さん。

 きっと自分の娘みたいに思っているのかもしれない、娘が欲しかったっていつも言ってるし。

「そうだなぁ。おばさんの料理どれも美味しいから何でもいいんだけどなぁ」

「せっかくだし、遠慮なく言ってよ?」

「うん……じゃあ、じゃあね……」

 桜のリクエストはどれも簡単に作れるものだった。

 卵焼き。

 ハンバーグ。

 タコさんウィンナー。

「桜がそれって言うならいいけどさぁ、もっと手の込んだ料理だって全然大丈夫だよ?」

「うん、でもわたしおばさんの料理本当に何でも好きだからシンプルなものでいいよ」

 よくわからない理屈だなぁ、と思ったけど。

「わかったよ。お母さんにメールしておく」

「うんっ」

 携帯電話を取り出してお母さんに桜のリクエストを伝える文面を打つと、桜はこんな事を言いだした。

「机の引き出しの上から二番目を開けてくれる?」

「うん」

 言われた通りに引き出しを手前に引くと、そこにはいくつかの文房具類がきちんと整理されて入っていた。

「そこからね、便せんと封筒を取って。いくつかあると思うから全部ね」

「……うん」

 数種類あった『お手紙セット』は例えば水色の地にデフォルメされた魚がプリントされていたり、タンポポがオレンジ色で模られて印刷された黄色い紙だったりと女の子が好きそうなファンシー路線の物ばかりだった。

「はいよ」

 ベッドの上掛けにそれらを並べてあげると、桜は顎に手を当ててう~ん……とひとしきり悩んでからそのうち二つを手に取った。

「他はしまっていいよ」

「うん」

 僕はやっぱり言われた通り、桜が選ばなかったレターセットを元通り引き出しに戻す。

「セイちゃんは……はいこれ」

 黄緑色で、デフォルメされたカエルが蓮の葉の上で座っているデザインのレターセットを渡される。

「ん?」

 桜の意図が飲み込めずどうしたらいいのかと立ち尽くしていると……。

「手紙、書こ?」

 にこやかに言う桜。

「誰に?」

 2人でわざわざ手紙を書く相手なんて……。

「そうだなぁ…………」

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